(増補版)90C2/3:気になった事柄を集めた年表(1587年12月〜1590年7月)

題:(増補版)90C2/3:気になった事柄を集めた年表(1587年12月〜1590年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1588年、この年、秀吉が、昨年、九州を平定し、残るは北
 条氏の小田原だけで、近畿には、戦国の世が遠のいた安
 堵感が漂った。
1588年、秀吉が大番と小判を作った。
1588年7月8日、秀吉が、海賊停止令を出した。
1588年8月29日、刀狩
  秀吉の刀狩は、「刀・鉄砲狩り」と言うべきと言うア
 メリカの大学教授のノエル・ペリン氏。(7月8日説あり)
  この刀狩を、教授は、偉大な軍縮だとべた褒めする。
  そして、この東洋の日本のこの軍縮に始まる江戸時代
 の軍縮などは、今、世界が学ぶべきだと言われる。
1588年8月29日、天下を統一した豊臣秀吉が、この日、『刀
 狩令』を布告した。
  中世以来、刀は、農民にとって『武装権』とともに成
 人男性の人格と名誉の象徴で、刀狩は、それを奪うとい
 う事で、大きな問題だった。
  天下統一した秀吉だからできたことかもしれないが、
 秀吉が発した令は、
  「百姓が、刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武具を持つ
 ことを固く禁じる。
  余計な武器を持って年貢を怠ったり、一揆をおこした
 りして役人の言うことを聞かない者は罰する」だった。
  また、「取り上げた武器は、今つくっている方広寺
 大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。
  そうすれば、百姓はあの世まで救われる」と言った。
  そして、「百姓は、農具だけを持って耕作に励めば、
 子孫代々まで無事に暮らせる。
  百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。
  ありがたく思って耕作に励め」だった。
  愛を説く秀吉でもあった。
  こんな事を言う施政者は欧米には居ない。
  権威を欲しがり、殺戮ばかりする施政者だ。
  「異教徒は殺せ」と教えるキリスト教という宗教と、
  「生きとし生けるものは、皆、平等に、仏となり得る
 仏性というものを持っている」と教える仏教とは、あき
 らかに違う。
  今・現代においても、銃を必要としている遅れたアメ
 リカがあるが・・、中々、銃を無くせない社会だが・・、
  日本では、すでに、400年以上も前のこの年に、武器の
 放棄を行っている。
  400年以上も昔に、既にやってしまっている日本なのだ。
  つい先日も、黒人の方が撃たれて亡くなっている姿を
 テレビで報道していたが、劣悪な宗教に汚染されている
 姿だ。
1588年、スペインの無敵艦隊が敗れる。
  イギリスが、英国海峡において、三日間の海戦で、ス
 ペイン(イベリア)の無敵艦隊を撃破した。
  この海戦は、スペイン艦隊がイギリスを襲った。
  イギリス海軍は、暴風雨に助けられスペイン艦隊を撃
 退した。
  これを契機に、スペインの勢力は衰退し、その勢力下
 にあったオランダが、事実上、独立した。
  イギリスは、この後、徹底してスペインの制海権を覆
 (くつがえ)し、100年に渡ったイベリアの制海権を奪っ
 た。イギリスの時代となる。
  この次に、イギリスは、オランダをターゲットに狙い
 撃ちにした。ナンバー2を撃滅していく。
1588年、イギリスが制海権を得たが・・、
  近世は、この様に、海軍力が強い国が、世界においし
 い汁の吸える植民地を作って・・、
  富を収奪した。
  この富で築かれた町がヨーロッパの街であり、きらび
 やかな教会なのだ。
  ここにもグローバリズムが存在した。
  強いものが勝つのが正義だ・・である。
  強いのだから相手を叩きののめすである。
  神の義がある、正義なのだ・・である。
  南米などで、インディオの方々を殺しまくったスペイ
 ン艦隊が、
  この時、イギリスに打ちのめされたのが象徴的だった。
  このイギリスも、この後、同じ様に、卑劣な事を世界
 でやる。
  今、アメリカが、グローバリズムをあげているが、そ
 の同じ位置にある。
  そして、「弱肉強食は正義だ」とやっている。
  強いのが勝つTPPで弱肉を強食しようとしている。
  最強者は自由を求めるのは歴史の常である。
  弱者を食い物にしている。
1589年1月、淀城を築く。
  秀吉は、弟・秀長に命じて、細川忠興にも助役させて
 淀城を築かせた。
  この城は、京都伏見区淀にあった。
  ここは、桂川宇治川、木津川が一つになって淀川に
 なる3点合流の地で、京都と大阪を結ぶ、水上交通の要地
 にある。
1589年5月27日、秀吉の子・鶴松(秀頼の前の子)が生まれ
 た。
  秀吉は、天下の後継者だと示すため、誕生4か月後の9
 月13日に大阪城で迎えた。
1589年11月24日、秀吉が、北条氏直に宣戦布告状を送った。
  諸大名にも同文のものが配られた。
1589年、家康が、7ヶ条の「定書」を公布し、翌年にかけて
 5か国総検地を行った。
  この時、伊奈忠次らは検地奉行として活躍した。
  こうして家康は、結果的に、5か国時代の終わりになっ
 たが、領国の支配組織を整えた。
1589年、小田原征伐の準備。
  勝海舟の書いた「氷川清話」によると、
  「太閤様、小田原征伐の1年前で、明年ここへ10万の兵
 が来るから、あらかじめ糧米や「まぐさ」の用意をする
 ために小役人では事の運ばぬを恐れてか、本田佐渡守様
 は自分でここへおいでになったのだ」・・と。
1589年、秀吉が、方広寺を建立した。
  秀吉は、晩年、東大寺大仏殿をまねて、京都東山に方
 広寺を作り、木造の大仏を建立した。
1589年、秀吉が、諸大名の妻子の在京を命じ、聚楽第に集
 めた。
1588年頃、この頃、キリスト教魔女狩りによる焚刑が盛
 んに行われる。
  1日に133人を焼くという酷い事例があちこちにある。
  ザクセンなど。岩波新書魔女狩り」を・・、
1590年2月〜7月、小田原征伐
1590年3月1日、秀吉の大軍が、京都を出発した。
  軍勢は、東海道を北上する軍と、北陸からの軍に分か
 れ、東海道北上軍には、秀吉が、率いる14万の大軍の他、
  家康軍が3万、東海道諸城守備が1万、水軍が1万の計19
 万。北陸軍は上杉・前田らで3万、合計22万の大軍であっ
 た。
  これに対する北条軍は8万強だった。
1590年3月29日、秀吉軍と小田原軍が衝突。
  秀次らの攻撃によって、この日、小田原城の最前線の
 支城の山中城が落ち、韮山城が囲まれている。
1590年4月3日、秀吉が、小田原城を包囲した。
  秀吉軍が、この日から、小田原城を包囲し、秀吉得意
 の城攻め(兵糧攻め)が始められた。
  後北条の町は、城下町全体を包み込む囲郭、すなわち、
 城と町がすっぽり囲まれる巨大な土塁によって守られて
 おり、4、5年の籠城にも耐えられると言われる堅城で
 あった。
1580年4月6日、秀吉が、笠懸山に城を築く。
  この日から、秀吉は、小田原城を見下ろす早川の対岸
 の、笠懸山(かさがけやま)の山頂一帯に、わずか80
 数日をいう短期間の突貫工事で、石垣を持ち、天守台ま
 で配する城を築いた。
  これは単なる砦でなく、小田原城攻めの本陣として、
 石垣も積んだ本格的な城である。
  後に石垣山と呼ばれた。
  また、ここに商人までも集まる急造の城下町まで造っ
 た。
1590年6月、成田氏長の忍城攻めの話。
  小田原城へ成田氏長が向かう。
  秀吉が、小田原城の北条氏を攻略するため、関東にあ
 る北条の支城を次々に落として行った。
  「成田記」によると、甲斐姫の活躍の話があった。
  1590年2月、成田氏長は、家紋を染め抜いた三引両(み
 つひきりょう)の旗を掲げ、輪宝の指物をはためかせ、
 350騎を率いて忍城を後に、北条氏政に味方するため、小
 田原城へ向かった。
  氏長は、甲斐姫に「ただ城を堅固に守ることだけに心
 を砕くのだ」と言い置いて出発した。
  秀吉の大軍は20万。
  小田原城を包囲する一方、関東にあった支城を一つ一
 つ落として行った。
  この時、6月に、忍城も、石田三成大谷吉継(よしつ
 ぐ)ら2万3000の攻撃を受けた。
  主力が、城主氏長とともに小田原城へ行って、留守を
 守る侍は300余人と、足軽400余人に過ぎなかった。
  一方、敵の攻撃を避けて町人、百姓とその妻子らも城
 へ入っていたため、非戦闘員は3000人を越えた。
  氏長は、甲斐姫だけでなく、その妹の15歳の巻姫と敦
 姫(つるひめ)、それに妻へも、心を引き締めて留守居
 役を立派に果たす様に命じていた。
  2万3000の秀吉軍に包囲された忍城は、利根川と荒川に
 はさまれた沼と湿田の中にあった強固な水城だった。
  城を囲んだものの、城を攻めても、味方の被害が多く
 なると見た石田三成は、水攻めをする事とする。
  ちょうど梅雨時でもあった。
  しかし、6月16日の大雨で、大被害を出したのは秀吉軍
 であった。
  堤防が決壊し、堤下に陣を敷いていた将兵が濁流に呑
 まれ、数百人が死んだ。
  そこで強行突破をすることになる。
  忍城では、百姓・町人も戦った。
  関東の諸城は次々に落城して行ったが、水に守られた
 忍城は不落だった。
  秀吉は、真田昌幸・幸村親子を援軍に向けた。
  真田の援軍を頼んでも、秀吉軍は、忍城に突入が出来
 なかった。
  だが小田原城では、父の氏長が、日ごろ連歌の友人だ
 った秀吉の右筆(ゆうひつ、文書を司った武家の職名)
 の誘いに応じて、秀吉方に内応し、また、小田原城も陥
 落する。
  ここに、甲斐姫は、二人の妹、母と共に、いずれも甲
 冑をつけ、馬に乗り、数多(あまた)の女を召し連れ、
 家臣に守られ城を出た。
  秀吉は、成田氏長と弟の奏親(やすちか)(ともに小
 田原城にいた)を、会津若松42万石を与えた蒲生氏郷
 預けた。
  氏郷は、食客になった成田氏を哀れみ、采地(さいち)
 1万石を与え、福井城を守らせることになる。
  氏長は、会津へ入る。
  家臣も多く同行した。
  だが、新地に落ち着く間もなく東北に一揆が起きた。
  会津は、伊達政宗の領土になっていたが、秀吉はこれ
 を召上げ、氏郷に与えた。
  政宗は、不満で一揆を扇動しているとの風評がもっぱ
 らだった。
  氏郷は、一揆鎮圧に出撃して会津若松を開ける。
  その隙を突いて、伊達勢が、若松城を襲うとの情報が
 入り、氏長は氏郷の恩に報いようと、弟・奏親と家臣を
 率いて加勢に出る。
  手薄となった福井城には、蒲生家より差し向けられた
 浜田将監兄弟が、留守居役として滞在していた。
  この兄弟が逆心を起こした。
  氏長の妻は、病気で臥せっていた。
  反乱に、もはやこれまでと自害をするところへ、非情
 にも、浜田弟が掛け来たって、彼女を殺した。
  甲斐姫は、謀叛人と聞くと長刀(なぎなた)をとって
 出た。
  甲斐姫は、母を探した。
  家臣が、母の最期を知らせた。
  甲斐姫は怒りの鬼と化した。
  味方はわずか十余人、20倍もの敵勢に突入していった。
  敵兵を伐ち伏せながら、浜田弟に迫り、母の仇を討っ
 た。
  福井城の異変の報に、氏長は引き返し、途中、若松へ
 向かう甲斐姫一行と出会った。
  そして、浜田将監が占領している福井城を攻める。
  そして、ついに将監を取り押さえ、福井城で無念を晴
 らした。
  氏郷は、その顛末を関白・秀吉に報告した。
  1591年の事であった。
  秀吉は、甲斐姫のあっぱれを褒め、甲斐姫大阪城
 呼んだ。
  甲斐姫は、その後を、大阪城で生きた。
  父の成田氏長は、福井城事件の後、蒲生氏郷食客
 ら下野(しもつけ)烏山城2万7000石の大名に取り立てら
 れた。
  この氏長の亡き後、男子が無かったので、本来、城を
 没収されるのだが、秀吉は、氏長の弟・奏親の相続とし
 て認めた。
  その後の事、奏親の子・重長(しげなが)は、関ケ原
 の戦いで徳川方となって江戸期を生きるた。
1590年7月5日、北条氏が滅亡した。
  北条氏政が没した(1538年〜1590年)
  そもそも、小田原城攻めの発端は、秀吉によって私戦
 禁止が具体的に示され、上野の沼田領をめぐる、真田氏
 と北条氏の争いが、この「関東・奥両国惣無事令」の違
 反として、秀吉の制裁の対象となった。
  秀吉が、小田原征伐に踏み切るきっかけとなったのは
 名胡桃城をめぐる争いであった。
  小田原城の支城は、次々に落城し、遂に、小田原城
 けが孤立する形となり、1590年7月5日に、氏直は、自身
 の切腹と、城兵の助命を条件に投降して来た。
  秀吉は、氏直の命は助け、高野山に登らせ、氏政・氏
 照(北条家当主の弟)の2人の切腹に留めた。
1590年7月5日、秀吉の天下統一が成った。
  秀吉は、この時、次の戦いの準備を開始した。
  そこに、日本以外があった。
  また、この7月の小田原城落城後に、家康の関東移封が
 ある。
  移封の話は、既に、4月頃にはあったという。
  家康は、小田原城の落城した間際の地へ、その動揺の
 残る中を、江戸にと入って行った。
  この移封を、従来は否定的に見ていたが、肯定的にみ
 る意見もある。
  家康の居た5か国(三河遠江駿河・甲斐・信濃)を、
 秀吉は、織田信雄に与えるとしたが、
  信雄は、今までいた父祖伝来の領国・尾張固執した
 ため、秀吉に追放されてしまう。
  過去にも、佐々成政が移封が絡んで滅亡している。
  家康は、その様な事も意に含み、北条の落武者が在所
 在所に隠れたり、盗賊などになったりして、物情は静ま
 らなかった地へ入って行く。
  その様な地に、落武者や浮浪人らが、武蔵の西の端の
 八王子辺りに集まり、住み着いている。
  武蔵の国の最大の都会でもあった八王子。
  この頃、北条氏政の居城で、有力な城があった。
  ここを、秀吉軍の上杉景勝前田利家の兵・1万5000が
 攻めていた。
  城方は、2000ほどの兵だった。
  城主の氏照は、小田原に行っていたから、配下の武将
 が城を守っていた。
  秀吉の二将は、朝霧にまぎれて迫り、俄に襲い、半日
 で陥落させてしまった。
  北条方の戦死者は、守兵の半分以上の千余人となる熾
 烈な激戦だった。
  旧八王子の城下は、火で灰となった。
  その後、戻った商人たちが、新しい街を作り、市をた
 て賑わった。
  その賑わいに、落武者が集まった。
  家康は、関東移封で身代が大きくなったため、新規お
 抱えの者にこの落武者を、治安面からも召し抱え、家臣
 団の中に組み入れた。
  「落穂集」に、「家康公が江戸御入国のとき、武州
 王子にて新たに500人ばなり召し抱えられ」とある。
  「八王子千人同心」と言われる、特殊な徳川家臣団は、
 この様にしてできた。
  家康は、彼らを甲州街道に、西端の押さえとして、八
 王子に住まわせ、甲斐や相模に抜ける峠の防衛に当たら
 せた。
  それを支配するために、徳川家臣団の中での甲州侍(
 武田家の旧臣)を組頭にした。
  この八王子千人同心の家系から、「東海道中膝栗毛
 の十辺舎一九が出た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/