(増補版)75C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年4月〜1570年7月)

(増補版)75C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年4月〜1570年7月)
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1570年4月20日、信長の朝倉征伐・・そのⅡ:華麗なる出陣
  この日に、信長は華麗な軍装を整えての越前征伐への
 出陣だった。
  何と朝廷の臣の廷臣の鳥居雅敦(まさあつ)や日野輝
 資(てるすけ)までが従軍していた。
  多数の「貴賤男女」が見物し、見送った。
  天皇は、自ら内侍所(ないしどころ、三種の神器の一
 つである神鏡を奉安する所)で、千度祓(せんどばらい、
 神前で大祓・おおはらえの詞を千度唱えること)を修し
 (修する・・整えて正しくする)、次いで数日間、信長
 の戦勝を祈った。
  信長は得意満面、一挙、朝倉の本城一乗谷進撃を思い、
 その成功を信じて疑わなかったように見えた。
  事実、彼は、琵琶湖西岸から若狭へ入り、25日には、
 早くも天筒山(てづつやま、標高171メートル、敦賀市
 朝倉氏の出城があった)を陥れ、次いで、金ケ崎(敦賀
 市)を降ろした。
  ここまでは良かった。
  ところが、信長にとっては全く意外な事に、妹婿の浅
 井長政が朝倉に応じて挙兵した。
1570年4月30日、信長の帰京。
  浅井長政の挙兵により窮地に陥った信長は、秀吉を金
 ケ崎に残して殿軍(しんがり)を務めさせ、自分は朽木
 越えで、30日夜半に帰京した。
  従う者はわずか10人だったと言うが誇張だろう。
  出陣当時の華麗な面影はまったくなかった。
  この様な経緯(いきさつ)から、これからの三ヵ年に
 およぶ信長の苦闘が始まる。
1570年5月9日、信長が、岐阜に帰る。
  浅井長政の寝返りで窮地に陥り、京都に退いた信長は、
 この日に、京都を発って岐阜に帰った。
  道すがら、近江滋賀郡宇佐山城にも森可成野洲(や
 す)郡永原城佐久間信盛蒲生郡長光寺城に柴田勝家
 同郡安土城中川重政を入れた。
  これは、この頃、東南近江の至る所に興っていた一揆
 を押え、岐阜路を守るためでもあった。
  岐阜への帰途も、永原から千種越えでやっと帰ったが、
 途中、再起した六角承禎にそそのかされた杉谷前住房な
 る者に信長は銃撃され、かろうじて難を逃れていた。
  千種越えの伊勢路の危険な様子がうかがわれるが、中
 山道はもっと危険で通れなかったのだろう。
1570年5月25日、信長は、この日に、岐阜に居て、遠藤胤
 俊・同慶隆なるものに出陣を促(うなが)した。
  そして、鉄砲の調達を命じた。
1570年6月、六角は、朝倉を喜ばなかったらしく、6月初
 めに南近江の一揆を寄せ集め、単独で野洲川下流域にう
 って出た。
  佐久間信盛柴田勝家がこの挙動を押さえた。
1570年6月、家康が、浜松に移った。
  家康は、信長の意向に反して、あえて祖父以来の根拠
 地であった三河岡崎から遠江浜松に移った。
  これは、武田信玄に対抗するためであった。
1570年6月4日、近江にいた秀吉は、この日に、堺の今井
 宗久に、鉄砲薬30斤と、鉛硝30斤の調達と、大阪にある
 兵糧米の輸送を頼んでいる。
  2か月前の思い上がりと迂闊(うかつ)さはもう見られ
 なかった。
1570年6月19日、信長が近江に入いる。
  信長は、この日に、岐阜を出陣し、国境を守る堀次郎
 樋口直房を誘降して近江に入った。
  そして、今度は慎重に、浅井の本城・小谷城を無理攻
 めせず、周りの村々を焼き払いながら横山城を囲んだ。
1570年6月20日、信長が、小谷城近くに攻め込む。
  そして、この日に、京都で軍体制を整えた信長は、大
 軍を率いて、浅井長政の居城・小谷城近くに攻め込んだ。
  浅井長政は、朝倉義景に援軍を請い、信長も徳川家康
 の援(たす)けを受けていた。
1570年6月28日、姉川の合戦。
  この日に、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍が激
 突した。
  結果は、織田・徳川連合軍の大勝であった。
  信長は、小谷城を攻める事をしなかった。
  秀吉に命じて、落城していた横山城(よこやまじょう、
 山城、滋賀県堀部町、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点
 として築城)を築かせ、小谷城の押さえとし、秀吉をそ
 こに置いた。
  ここから、秀吉の近江での活躍が始まった。
  織田軍は、じりじりと小谷城の包囲の輪を縮め、小谷
 城のすぐ近くの虎御前山(とらごぜ)に要害を構え、そ
 の定番として秀吉を入れた。小谷城は孤立して行った。
1570年6月28日、信長の動きにつられて長政は、朝倉景健
 (あさくらかげたけ、朝倉氏の家臣・景隆の末子)の援
 軍と大寄山に出陣し、6月28日の姉川の合戦で酷い痛手
 を受けていた。
  この戦いで、家康は、強く先鋒を望んで入れられ、ほ
 とんど独力で朝倉郡を打ち破っていた。
  即日、信長は、将軍・義昭に披露させるべく細川藤孝
 に宛てた手紙で「野も田畑も死骸ばかりに候、・・」と
 書いた。
  そして、なお頑強に抵抗している磯野員昌の佐和山城
 に長囲(ちょうい、長い間取り囲む事)の軍を置いて、
 7月4日に、一旦京都に入り、次いで岐阜に帰った。
1570年7月21日、三好が挙兵。
  浅井に対して最後の決戦を挑まず、一旦、岐阜に引き
 上げたのを、三好三人衆は信長の敗退と見たのだろう。
  摂津中島に、7月21日に入り、野田・福島に陣地を築
 いた。
  ついで、石山本願寺が三好党に通じて挙兵し、ここに
 信長の危機が始まった。
  妹のお市や、その子供たちの居る小谷城、兄・信長の
 本心は攻めたくなかったのだろう。
  姉川の合戦で、妹婿の長政に大きな痛手を与えたこと
 で十分としたのだろう。
  故に、一旦岐阜へ引き上げたのだろう。
  そこを見損じていた三好たちだった。
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