(増補版)78C2/3:気になった事柄を集めた年表(1571年5月〜1572年11月)

題:(増補版)78C2/3:気になった事柄を集めた年表(1571年5月〜1572年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1571年8月18日、織田信長の、再度の小谷城(おたにじょ
 う、浅井氏の城)進攻への布石。
  妹の嫁いでいる小谷城
  何故、信長はゆっくりと攻めているのか? 
  妹の存在が・・そこにあったのだろう。
  信長は、小谷城の周りの村々に手を付けた。
  そして、それだけで、横山城に引き上げた。
  そして、小谷城は置いといて、そこから延暦寺を目指
 し、中山道を進んだ。
1571年9月1日、信長は、この日、新崎郡の新村城と小川城
 を降ろした。
  この方面の一揆を掃討した。
  ついで、野洲郡の金ヶ森(一向一揆の中心地)を攻め
 落とした。
  信長が目指すのは、あくまでも延暦寺で、
  一向一揆を攻めたのは坂本への通路を確保したいため
 だった。
1571年9月12日、比叡山の焼き打ち。
  信長は、一挙に坂本へ進み、比叡山に攻め上った。
  延暦寺と、坂本の日吉社を、一屋あまさず焼き払った。
  徹底的さがこの時にはあった。
  1569年10月の寺領還付要求の時や、1570年12月の朝倉
 との和睦の時の信長とは、まったく違っていた。
  何が、信長をこの様にしたのか?
  これで、近江経略(攻めて、支配する事)は一段と進
 んだ。
  滋賀・高島の両郡が、新たに信長の下に降った。
  近江国人の降りるものが、一段と多くなった。
  この頃、浅井の武将で、姉川の北岸の宮部城を守って
 いた宮部継潤(けいじゅん)が秀吉に降っている。
1572年3月、将軍・義昭が、信長の執奏(しっそう、取り次
 いで奏上する事)する改元を妨げた。
  朝廷から、幕府と信長へ改元の命があったが、幕府が
 改元の費用を出さない行為をした。
  改元は、本来、天皇の大権だが、実際上の責任は幕府
 にあった。義昭は、そこをすんなり事を運ばなかった。
  信長への抵抗であった。
1572年4月、信長が、大徳寺に、あらためて徳政で免除した。
1572年7月1日、信長が、近江に攻め入った。
  織田信長が、今度は直接小谷城を攻めるべく、近江(
 滋賀県)へ進み、浅井長政との戦いが起きた(前哨戦)。
  信長は、意を決した。
  しかし、本格討伐はこの後に来る、この時は前哨戦。
  松永久秀と南近江の「国衆中(くにしゅう、領民のこ
 と)」にあて、7月1日に、小谷を攻撃するにつき、老若
 を問わず鋤(すき)や鍬(くわ)を持って砦を作れと言
 った。
  そして、小谷の城下町を攻めた。
  そしてさらに、北近江の各地へ、前も増して徹底した
 攻撃を仕掛けた。本格城攻めはしていない。
  苦しい信長が居たのだろう。
1572年7月29日、信長は、小谷城攻撃の用意を、一層進める
 ため、7月末、虎姫山砦の築造に取り掛かった。
  浅井長政は、朝倉義景に対し、「信長は、尾張・伊勢
 の一揆に弱っている」との書状を出している。
  そして、「今が、信長打倒の時だ」と言っていた。
1572年9月、信長が、将軍・義昭に意見書を呈した。
  信長は、義昭に出した「意見17ヶ条」で、この年の3月
 の事を取り上げて、「天下」の希望と、「禁中(きんち
 ゅう、宮中)」の命令に反するものだとして非難した。
  反信長勢力と結託して、信長に敵対行動をとる将軍・
 足利義昭に対しての信長の耳の痛い話の具申(意見を申
 し述べる)。
  その内容の1部は・・、
  ・「宮中への参内を怠らない様に申し上げたのに近年
 怠っているのは遺憾である」
  ・「幕府へよく奉公し、怠りなく忠節を尽くす者に相
 応の恩賞を与えず、新参者でそれほどの事をしていない
 ものを厚遇するのはよくない」
  ・「信長に友好的な者に対し、女性方(女房衆)にま
 で不当な扱いをしているが、どういうことなのか」
  ・「よく奉公して、何の落ち度もない者たちが昇給(
 扶持の加給)がないと、信長に泣きついて来たので、将
 軍に取り次いだにもかかわらず、何も聞き入れらないの
 はどういうことか?」・・など
1572年9月〜1573年4月、武田信玄が、西上する(甲斐武田
 氏の遠征)
  北条氏政は、1571年末に、上杉謙信の態度がはっきり
 しないのに業を煮やし、武田信玄と和睦した。
  そこで、信玄は、いよいよ本腰を入れた西上を考えた。
  各地の信長に対抗していた派は、この信玄に期待し、
 活気づいた。
  信玄をはじめ、将軍・義昭、石山本願寺、各地の組織
 された一向宗徒、朝倉義景浅井長政、三好一党、松永
 久秀から六角承禎、
  そして、久秀のもとに居候をしていた土岐頼芸に至る
 までが、互いに呼びかけ会い、直接的に、また、間接的
 に結んだ。
1572年10月3日、信長が、遠江静岡県西部)に進撃した。
  信長が、本格的に遠江に進撃を開始した。
  ここで、信長は、信玄と絶縁し、謙信との同盟に踏み
 切らざるを得なくなった。
  謙信は、信長に誓紙を送り、また、信長の子を養子(
 実は人質であろう)にしたいと申し入れ、信長も承諾し
 た。
1572年11月20日、信長が、謙信と結ぶ。
  信長が、謙信に長い手紙を書いた。ここで、はっきり
 と信玄と戦うという決意を表明している。
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