(増補版)93C3/3:気になった事柄を集めた年表(1592年4月〜1594年)

題:(増補版)93C3/3:気になった事柄を集めた年表(1592年4月〜1594年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1592年4月25日、秀吉が、肥前名護屋城に入った。
1592年5月3日、秀吉の朝鮮出兵軍が京城(ソウル)を占領
 した。
  朝鮮に上陸した軍は、第9軍までの編成で15万8800で、
 3つのルートに分かれて京城に向かっていた。
  そして、この日に、第一軍と第二軍が、国都の京城
 達した。
  上陸後、1ヶ月という、あまりに早い進軍に、秀吉は
 気を良くした。
  まだ、九州の名護屋城にいる兵が、徳川家康らの有力
 武士の兵・7万3000、秀吉5700、長束正家ら5300など、
 方銃隊や馬廻隊も含めると10万1000に達していた。
  これに、先発隊が6軍で13万6900、後続軍が3軍で5万
 8300、別に水軍が9200で、合わせて30万5300の大軍とな
 っていた。
1592年5月26日、秀吉が、大陸占領後の計画を発表する。
  秀吉は、自分の考えをキリスト教宣教師などにも話し
 ていたが、
  この日の日付で、関白・秀次に朱印状を与え、大陸占
 領後の計画を発表している。
  それは、後陽成天皇を明の国都・北京に迎え、
  秀次を明の関白とし、
  公家たちにも知行を与え、
  日本の関白には、羽柴秀保か宇喜多秀家を置き、
  日本の皇位には、若宮(良仁親王)か八条宮(智仁親
 王:としひとしんのう)についていただき、
  朝鮮には、織田秀信宇喜多秀家を置く・・との秀吉
 の計画だった。
1592年7月9日、秀吉の水軍が、朝鮮水軍に敗けを喫す。
  快進撃を続けていた秀吉軍は、その戦線があまりに広
 範囲になったことが原因し、、
  また、兵站(へいたん)確保が不十分で、食料が乏し
 く、
  そして、最初、日本軍に協力的とさえ言えた朝鮮の民
 衆が、日本軍に抗戦しはじめたため、困難な戦いが続く
 状況となって来た。
  そして、この日、閑山島・安骨浦において(対馬に近
 い半島側の所)、秀吉軍の水軍が朝鮮水軍に敗けを喫し、
 制海権を奪われ、補給路の確保が出来ない状況になった。
1592年9月、秀吉の朝鮮出兵軍の戦線が泥沼化。
  明からの救援軍が鴨緑江を渡って朝鮮に入り、戦線は
 泥沼化した。
  また、厳寒のもとでの進軍は困難を極めて来た。
  戦線の縮小を計らねばならない状況となって来た。
1592年11月20日、和議交渉。
  この日に、明国の使者として沈惟敬(しんいけい)が
 和議のために平壌までおもむき、小西行長と交渉したが、
 和議が成らず、帰国した。
1592年12月19日、明の軍隊が、鴨緑江を渡って、諸道を進
 み、集結地だった慶州(釜山の北100キロ)に、この日に
 大会同(集まって相談)した。
1592年、朝鮮出兵に関する家康の考え。
  朝鮮の役は、戦国以来の領土拡張に終止符を打たれた
 大名の不満があり、
  また、外国貿易を求める豪商の希望があり、
  また、秀吉の冒険主義が結びついて起きたが、
 家康は批判的だった。
  秀吉から朝鮮出兵の命令を受けた時、家康は、江戸城
 の書院に座って、ただ黙然としていた。
  そばにいた本田正信が、「殿は渡海されますか」と聞
 いたが、返事が無かったので、
  三度までたずねると、「何事だ、人が聞くぞ、箱根を
 誰に守らせるというのか」と言ったという。
  家康は、出兵による家臣と物資の損耗を、また、何よ
 りも新しい領国の経営を破壊されることを恐れた。
  秀吉に正面切って反対もできない立場だった。
  渡海こそしなかったが、肥前の名古屋に赴き、秀吉の
 本営を固めた。
  この間、家康は、秀忠に井伊直政榊原康政をつけて、
 領国経営に専念させる一方、
  渡海した諸大名に対しては手紙を送り、戦勝を祝った
 り、長陣の労をねぎらうなどをして、諸大名の人心掌握
 に努めている。
1592年、この年に、江戸城の西の丸の工事に着手している。
  これは、翌年に、一応の完成を見ている。
1592年、秀吉の妻・おねが、秀吉から所領を貰っている。
  大阪の天王寺など1万石を、北政所個人の所領として
 貰っていて、これは、秀吉の死後も、家康は追認し、そ
 のままの領国となった。
1592年、この年、痘瘡(とうそう)が流行した。
1592年、蒲生氏郷が没した。
1592年、秀吉が朱印船制度を定めた。
1592年、キリシタン大名高山右近が、長崎で没した。
  wikipediaには、「右近は首を半分ほども切断するとい
 う大けがを負ってしまう。およそ助かりそうにない傷だ
 ったが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒
 するようになった」と美化して書かれているが、首が、
 半分、切られたら絶対に死だ。
  「奇跡的に回復したから一層キリスト教へ傾倒した」
 とは、まったくおかしい。
  wikipediaは、キリスト教を美化する輩によって荒らさ
 れ、嘘が満載されているから、注意されたい。
1592年、、この年の米の取れ高が、1846万石だった。
1593年1月7日、平壌が奪い返された。
  明の李如松を総司令官とする軍により、平壌が奪い返
 された。
1593年1月26日、和議の動きが出る。
  碧蹄館の合戦で、小早川隆景らの軍勢が明軍を破り、
 ようやく和議の動きが出て来た。
1593年3月、文禄の役の講和の交渉が開始された。
1593年4月、文禄の役の講和が合意された。
  小西行長が、明の和議を入れた。
  合意内容:
  1、日本軍は朝鮮皇子とその従者を返還する。
  2、日本軍は釜山まで後退する。
  3、明軍は開城(ソウル北方約100キロ、北朝鮮の地)
 まで後退する。
  4、明から日本へ使節を派遣する。
1593年5月8日、小西行長らは、明の勅使とともに日本へ出
 発した。
1593年5月15日、明の和議の講和使が、名護屋に到着した。
  和議の話は、5月に入って具体化し、この日に、明の
 講和使・謝用梓(しゃようし)と徐一貫(じょいっかん)
 が名古屋に到着し、5月23日に、秀吉と会見し、講和交渉
 に入った。
  豊臣秀吉が、明の勅使に次の様に言っている、
 「予(よ)、懐胎の初め、慈母日輪(じぼにちりん)の
 胎中に入るを夢む」、自分は太陽の子である・・云々。
1593年5月28日、秀吉が、和議の条件を示した。
  秀吉は、この日に、和議の条件として七ヶ条を示し、
 明の使節は、6月28日に名護屋城を出た。
  秀吉が、以下の7条を申し渡した。
  1、明の皇女を天皇の妃として送ること。
  2、勘合貿易を復活させる事。
  3、日本と明、双方の大臣が誓紙を取り交わす事。
  4、朝鮮八道のうち、南の四道を日本に割譲し、他の
 四道および漢城を朝鮮に変換する事。
  5、朝鮮王子および家老を1,2名、日本に人質とし
 て差し出す事。
  6、捕虜にした朝鮮王子2人は朝鮮に返還する事。
  7、朝鮮の重臣たちに、今後、日本に背かないことを
 誓約させる事。
  この七ヶ条を秀吉が示したが、当初の秀吉の占領計画
 から、ほど遠かったので、秀吉としても不本意だっただ
 ろう。
  しかし、この七ヶ条ですら実現の可能性はなかった。
  直接の交渉役だった小西行長は、秀吉暗にこだわるこ
 となく、日明貿易の再開など実利面を前面に出した交渉
 をした。
1593年8月3日、秀吉の次男・秀頼が誕生した。
  淀殿が、大阪城の二の丸で秀頼を産んだ。
  朝鮮に居る日本軍に、この頃、厭戦気分がみなぎり出
 していた。
  開戦の当初は、快進撃を続けたが、海戦に敗けて制海
 権を失い、物資補給などに支障をきたしていた。
1593年11月、秀吉が、原田孫七郎を遣わして、台湾の入貢
 を促していた。
1593年12月7日、講和交渉の為、北京に入る。
  小西行長の腹心である内藤如安が北京に入ることがで
 きた。
  こうして、小西行長の講和交渉にすべてをゆだねる形
 で自然休戦となった。
  朝鮮在陣中の諸大名は、そのまま朝鮮に滞陣し、1594
 年には虎狩りなどを行っている。
  虎の肉の塩漬けを秀吉に送っている。
1593年、小笠原島が探検されている。
  信濃小笠原氏の一族という小笠原貞頼が発見したとい
 う。
1593年、大久保忠隣(おおくぼただちか、臣下に大久保彦
 左衛門が居る)が、秀忠の老職(大老や老中)となって
 いる。
1594年、伏見城が出来て、秀吉が移った。
  秀吉が、宇治川を瀬替えして、伏見城を築く。
  秀吉は、この京都桃山の伏見城を本城として起工した。
  諸侯の邸宅が、その周囲に集まり、大阪城の観を呈し
 たという。
  その後、豊臣秀頼徳川家康の居城となったが、1615
 年に、江戸幕府の命により壊された。
1594年、国宝・姫路城の城主・池田輝政が、豊臣秀吉の斡
 旋(あっせん)で、徳川家康の娘・督姫と結婚した。
  督姫は、北条氏直正室だったが、北条氏が滅ぼされ
 たため、家康の元に戻っていたところだった。
  家康の幼女を娶(めと)った武将は何人もいるが、実
 の娘を娶ったのは、輝政のほか少数しかいない。
  この事が、豊臣恩顧の大名だったが、関ケ原の戦い
 時、迷う事もなく徳川方についた大きな要因だった。
1594年、左甚五郎(ひだりじんごろう)が生まれた(1594
 年〜1651年)
  足利家臣・伊丹左近尉正利を父として、1594年に、播
 州明石に生まれた。
  父の亡き後、叔父である飛騨高山・金森家家臣・河合
 忠左衛門宅に寄寓し、13歳で、京伏見の禁裏大工棟梁・
 遊左法橋与平次の弟子となり、1619年に、江戸へ下り、
 徳川家大工棟梁・甲良(こうら)豊後宗広の女婿となり、
 堂宮大工棟梁として名を上げた・・とあるが・・、
  甚五郎の作と言われる彫り物は、全国各地に100か所近
 くあり、その製作年も300年にも渡っている。
  その為、左甚五郎は一人ではなく各地で腕を振るった
 工匠たちの代名詞という説もある。
1594年、全国検地(文禄検地)、
  太閤検地の完成期に当たる検地。
  秀吉の全国征服後の検地。
  秀吉は、次々に各地を征服するごとに検地して、それ
 らの地を掌握していった。
  武将に知行を与え、大名を転封させた場合にも検地を
 実施している。
  この頃の検地は、朝鮮出兵の後方安定を兼ねて、太閤
 政権の基礎固めのため、各地を、再三、検地をしている。
  越前検地の1598年8月が最後としている。
1594年、利根川の改修工事が行われた。江戸時代以前の主
 な社会資本整備と言われている。(〜1654年)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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