(増補版)95C3/3:気になった事柄を集めた年表(1595年7月〜1597年2月)

題:(増補版)95C3/3:気になった事柄を集めた年表(1595年7月〜1597年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1595年、五大老
  徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元・小早川
 隆景が五大老に任命された。
1595年、検地が終わり、税法を定めた。
1595年、社会資本整備・利根川
  利根川左岸(現在の太田市付近の34キロ)に堤防を築
 いた。
  さらに、利根川の脈川である会の川を締め切った。
1596年3月1日、この日に、石田三成が、その領地である近
 江国浅井郡伊香郡の村々に、秀吉の「定」に則った数
 ヶ条の定を出した。
 「当村の百姓で、さる小田原城御陣の後、奉公人・町人・
 職人になり、よそへ行ったものは、返せとの御法度であ
 るから、よく調べて給人に申し出よ、たとえよその里へ
 行って、田を作っていても、元の所へ召し返せ、また、
 よその百姓が来ていても、だれも召しかかえてはならぬ」
1596年6月15日、和議のために、使節が、釜山を出発した。
  この日、ようやく明の冊封正使楊方亨(ようほうこう)
 が朝鮮の釜山を出発し、日本に向かった。
  副使の沈惟敬は、正使より一足早く日本に到着し、6月
 27日に、伏見城において秀吉に謁見した。
1596年8月29日、和議の正使が大阪に到着した。
  正使の大阪到着は、この日で、9月1日に、秀吉は、大
 阪城で楊方亨と沈惟敬の二人の使節に引見した。
1596年9月2日、秀吉、和議の正使と副使を、大阪城で饗応
 した。
  この饗応の後、猿楽なども催され、秀吉の機嫌も良か
 った。
  しかし、宴が終わって、明国王の勅を読ませたところ、
 そこには「特に爾(なんじ)を封じて日本国王と為(な)
 す」とあるだけで、
  秀吉が、先に明に要求した七ヶ条の要求については、
 何も触れられていなかった。
  怒った秀吉は、冊封使を追い返してしまい、再出兵の
 命が下された。
  この時の様子を、
  「秀吉、威を輝かさんと欲し、鮮赤の衣を着し、明冠
 を蒙り、上壇のの中央に大座す」とある。
1596年、秀吉と信長の頃の人たちとの関係
  信長の三男・信孝と柴田勝家が秀吉に敵対する。
   信孝は、岐阜城に挙兵して敗れ、知多郡野間に落ち
 て自刃に追い込まれた。
  辞世の歌
 「むかしより 主をばうつみの野間なれば、恨みを見よ
 や羽柴筑前」。
  そして、やはり、信長の子の信雄は、1590年の小田原
 の役の後の関東処分(1596年)で、家康が移った後の駿
 府を与えられたが、尾張、伊勢旧領に執着して秀吉の怒
 りをかい、所領を没収されて下野国烏山(しもつけから
 すやま、栃木県烏山町)に流された。
  信雄は、この地で2万石を与えられたものの、家来は
 わずかの侘(わび)しい生活に、剃髪して出家し、信長
 を供養し、秀吉への憎しみを押さえて、恭順の意を示し
 続けた。
  やがて、秋田に移った後に許され、秀吉の御伽衆(お
 とぎしゅう)になった。
1596年、秀吉内の武断派と官吏派との亀裂
  太閤秀吉と信長の時代から戦場を駆け巡って来た山内
 一豊、浅野長政池田輝政加藤清正正室おねの台所
 飯で育ち、衣類の世話までしてもらった)、福島正則
 まさのり)といった武将たちは、戦い一筋に生きて、太
 閤に奉公してきた者たちである。
  これに対し、石田三成大谷吉継(よしつぐ)、小西
 行長ら官吏派と呼ばれる人たちは違っていた。
  秀吉が、最初に一国一城の主になったのは北近江の長
 浜。
  ここで多くの家臣団が必要となり、滅びた浅井氏の旧
 臣を数多く登用するなどした。
  頭脳派の官僚が必要だった。
  石田三成は、朝鮮出兵では船奉行を務め、その将兵
 輸送にあたった後、三成は渡航して在朝鮮部隊督励の奉
 行を務めた。
  この際、秀吉への恩賞報告では、いわゆる官吏派に厚
 く、武断派には薄い、えこひいきな報告をしたとして
 、恨みを買う。
  この様な事から、三成を最も嫌ったのは加藤清正であ
 り、福島正則であった。
1596年、キリスト教魔女狩りで、アルサスのサン・アラ
 マンでは、この年だけの1年間で200人以上が焼かれた。
1596年12月、松平信綱が生まれた(1596年〜1662年)
1596年、デカルトが生まれた(1596年〜1650年)
1597年、足利義昭が没した(1537年〜1597年)
1597年2月、秀吉、朝鮮再出兵の陣立書を発表した。
1597年2月5日、豊臣秀吉に迫害されたとキリスト教が言う
 「長崎の西坂で殉教の26人」が十字架刑となる。
  これは殉教ではない。
  秀吉が出した禁教令で、ほとんどの宣教師は何事もな
 く帰国している。
  若しくは、長崎に戻っている。
  しかし、6人の宣教師が、この法律を犯した。
  活動を続けていた。
  この法律違反行為の宣教師が、隠れて活動を続けるか
 ら罰せられたのだ。
  日本人の信徒は、可哀想に、その宣教師にそそのかさ
 れて、やはり、法律の法違反行為をしていた。
  その事により、法律違反者として罰せられた。
  この6人の宣教師は、フランシスコ会の宣教師。
  日本は、ヨーロッパの様に、無実の人を残酷に殺すよ
 うな事はしていない。
  これを、キリスト教は、しきりに「殉教だ」「殉教だ」
 と嘘宣伝(プロパガンダ)する。
  法違反者たちなのだ。
  ちゃんと法に従っていた宣教師たちの安全は保たれて
 いる。
  ここが大切な所。
  ヨーロッパの悪行為とは全く日本の場合は違うのだ。
  自分たちに利があるからと、キリスト教は嘘を言うの
 は止めなさい。
  嘘付きキリスト教を返上して下さい。
  長崎の聖人像は嘘でできたものです。
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