(増補版)109C3/3:気になった事柄を集めた年表(1620年〜1624年)

題:(増補版)109C3/3:気になった事柄を集めた年表(1620年〜1624年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1621年、社会資本整備・新川通・赤堀川
  幕府が、新川通(埼玉県)・赤堀川(茨城県)を開削
 し、利根川の水を常陸川(現在の利根川の関宿・堺町よ
 り下流部)へ流した。
1621年、オランダ商館を平戸に置いた。
1621年、竹斎(ちくさい、仮名草子
  この頃、「竹斎」が成立した。名所記文学の祖。
  やぶ医者竹斎が、下僕と共に、滑稽を演じながら京の
 名所見物から東海道を江戸に下る物語。
  とんち話もある。
1622年、玉川庄右衛門(しょうえもん)が生まれた(1622
 年〜1694年)
  弟を右衛門(せいえもん)と言い、1653年から1654年
 にかけ玉川上水の開削の指揮をとった。
  江戸市民のための給水の川。
1622年7月、支倉常長(はせくらつねなが)が没した。
  仙台藩士、伊達政宗に仕えた、
  メキシコ→マドリードと渡り、通商開設と宣教師派遣
 を求める政宗の書を渡し、命による通商交渉をしたが成
 功せずに帰国した。
  政宗の行為は、キリスト教宣教師から、通商を希望す
 るならキリスト教の布教を認めて、通商を希望を求める
 形にとの話をされていた。
1622年10月、宇都宮の譜代大名・本田正純が改易された。
1623年、徳川家光が、第3代将軍になった(1604年〜1651年、
 将軍期間1623年〜1651年)
  徳川家光が参内し将軍の宣下を受けた。
  禁裏御料1万石増献(計2万石)
  徳川幕府の基礎を確立したと言われている。
1623年、大名支配・松平忠直(越前福井)が、豊後に改易
 された。
  松平忠直は、家康の孫で、父は秀康。
  家康の次男・秀康は、将軍になった秀忠の兄である。
  忠直は、将軍となるべき父だった秀康の子だった。
  (家康の長男は、家康がまだ不遇の時、家康にまだ力
 がない時に、トラブルで殺してしまっている。家康は、
 大いに嘆いたという)。
  この頃、私的な関係と公的関係への転換は、将軍家と
 徳川氏一門との間にも厳然と表れていた。
  越前松平家は、二代将軍・秀忠の兄・秀康の家で、そ
 の意味で最高の格式があった。
  家康は、何故か、秀康でなく、弟の秀忠を跡継ぎにし
 た。
  しかし、さすがに秀康(1607年に死去)一代は「制外
 の家」、つまり、将軍権力の外にある家と称せられ、
  例えば、江戸出府も気ままで、一般の大名の様に江戸
 に邸ももらわず、江戸に来ると、江戸城玄関に駕篭を乗
 り付け、二の丸に泊まるという行動をとった。
  つまり、秀康は、あくまでも将軍家の兄弟であり、臣
 従するものではないという態度を貫いたのであった。
  しかし、次の忠直の代には、その態度は通らなかった。
  忠直は、自分が将軍家の兄の家であることに強い誇り
 を持っていた。しかし、
  幕府は、その様に取り扱わなかったのが、はなはだ不
 満であった。
  ことに家康の死後、家康の子としてはるか末の第9子・
 義直(尾張)・第10子・頼宜(紀伊)が、いずれも自分
 より高い官位を叙せられたため、彼の不満は爆発した。
  彼は、連日連夜酒色にふけり、家臣の言動がわずかで
 も気に障ると、たちどころに手討ちにするという暴君ぶ
 りを現わした。
  また、参勤を怠り、あるいは突然帰国するなど、幕府
 の権威をないがしろにする態度も、日増しに増長した。
  そこで、秀忠は、1623年、遂に、忠直に隠居を命じ、
 これを豊後荻原(大分県)に配流に処した。
1623年、制度:五人組制度が施行された。
  連帯責任の制度で、相互扶助の面もあった。
  治安維持・法度の順守(キリシタン)・年貢完納など
 を連帯責任の下に置いた。
1623年、イギリスも平戸商館を閉鎖した。
  イギリス人が、損失続きのために、自発的に平戸の商
 館から撤収した。
  日本は、どうも儲からないから止めた・・である。
  インドや中国で、悪どいことをして儲けていたイギリ
 スは、その様なインドや中国の様なうまい仕掛けが出来
 ない国と判断したのだった。
  または、インドや中国で儲けているため重要性が低い
 と判断した。
  メキシコの銀山開発もあった。
1623年、アンボイナ事件が起きる。
  この年に、モルッカ諸島のアンボイナ島にあるイギリ
 ス商館をオランダが襲った。そして、商館員を全員殺害
 した。
  イギリスの香辛料貿易はストップした。
  この島を、オランダは奪い取り独占した。
  イギリスは、東南アジアから撤退し、インドを重点的
 に搾取する体制に変更した(餓鬼の世界の展開)。
  17世紀の初めは、イギリスとオランダの両国は、カト
 リックのスペインやポルトガルの勢力に対して協力的態
 度であった(4国協調)。
  それから、スペイン・ポルトガルを駆逐する。2国の世
 界になった。・・が・・、
  オランダ東インド会社の実力が、イギリス東インド
 社を上回って来ると・・(会社組織にしているのは卑劣
 な隠れ蓑、やっているのは国・国家の行動)
  この様な欲の世界の中で、奪い取りの世界の中で、
 1623年のアンボイナ事件を契機に、イギリスは、東南ア
 ジアや東アジアから撤退した(軽蔑すべき武力による奪
 い取りの展開)。
  香料貿易を独占したオランダは、アジアに商機のチャ
 ンスが流れ込んだと喜んだ。
  当然、イギリスには、反オランダの感情が高まり、残
 酷・卑劣な第一次英蘭戦争(1652年〜1654年)へと発展
 して行く。一回では終わらない。
1624年3月、日本へ、スペインが通商復興を求めたが許され
 なかった。当然だ・・、
  散々、世界で悪いことをして来て(南米だけでも1000
 万人にもおよぶ殺戮をキリスト教宣教師と共にして来た)、
 その経緯(いきさつ)などをすべて知っている日本。
  領土的野心を持つスペインの手先のキリスト教は法を
 守らないし・・、この様な状況で許される訳はなかった。
1624年12月、朝鮮の使節が来朝した。
1624年、江戸城
  江戸城の西ノ丸殿舎(秀忠の隠居所)の改築が完成し、
 秀忠が入居した。
  この時、土井利勝井上正就永井尚政らは西ノ丸老
 職となった。
1624年、徳川家光が、本丸に移った。
  酒井忠勝が、本丸老職となった。
1624年、この年、林羅山徳川家光の侍講となり、幕府政
 治に深く関与して行った。
  林羅山は、徳川家康・秀忠・家光・家綱の4代の将軍に
 仕えた。
  徳川幕府の外交官ともいえる林羅山は、中国政府と正
 式な外交を結ぶ必要はないと見ていた。
  また、信従するに値しないと見ていた。
  明宛ての書簡でも、明の年号を用いなかった。
  「中華の華は今や日本なり」の意識が沸き起こってい
 た。
1624年頃、林羅山のこと。つづき。
  徳川幕府の初期、中国は明の末期だった。
  幕府は、秀吉の時代に乱れた明との関係修復を努める
 が、日本という国体を考え、書簡において、中国・明の
 年号使用は控えた。
  これは、中国皇帝の普遍性を否定する内容形式を、あ
 えて突き付けた形となった。
  その為、関係修復はならなかった。
  外務大臣に当たる林羅山は、日本へ朝貢し始めた国々
 として朝鮮やタイを羅列し、中国の覇権に、事実上の挑
 戦状を突き付けるに等しい行動をとった。
  明との関係修復より、日本の自主性が優先された。
  なんだかんだとアメリカのTPPのグローバリズムに組み
 込まれて行く、現代の日本とは違った。
  朝鮮は、北辺が満州族に脅かされ、日本に接近せざる
 を得なかった。
  そして、日本は、朝鮮に明の年号を使うなと言った。
  そして、明が満州族に滅ぼされ、清朝となって行く。
  明の家臣が、二度にわたり、日本へ救援を求めて来た。
  将軍・家光は、2万の遠征軍を組織し、中国上陸の作戦
 計画を策定した。
  状況が変わったため、実行には至らなかったが・・、
  秀吉を含め、当時の日本の指導者には自負心があった。
  現在、間違って印象付けられている鎖国意識は、日本
 には、まったく、無かった。
  日本は、冷静に、モンゴルと中国をめぐるユーラシア
 の凄絶かつ壮大な闘争のドラマをしっかり見ていた。
  陸続きの朝鮮が、それに翻弄(ほんろう)される姿を
 見ていた。
  海を隔てた日本の地勢的有利さを感じていた。
  韓国が、今・現代でも、秀吉の朝鮮出兵だけを、ひた
 すら悪く言うが、
  朝鮮において、この様な事は、日常茶飯の出来事だっ
 た。
  秀吉の朝鮮出兵は、ちょっと一度の『幕間の寸劇』と
 いう程度だった。
  日本には、鎖国意識なんて、まったくなかった。
1624年、スペイン船の来航を禁止した。
  領土的野心を持つスペインが、キリスト教宣教師の
 活動を統制できなかったため、
  長崎からの『退去命令』を受けた。
  キリスト教が原因者。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/