(増補版)82C2/3:気になった事柄を集めた年表(1577年12月〜1578年6月)

題:(増補版)82C2/3:気になった事柄を集めた年表(1577年12月〜1578年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1578年頃、別の説:秀吉が、信長の4男・於次丸(於継丸で
 はない)を養子にもらう。
  この頃、秀吉は、信長に願い出て、信長の4男の於次丸
 (おつぎまる)を養子に貰い受けた。
  於次秀勝と言われる。
1578年1月、信長が、正二位に昇叙した。
1578年2月、播磨国兵庫県南西部)三木城の別所長治が
 叛いた。
  別所長治は、東播磨8郡を治めるこの地域の最大の勢
 力であった。
  隣接する摂津(大阪)の三好家に対抗するため、いち
 早く信長に属した。
  信長の中国征伐でも先手を務めて、播磨一国を賜る心
 づもりでだった。
  しかし、この長治の思惑とは裏腹に、秀吉が、中国征
 伐の責任者として播磨に乗り込んで来た。
  このままでは、思っていた望みはかなうまいと思った。
  一方、毛利輝元に庇護されていた足利義明は、幕府崩
 壊後も地方の大名への依然として権力を保持しており、
 各地に檄を飛ばし、第三次信長包囲網を形成していた。
  長治は、その様な義昭の調略を受け、突然、毛利方へ
 寝返った。
  すると、長治が影響力を持っていた東播磨周辺の豪族
 も長治に同調し、東播磨の豪族が一斉に信長に叛旗を翻
 した。
1578年3月、信長の別所長治討伐命を受けた秀吉は、勝家と
 の意見が合わず、無断で戦線離脱した汚名を返上すべく、
 この命に取り組んだ。
  まず、長治の叔父・別所重棟を呼び、長治説得を命じ
 た。
  しかし、その説得も効が無く、秀吉は、三木譲攻撃を
 決定した。
  秀吉は、黒田官兵衛の進言を入れ、姫路城から書写山
 に本陣を写し、3月29日に、三木城を包囲し、攻撃を開始
 する。
  一方、毛利輝元も、長治寝返りを好機として、一気に
 播磨制圧をしようと、陸路と海路の両面から、播磨へと
 侵攻を開始した。
  そして、4月中旬から本格参戦した。そして、上月城
 包囲した。
1578年3月13日、上杉謙信が没す(1530年〜1578年)
  毛利の下に居る義昭は、1576年に、反信長勢力を糾合
 した。
  義昭の仲介で、1576年5月には、甲州・相模・越後の
 「甲相越一和」が試みられており、
  謙信は、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺
 と和睦した。
  これによって信長と謙信の和睦は、破綻した。
  謙信が七尾城(石川県七尾市)を攻めていた1577年、
 援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の
 派遣を決定し、謙信との戦いに踏み切った。
  信長の大軍が動いた。
  この軍は、途中、秀吉と、総大将の勝家との意見が合
 わないで、秀吉が引き上げるなどの足並みの乱れも生じ
 たりしていたが、謙信の大軍とのし烈な戦いも発生した
 りした。
  色々な城を巡っての戦いがあり、戦上手の謙信に、柴
 田勝家は撤退した。
  謙信軍は、撤退する勝家軍を追撃し、1577年11月3日に、
 織田軍を撃破した(手取川の戦い・石川県白山市の川)。
  そして、謙信は、約1ヶ月後の1577年12月18日に、春日
 山城(新潟県上越市)に帰還した。
  年が明けた頃の予定では、1578年3月15日に、遠征を開
 始する予定だったらしい。
  しかし、その出陣予定の6日前の3月9日に、謙信は、遠
 征準備中の春日山城で倒れた。
  そして、その4日後の3月13日、この日の未の刻(午後
 2時)に、急死した。49歳だった。
  遺骸は、鎧を着せ、太刀を帯びさせて、甕(かめ)の
 中へ納め、漆で密封した。
  この甕は、上杉家が、米沢に移った(1601年8月)後も、
 米沢城の本丸の一角に安置されたという。
  明治になって、歴代の藩主が、上杉家の御廟へ移され
 たという。
1578年4月、信長が、右大臣を辞した。
  信長が、右大臣と右近衛大将の両官を辞した。
  この様な官位は、もはや必要なしと見たのだろう。
  また、性格として貴族風にはなじめないとも感じたの
 だろう。
  また、官位に伴う煩わしい儀式や交際をつとめて避け
 ようとしたのだろう。
1578年6月21日、救援の秀吉が退陣し、信長方の上月城(兵
 庫県佐用郡作用町)が落城した(尼子氏が滅ぶ)。
  上月城を攻める毛利勢と、上月城を救援に駆け付けた
 秀吉勢が、上月城下で戦った。
  秀吉は敗れ、書写山兵庫県姫路市)に陣を移すこと
 になった。
  後詰めの援軍によって助けられる見込みがなくなった
 上月城は、毛利氏に攻められ、簡単に攻め落とされてし
 まった。
  尼子勝久は自殺し、山中幸盛も捕らえられ、移送の途
 中に殺された。
  秀吉軍は、信長の命令によって三木城攻めに向かうた
 め撤退したのだという。
1578年6月29日、秀吉が、播州・三木城(兵庫県三木市)を
 攻めた。
  この年の初め、信長に味方していた三木城の別所長治
 が、毛利輝元と通じて、信長に反旗を翻(ひるがえ)し
 た。
  この日、秀吉は、三木城攻めを始めた。
  この戦いは予想以上に長引いた。
  1580年1月までかかった。
  別所長治以下、主だったものの切腹と引き換えに、城
 兵の命は助けるという条件で開城する事になった。
  城主・別所長治が、1580年2月2日に、切腹し、長かっ
 た三木城攻めの幕は閉じた。享年23歳。
  辞世は、
  「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかは
 る 我が身とおもへば」
..
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