(増補版)104C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年〜1614年)

題:(増補版)104C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年〜1614年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1610年、新田開発
  将軍の秀忠は、江戸府下の千駄木を遊巡して、農民の
 都築勘助に新田開発事業を担当させた。
1610年、日本で初めて、有田で磁器の焼成に成功した。
1611年9月、南蛮人の通商を許可。
  家康は、日本訪問を終えたスペインの答礼大使の帰国
 船を利用してメキシコとの交易を望んだが、同じ目的を
 持つ奥州の伊達政宗も、この機会を利用して家臣の支倉
 常長をスペイン船に同乗させた。
  家康は、、メキシコが遠く距離的な問題もあり、スペ
 インよりオランダとの関係を深めた。
1611年10月、ルソン人が来る。
1611年、交通政策。
  木賃宿の木賃が人3文、馬6文に定まった。
1611年、社会資本整備、
  徳川幕府により二ヶ領用水が完成した。
  多摩川などを水源とし、神奈川県川崎市を流れる全長
 32キロメートルの神奈川県で最も古い人工の用水路で、
 14年の歳月をかけて完成した。
1611年、角倉了以が、賀茂川に分流し、三条から伏見に至
 る高瀬川を掘り、舟運を開いた。
  これによって、大阪の舟が京都まで通うようになり、
 京都の物価が下がって、京都の町人を喜ばせた。
1611年、家康が、在京の諸大名から三か条の誓書を提出さ
 せた。
1611年、家康が、再度の秀頼の出仕を求めた。
  後陽成天皇が退いて、後水尾(ごみずお)天皇が即位
 し、その即位式に出席のため入洛した家康は、秀頼の出
 仕を求めた。
  秀忠の将軍就任の時、秀忠との対面を、秀頼に拒否さ
 れた家康は、今度は、秀頼の出仕を実現させたいと思っ
 ていた。
  また、天皇が変わったこの時は、上洛すべき強い理由
 があった。
  実現に際し、加藤清正浅野幸長ら秀吉の旧臣らが、
 秀頼に寄り添っていた。
  家康と秀頼の会見は、二条城で行われたが、会見は思
 ったよりなごやかであった。
  秀頼はしっかり成長していた。
  家康の知っていた子供の秀頼とは、だいぶ違っていた。
  10数年ぶりの対面、秀頼は19歳、すっかり成人し、利
 発そうな面立ちに、70歳の家康に驚きがあったようだ。
  秀頼は、背が高く、学問や風雅など文人の側面でも優
 れていたという。
  また、人柄良く成長していたという。
  この数年後に、家康は、196大名19万4000の兵で、この
 秀頼を大阪城に取り囲むことになる。
1612年10月、キリスト教の禁止(陽暦9月1日説あり)
  幕府が、天領におけるキリスト教を禁止した。
  オランダが、ポルトガルの不穏な動きを告げた(密謀、
 秘密のはかりごとがあると・・)。
  キリスト教に温厚だった幕府は、その行動や実態が分
 かって来ると禁教に踏み切った。
  また、幕藩体制の組織づくりを阻害した。
  家康へ情報を提供していたウィリアム・アダムスとヤ
 ン・ヨーステンは、いずれもプロテスタントのイギリス
 とオランダ人だった。
  そして、家康の外交顧問となっていた。
  カトリックの行って来た事を説明もした。
  家康の禁教は、1612年の「岡本大八事件」が切っ掛け
 だった。
  そして、直轄地の禁教を1612年に発令した。
  そして、その翌年の1613年には、全国的な法令とした。
  家康の居る駿府の組織は、しっかりと組まれていた。
  駿府政権と言ってもいい家康の陣容は、上記の外交顧
 問のアダムスなどの他、
  駿府奉行衆(本田正純・安藤直次大久保長安など)
 や、学者(林羅山)、京都所司代板倉勝重)や、豪商
 (角倉了以茶屋四郎次郎、後藤庄三郎などなど)
  しっかりし、海外事情を聞くとともに、
  ヨーロッパや東南アジア諸国との交流は盛んに行って
 いた。
  国書の交換や、来航許可証など、かなりの事を行って
 いた。
  鎖国で何も知らない、分からないは、プロパガンダ
 嘘の情報である。
1612年、幕府が、かぶき者を取り締まった。
1612年、家康が、鶴を天皇に献じた。
  家康が、鷹狩で獲った鶴を天皇に献じた。
  以後、慣例となった。
1612年、社会資本整備、利根川
  利根川の八町河岸が設置された。
1612年、新田開発、
  幕府の代官頭の伊奈忠次が、武蔵国葛城郡茂田井新田
 の藤右衛門に五ヶ条の新田開発定書を出した。
1613年4月、大久保長安事件・馬場八左衛門の直訴事件が起
 きた。
  江戸幕府内にも、武断派と文治派の派閥が形成され、
 幕府内部における権力をめぐる争いがあった。
  1612年の岡本大八事件で、キリシタン大名有馬晴信
 は、6000両もの賄賂を贈っていたが、この時は、文治派
 勢力が衰退した。
  そして、1614年に至り、大久保長安が死去したのに乗
 じ、文治派は勢力巻き返しの謀略を実行に移した。
  長安は鉱山奉行を務めていたが、幕府への金銀の納入
 を誤魔化していると虚偽の報告を家康に行った。
  家康は激怒し、長安の腹心を捕らえたり、長安と伊達
 政宗が親しい関係から、謀反をたくらんでいるとかのド
 ロドロした事件が展開した。
1613年6月、公家諸法度が制定された。
1613年9月15日、慶長遣欧使節団が石巻を出帆した。
  伊達政宗の家臣・支倉常長が欧州に行った。
  1609年に、前フィリピン総督の一行が台風に会って、
 千葉県沖に座礁し、地元民が救助した。
  家康は親切にもガレオン船を送って送還した。
  これをきっかけにスペインとの交流が出来、常長の主
 君である伊達政宗はヨーロッパへ使節を送る事にした(
 貿易目的)。
  この話には、伊達政宗がスペインと軍事同盟を結んで
 討幕を行おうとしたという話も存在している。
1613年2月1日、全国的なキリスト教排除の宣言がなされた。
1613年6月、イギリス艦隊が、この時、平戸に到着した。
  そして、司令官のジョン・セーリスは、駿府城にて徳
 川家康に拝謁し、国王ジェームス1世の国書を捧呈した。
  そして、更に、江戸城へも赴き、将軍徳川秀忠にも謁
 見した。
  そして、この年の9月1日に、家康は、イギリスの東イ
 ンド会社へ通商を許可した。
  そして、イギリス商館が平戸に開かれた。
1614年2月、キリシタン大名と言われている有馬晴信は、
 この年の2月に、長崎に入港したボルトガル船ノッサ・
 セニョーラ・ダ・グラッサ号を焼き討ちした。
  そして、キリシタン岡本大八事件が起きた。
1614年7月、家康は、京都、方広寺大仏殿の開眼供養の延期
 を命じた。
  そして、方広寺鐘銘事件が起きる。
1614年9月、キリシタン追放船が、長崎から出航した(国外
 追放)。
  しかし、法令を順守せず、キリスト教は宣教師を潜伏
 させた。
1614年10月、大阪・冬の陣
  196の大名が、19万4000人の兵が、家康72歳の時に、
 秀吉が没して15年のこの時に、大阪城を囲んだ。
  秀吉に恩義を感じる加藤清正浅野長政、池田照正、
 前田利長らが、この2,3年の内に没して、大名間に世代
 交替が進んでいた。
  この時に、大坂方にはせ参じた大名は一つもなかった。
  関ケ原で領地を没収された者など、大阪城に入ったの
 は浪人たちに過ぎなかった。
  主だった武将は、真田幸村長宗我部盛親(ちょうそ
 がべもりちか)、後藤基次(又兵衛、またべえ)、明石
 守重(掃部助、かもんのすけ)らであった。
  淀殿は、甲冑に身を固め、軍議にも参加したという。
  徳川方の陣容が整わないうちに、秀頼にも出馬を願っ
 て、先制攻撃をとるべきだとの意見に、淀殿の側近は反
 対した。
  城をもって徳川方を迎える事となった。
  大阪城方は約10万だった。
  秀頼を思った秀吉の作った堅い城は、二重、三重の深
 い石垣、堀をめぐらした総構えの城郭は、持久戦によく
 耐えた。
  10月に始まった冬の陣は、強固な大阪城に阻まれて、
 徳川軍はお手上げで、長期の露営にも疲れ、寒さに戦意
 も薄らぎ始めた。
  ここで家康は、淀殿の精神をいらだたせる作戦に出た。
  一晩中、大砲を撃って、眠らせない戦法もその一つだ
 った。
  それに加えて、外国から買い入れた飛距離の長い大砲
 で、淀殿の御座所を狙った。
  「徳川実紀(じっき)』には、
  大筒(おおづつ)は、淀殿の居間の櫓(やぐら)を打
 ち崩し、その響きは百千の雷の落ちたようだった。
  淀殿の側にいた女房7,8人がたちまち撃ち殺され、女
 童の泣き叫ぶおびただしい声に包まれた・・と、記して
 いる。
  淀殿は、すっかり気弱になり、和睦に反対する秀頼や
 側近の言う事も耳に入らず、急に和平論者となった。
  講和は、城の外郭である総構えの三の丸の破却を条件
 に成立したが・・、
  徳川方は、総構えをたった2日で叩き潰し、三の丸の堀
 や土塁を壊し、条件にない二の丸までも破却して、あっ
 という間に本丸の内堀だけを残す裸城にしてしまった。
  約束が違うと淀殿がいきり立っても、もう手遅れであ
 った。
1614年11月7日〜8日、キリシタン禁教令で、長崎に集結し
 たキリスト教宣教師と、主だった日本人信徒を乗せた船
 が出港した。
  日本の法律に従えば、日本は、ヨーロッパの様に酷(
 むご)いことはしなかった。
  しかし、日本の法律を無視して、日本に残り、潜行し
 たキリスト教宣教師が40人ぐらい居た。
  このキリスト教宣教師たちは、日本人をそそのかし、
 共に日本の法律を犯し、捕らえられ、罰せられる。
  責任は、キリスト教側にある。
1614年、大久保忠隣が改易された。
  大久保長安事件に連座し、これに便乗する形で浪人の
 馬場八左衛門が、忠隣が大坂の豊臣秀頼に内通している
 と誣告したため、家康の不興を買い、突如、改易を申し
 渡された。
  そして、近江国に配流されて井伊直孝に御預けの身と
 なった。
  大久保忠隣は武断派の総帥だった。
1614年、大久保忠佐が没した(1538年〜1614年)
1614年、角倉了以が没した(1554年〜1614年)
1614年、八橋検校が生まれた(1614年〜1685年)
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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