(増補版)77C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年11月〜1571年5月)

題:(増補版)77C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年11月〜1571年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1570年、スペインがマニラ(ルソン)を占領した。
  マニラは、既に、国際都市だった。
  中国は誠実な貿易をしていた。
  生糸や絹織物、そして陶磁器などの商品をもたらして
 いた。(イギリスはアヘン・麻薬を運んだ)。
  マニラには中国人居留区もあった。日本人もいた。
  豊かに交易でにぎわう都市・マニラ、この都市にスペ
 イン人は目を付けた。やはり、欲しいという欲からの行
 為だった。
  そして、この年に、スペインは、マルティン・デ・ゴ
 イティ率いる遠征隊を送り込んだ。
  そして、武力で占領し、植民地とした。
  やはり、キリスト教国・スペインは武力で奪い取った。
  スペインは、同じく、武力で奪い取ったメキシコの地
 の銀(レアル銀貨)を使って、この交易の利益を享受し
 た。
  マニラは、中国の利益を得る拠点として絶好だった。
  この時代の後になって、やはり、中国の利益を得たい
 利権を得たいというアメリカは、スペインからこの中国
 への拠点・フィリピンをまったく卑劣な戦争(米西戦争
 で、勝と分かっている戦争で奪い取っている。
1570年、多くの地図を集めて編集されたオルテリウス(現・
 ベルギーの人))の「地球の舞台」が作られた。
  日本地図が、1595年に追加され、この地図がヨーロッ
 パにおける最初の日本地図とされている。
1571年、レパントの海戦
  オスマン帝国と、教皇・スペイン・ヴェネツィア連合
 国との戦い。
  戦力:オスマン帝国300隻強、連合国300隻強、ほぼ同
 数。
  双方のガレー船の櫂手は奴隷によって漕がされていた
  (キリスト教教皇だって奴隷を使った)
  オスマン帝国(テュルク系・・後のトルコ人のオスマ
 ン家出身の皇帝をいただく多民族帝国)の海軍を、
  この年のこの海戦で、スペイン連合艦隊が破り、世界
 最強を誇るに至った。
  この戦いで、スペイン王国は、支配下ジェノバや、
 イタリアの諸都市、教皇(領)、マルタ騎士団などから
 最大限の戦力を集めた。
  この時期、キリスト教は、世俗の王を廃したり、世俗
 の欲に関与する事しきりだった(世俗の欲を貪り、そし
 て紛れるキリスト教だった)。何度も、戦争までしてい
 る。
1571年、有馬晴信が、兄の義純が早世したため、家督を継
 承した(4歳)。肥前日野江藩の初代藩主。
  この頃の有馬氏は、龍造寺隆信や、龍造寺の支援を受けた
 西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受け、大変な状態だっ
 た。
  晴信は、最初はキリシタンと対抗していたが、キリス
 ト教宣教師から武器・弾薬の支援を受け(劣勢だっだの
 で受けざるを得なかった)、また、食糧までも支援を受
 けて、かろうじて国を保っている状態だった。
  そこまでして、龍造寺隆信から必死の防戦をするとい
 う状態だった。
  キリスト教宣教師からの物資が頼みの晴信だった。
  1580年、晴信は、この年に洗礼を受けている(13歳)
 が、晴信にとって、強力な敵対関係にある龍造寺氏から
 の攻撃を防ぐため、キリシタン宣教師からの武器・弾薬
 に頼った。
  また、宣教師の要請で、領内の多数の神社仏閣の破壊
 をさせているが、晴信は、1600年の関ヶ原の戦いの時、
 キリシタン大名小西行長に攻め込んでいる。
  晴信にとってキリスト教よりお家がすべてだった。
  晴信は、マカオで晴信の貿易船がポルトガル船とトラ
 ブルを起こした事件の復讐している。
  ポルトガル船が長崎に来た時に爆沈させている。
  「目には目を」という事でやったのだろうが、この件
 で、晴信は甲斐に追放され、死罪となっている(まった
 く日本的な形で、切腹した後、首を切り落とされた)。
  晴信もそうだが、キリシタン大名の子や孫の代は、キ
 リシタン大名を止めている。
  また、晴信の貿易において、宣教師が絡んだ南蛮貿易
 で、日本人を奴隷にして拉致して行ったが(特に、女性
 方))、晴信の貿易もこれに手を汚している。
1571年、北条氏康が没した(1515年〜1571年)
1571年、毛利元就が没した(1497年〜1571年)
1571年、信長が、目標を延暦寺に置いた。
  講和の後、信長は、作戦の目標を延暦寺に置いた。
  その為、まず、浅井氏を押さえておきたいと動き出し
 た。
  湖東の交通路を確保すべく、浅井被官の国人を個々に
 誘降し、浅井を孤立させる方策に出た。
  この年、早々に、まず、佐和山城の磯野員昌を狙った。
  それは、先に員昌がもっとも頑強に抵抗したからでな
 く、佐和山中山道北陸道の分岐点に位置する要衝だ
 ったからだった。
  また、秀吉に命じて、越前と大阪間を往来する商人(
 朝倉や一向宗徒と本願寺の連絡に当たっていたのだろう)
 を、姉川と朝妻の間で押えさせた(連絡遮断)。
1571年2月、信長が、浅井の将・磯野員昌を誘降した。
  磯野員昌が降りた。その後に、丹波長秀を入れた。
  ついで、朝妻城の新庄直頼を降伏させ、太尾城を開城
 させた。
  こうして、岐阜路は格段に安全になった。
1571年5月12日、浅井の将・磯野員昌が降り、佐和山城が開
 城して後、信長は岐阜に引き上げた。
  浅井への戦いは急がない信長だった。
  浅井の事は、一応、横山城に居る秀吉に任せた。
  そして、この日(5月12日)、伊勢長島の一揆を討つべ
 く、信長は自ら出陣した。
  しかし、しかし、戦況は思わしくなく退却となった。
 信長が敗れたのである。
  木曽川長良川と西の丘陵にはさまれた低湿地帯で、
 信長軍の大集団の行動には不利だった。
  作戦行動がままならず、この様な状況に慣れている門
 徒のゲリラに追撃される始末だった。
  柴田勝家が負傷し、氏家卜全は戦死するという始末だ
 った。
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