(増補版)119D1/3:気になった事柄を集めた年表(1652年〜1655年)

題:(増補版)119D1/3:気になった事柄を集めた年表(1652年〜1655年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1653年1月、社会資本整備・玉川上水
  玉川上水工事が、この時、許可され、4月に着工された。
  翌年に完成した(幕府による飲料水不足のこの解消計
 画は、1652年11月から始められていた)。
  江戸の六上水の一つ。
  庄右衛門・清右衛門(玉川兄弟)が工事を請け負った。
  資金は、公儀6000両が拠出された。
  1722年以降、新田開発のため多くの分水(用水路)が
 開削され、武蔵野の農地へ水を供給した。農業生産量が
 増大した。
1653年、歌舞伎が許可された。
  歌舞伎興行が許可され、野郎歌舞伎が始まる。
  衆道(しゅどう)の売色を兼ねていたため、弊害があ
 ると1552年に禁止されていたが、若衆の象徴である前髪
 を剃り落して野郎頭になる事と、扇情的な舞や踊りでな
 く「物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)」を演
 ずる事を条件として、1553年に、再開を許された。
  以後、「野郎歌舞伎」と称する。
1653年、経済政策・秤座
  幕府の許可で、全国の秤の製造・検定・頒布を独占し
 た座の秤座を設けた。
  東33国は守随氏が、西33国は神(じん)氏が管掌(か
 んしょう、自分の管轄の職務として責任をもって取り扱
 うこと)し、その秤を使用させた。
1653年、家綱の御側衆専任(側近、そっきん)を置く。
  酒井忠清を老中(上座)とする。
  将軍の就寝中の当番、警護、持ち込まれた政策などの
 取次いだ。
1653年、直訴・下総佐倉の農民・木内惣五郎(佐倉宗吾)、
 領主の苛政(年貢引下げ)を幕府に直訴して処刑された。
  この頃、村役人主導による「代表越訴」型、成立した。
  村役人とは、代官や郡奉行の指揮を受けて、村落の
 管理・運営にあたった者。
1654年6月、社会資本整備・玉川上水が完成した。
1654年8月、黄檗宗(おうばくしゅう)の明の僧・隠元(い
 んげん)が懇請されて、来日した。長崎に着いた。
  1658年に江戸に赴き、将軍家綱に謁見し、
  翌年、幕府の強い要請で永住を決意、
  将軍家綱から宇治に土地を与えられ、黄檗山万福寺を
 創建した。
  宗教だけでなく、文化・教養・建築など広い影響を与
 えた。高い徳のある人だった。
1654年、禁裏造営
  5万石以上の大名が禁裏造営の費用を出した。
1654年、経済政策・米手形売買を禁止した。
  幕府は、蔵元に触れを出して、米手形による売買を禁
 止した。
  確かに、重い米を持ち歩くより米手形の方が良かった
 のだろう、しかし、その米手形自体が、転々と売買され
 始めたりしていた。
  そして、その手形は完全に履行されるのだろうか?の
 問題である。
  契約不履行のリスクがあるという事である。
  ここを、幕府は、心配し、問題としたのだろう。
  兌換性はあるのだろうか?
  流動性の高い商品の米におけるこの動向を、幕府は、
 経済政策安定のために、この処置をしたのである。
  しかし、近年の研究の結果、
  堂島米会所の存在によって担保されていたという結果
 が出た。
  ここでの清算が、可能性がある機関だと言えたのだ。
  幕府と米商人の双方によって、自覚的に設計されて、
 取引統制の制度として存在していると結論された。
  堂島米会所では、先物取引もなされていた。
  因みに、今・現在の英国ポンドは兌換できるが、米ド
 ルは兌換できない(ただの紙になるリスクがある)。
  米ドルの基軸通貨にいる現在のポジションも、10年以
 内に転落するだろうと言う知識人が居る。
1654年、交通・関所通交規制ができた。
  江戸時代には、各地に関所や口留番所が設置され、人
 の移動は厳格に制限され、通行手形が必要だった。
  公用・商用の旅、参詣や湯治などの遊行、女性の場合
 には婚姻や奉公など様々な理由での旅があるが、一般に
 庶民の旅行は自由ではなかった。
  しかし、伊勢参りの旅については、例外的に無条件で
 許されていた。
  その他、日光東照宮参詣、善光寺参詣など、有名寺社
 の参詣旅も概ね許されていた。
  武家の女性は、移動について庶民よりも厳しく、女手
 形が必須であった。
  通行手形の発行は、武士の場合は藩庁に申請した。
  庶民の場合は、在住地の町役人・村役人、または、菩
 提寺に発行を申請した。
1654年、芸術・土佐光起(とさみつおき)が、宮中御用絵
 師となった。(1617年〜1691年)「源氏物語絵巻
  京都御所造営では、襖絵、杉戸江を制作した。
1654年、社会資本整備・赤堀川
  栗橋から関宿への赤堀川に通水し、利根川流路が江戸
 川から銚子方面に変更した。
  幕府は、水運のために、赤堀川の河床を掘り下げ、疎
 水し、利根川の瀬替えをする。
1655年2月、かぶき者を捕らえる。
  京都市中法度を公布し、かぶき者を取り締まった。
1655年、貿易・糸割符(長崎割符の制を定める)
  オランダ人の糸割符制を廃して、相対貿易とした。
1655年、交通・宿駅人馬・新銭売買条例が出された。
  「諸令類彙(るいい)」に、
  「寛永の新銭金子一 両に四貫文、勿論一分には一貫文
 売買となるべし。
  若し違背を致し、高下売買仕るに於 いては、
  双方よりその売買の一倍を過料として出すべし」とあ
 る。
  また、「大かけ(欠け)、われ(割れ)銭、かななし
 (文字等不明)、なまり銭、新悪銭、このほかこれを選
 ぶべからず。若し、右五銭を押しつけ、随う者は、その
 前に三日曝し、或いは籠舎と為すべし」と厳しいお達し
 となっている。
  経済政策安定に必死に取り組んだのだろう。
1655年、芸術・この頃、野々村仁清(ののむらにんせい、
 陶工)が色絵の技法を確立し、京焼を開いた。
  仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開いた。
  初めて作品に自分の名の署名をし、作家意識のある芸
 術家だったと言える。
  「色絵雉香炉」(国宝)、「色絵藤花図茶壺」(国宝)
1655年、社会資本整備・野火止用水
  武蔵野の野火止用水が開削される。
1655年、出版・道中記
  この頃、東海道木曽路の現存最古の「道中記」が出
 版された。
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