(増補版)97C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年6月〜1600年9月)

題:(増補版)97C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年6月〜1600年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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慶長5年(1600年)7月2日、秀吉が、秀頼が生まれるまでは、
 政権移譲の対象者・次期の者としていたのは秀次(秀吉
 の姉の子)だった。
  その秀次一族が、悲惨な最期を遂げた。
  これは、豊臣家臣団にとって大きなショックだった。
  豊臣家への信頼が一気に崩れて行った。
  各大名は連座を恐れた。
  また、その様な中に、豊臣家と密着する三成らの文治
 派がいた。
  それに対し、朝鮮の役で活躍し、苦労した武断派
  恩賞もなく、苦労しかなかった武断派と、この面でも
 溝を深めて行った。
  (賞罰をめぐる対立が深刻なものへ)。
  家康は、この豊臣諸将の中の武断派の諸将へ接近した。
  そしてまた、その中で家康は、太閤蔵入地を通じて文
 治派による専制・集権体制の解体を計った。
  蔵入地とは、戦国大名が自己の所領のうち、家臣へ与
 える知行地に 対して、代官を派遣して、直接支配を行っ
 て年貢・諸役などの徴収にあたった地を指す(領地への
 内政干渉)。
  それを、家康を糾弾した前田家は、徳川家に屈したし
 ・・、
  これで、豊臣政権内の五大老制度が完全に崩壊し、空
 文と帰した。
  その様な世の中において、会津征伐が起きた。
  直江兼続(上杉家の家老)は、はっきりと返書に書い
 た・・、
  「景勝は、秀頼様を裏切るようなことは致しません。
 誓紙も何通も書きましたし、
  言われている事は、雑言ゆえ、上洛を致しません・・
 と、家康の命令を拒絶している。
  事は、これでおさまらず・・、
  家康は、非常に立腹したという・・
  会津征伐で・・世にまた火が付いた。
  家康は、秀頼の命だとした。
  軍資金を、もらったと・・、
  家康は、この日の旧暦7月2日に、江戸城に入った。
慶長5年(1600年)7月2日、一方、三成は・・、
  家康が江戸へ下るとの報を受け、家康の留守中を狙っ
 て挙兵し、
  西国の大名を糾合して家康を討ち果たす決意を固め、
  そして、動き出した。
  また、上杉景勝にも・・、
  常陸・南陸奥一帯に54万石という大きな領地を持つ強
 力な大名・・鉄砲隊も持つ大大名である佐竹義宣との間
 に秘密同盟を結んでいた。
  白河口から攻め込んで来るだろう家康を、挟撃しよう
 という計画であった。
  その計画は着々と進められていた。
  そして、家康より先に景勝が挙兵して行き、それに応
 じて佐竹家も挙兵して行く。
慶長5年7月2日、三成が、家康討伐を大谷吉継へ打ち明けた。
  吉継は、初め、徳川家康の側だった。
  徳川邸の家康を警固したり、前田年長の時は越前まで
 出兵したりと。
  上杉討伐軍にも参加していた・・
  その時、吉継は、宿陣していた垂井から、三成の居る
 佐和山へ呼び返された。
  そして、三成に打ち明けられたことが、家康征討の意
 図だった。
  吉継は、無謀だと三成に告げた。
  しかし、吉継の再三の説得にも関わらず、三成の意思
 は堅かった。
  説得の目的が達せず、吉継は佐和山を辞し、垂井へ戻
 った。
慶長5年(1600年)7月7日、家康は、東下していた武将を江
 戸城へ招集した。そして、会津出陣の期日を7月21日と定
 めて軍令を下した。
慶長5年7月8日、家康の家臣・榊原康政を先鋒として出陣し
 た。
  また、徳川秀忠も、全軍37500にて、同日、出陣した。
慶長5年7月11日、大谷吉継が、三成に同心した。
  垂井へ戻った大谷吉継は、上杉討伐の東征への出発を
 一日延ばして考えた末に、三成の西軍の一員として行動
 しようと、三成の考えに同心し、佐和山へ入った。
慶長5年7月12日、西軍の最初の軍議が佐和山で開かれた。
  最初は、三成と吉継のみだった挙兵勢力が、安国寺恵
 瓊らの勧誘によって、大阪城の三奉行らも加わり拡大し
 て行った。
  三成は、家康討伐の意思を話し、同調を得た者を佐和
 山へ招き入れ、石田・安国寺・増田・大谷で軍議を開い
 た。
  その内容は・・、
  (1)毛利輝元に西軍の総大将になってもらう。
  (2)三成の兄の正澄を愛知川に派遣し、東征する諸大
 名の引き止めをする。
  (3)織田秀信に、豊臣秀頼の後援を要請する。
  (4)大坂にいる東征している諸大名の妻子の帰国を禁
 じて人質とする。
  そして、この日に、三成と吉継は、前田玄以、増田長
 盛、長束正家の三奉行に連絡を取り、毛利輝元に対して
 出馬を請う連署状を出した。
慶長5年7月16日、書状を受け取った輝元はすぐさま上坂し、
 毛利輝元は、大坂城西の丸に入った。
  西軍の総大将として豊臣家安泰への切り札とも言える
 大大名の毛利家の大坂入りで、西軍の指揮は大いに高ま
 った。
慶長5年7月17日、翌日の17日には、家康の留守居衆を退去
 させ、この日の日付で、前田玄以増田長盛長束正家
 の三奉行の名によって「内府ちがひの条々」を公表し、
 諸大名へ交付した。
  これは、家康に対する十三か条に渡る家康の罪状を列
 挙した弾劾状だった。
  西軍の挙兵の宣言で、決起への参加要請だった。
  三成と吉継の思いが、家康に対する豊臣公儀(こうぎ、
 おおやけのこと)の追討となった。
  そして、家康に着いた大名の人質は、加藤清正の妻や、
 黒田如水・長政父子の妻、水谷勝俊の子らは脱出してし
 まった。
  そして、細川忠興の妻・ガラシャは自決してしまった。
  また、輝元の従兄弟で重臣である吉川広家は、家康に
 対抗することに強硬に反対し、
  家康の重臣榊原康政に釈明の状を出したりしていた。
  しかし、家康弾劾文に同調した諸大名が、続々と大阪
 に参集して来た。
  毛利秀元小早川秀秋宇喜多秀家島津義弘と豊久、
 立花宗成、小西行長らの諸将を集めた総兵力は、95000に
 達していた。
慶長5年7月18日、毛利輝元が、伏見城に開城要求した。
  家康が勝手に私物化して使っていた伏見城の開城を要
 求した。
慶長5年7月19日、伏見城への攻撃が開始された。
  伏見城を守るのは、家康の家臣・鳥居元忠
  元忠は、開城拒否をした。
  西軍は、その拒否姿勢により、即座に、伏見城攻撃を
 開始した。
  城を守る元忠の兵はわずか1800。
  攻める西軍は、宇喜多、毛利、小早川、島津等4万。
  容易に落城すると思われた伏見城
  強硬な抵抗にあって、攻城戦は時を要した。
慶長5年7月21日、家康の率いる後軍31800が江戸城を出陣し
 た(上杉討伐へ向かって)。
慶長5年7月22日、西軍が、丹後の田辺城の攻撃を開始した。
慶長5年7月24日、伏見城鳥居元忠の急使が、小山の家康
 の元に、「三成挙兵」の報を伝えた。
慶長5年7月25日、報が伝えられた翌日、東軍の家康は、陣
 を張っているここ小山で、諸将を集め、軍議を開いた。
  家康は、三成挙兵の事実をありのままに諸将に伝え、
 そして、言った・・、
  「諸将の妻子は、みな大坂にいるため、気がかりで思
 い悩むことは道理だ。
  すぐに、この陣を引き払い、大坂に上り、宇喜多や石
 田に味方しても、決して恨み申さぬ。邪魔立ても致さぬ。
  我らの領内では、宿所や人馬のこと、少しもぬかりな
 く命じてあるから、心置きなく上ってもよい」と。
 そこに集まった諸将は、みな愕然とし、言葉を発するこ
 とはできなかった。
  そこに、福島正則が進み出てこう言った。
  「それがしは、この様な事態に直面した時、妻子の情
 に引かれ、武士の道を踏み外す事があってはならぬと考
 え致す。
  家康殿のため、身命を捨てて、お味方申す」と。
 黒田長政浅野幸長細川忠興池田輝政らはもちろん、
 集まっていた諸将は、次々と、家康に味方することを申
 し出た。
  さらに、遠江掛川城主の山内一豊が、「東海道を攻め
 上るにあたって、城と兵糧が必要になりましょう。
  それがしの城を、家康殿に進上つかまつる」と。
  それが引き金になり、沼津城・中村一栄(なかむらかず
 ひで)、興国寺城・中村一忠(なかむらかずただ)、駿府城
 中村一忠横須賀城有馬豊氏(ありまとようじ)、浜松
 城・堀尾忠氏(ほりおただうじ)、吉田城・池田輝政(いけ
 だてるまさ)、岡崎城田中吉政(たなかよしまさ)、西尾
 城・田中吉政刈谷城水野勝成(みずのかつなり)、清
 州城・福島正則(ふくしままさのり)の諸城が、家康に差
 し出される事となった。
慶長5年7月26日、軍議が終わった諸将が、西上を始める。
  福島、池田を先鋒として東軍諸将が西上した。
慶長5年7月29日、手こずる伏見城に、石田三成も自ら出馬
 した。
慶長5年8月1日、伏見城陥落
  三成が参着した伏見城に総攻撃が加えられた。
  多勢に無勢。持ちこたえていた元忠も力尽き、この日
 に至り、元忠はじめ本丸に居た350人の城兵は、ことごと
 く討死した。
  また、三の丸を守っていた松平家忠と800余の兵も討死
 し、ついに伏見城は落城した。
慶長5年8月5日、家康が、江戸城に帰着した。
  江戸城へと帰還した家康は、26日間もの間、そのまま
 江戸城に留まった。
  そして、各所へ、手紙を出した。
  政治工作を推し進めた。
  家康の戦い方だった。
慶長5年8月14日、東軍の先鋒隊が、この日に、清州城に到
 着した。そして、家康の出馬を待っていた。
  そして、家康から、
  「先鋒諸将、すみやかに美濃に進撃し、家康に対する
 忠誠を見た上で、江戸を出陣する」・・との報を受けて
 奮起した。
慶長5年8月22日、東軍が、岐阜城を陥落させた。
慶長5年9月1日、岐阜城陥落の報を聞いた家康は、それ以上
 の進撃・攻撃を止めるよう指示し、この日の9月1日、江
 戸城を出陣した。
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