(増補版)21A:気になった事柄を集めた年表(770年〜800年)

 題:(増補版)21A:気になった事柄を集めた年表(770年〜800年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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771年、カール1世(カール大帝シャルルマーニュ)が、
 全フランクを統一した。
  このカール帝をヨーロッパ、特に、ドイツとフランス
 は、大きく評価している。自賛している。
  カール1世は、翌年の772年に、ゲルマン人を降伏させ
 ようと、服属させようと、遠征を行っているが、この様
 に、彼は遠征ばかりをする、遠征を10回以上行った帝だ
 った。
  カールは、抵抗する指導者を、死刑や追放に処したり、
 まったく、愛など感じさせない領土拡大主義だった。
  彼は、キリスト教を信奉しているようだが、「異教徒
 は殺せ」のキリスト教の教義の通り、「ザクセン族」征
 服、「バイエルン族」征服、「スラブ人」討伐、「アヴ
 ァール:アジア系遊牧民」討伐などなど、討伐行為を繰
 り返した。
  自分たちさえ、自民族さえ、良ければ良いのだの行為
 だった。
  また、カールは、キリスト教の教義の「十分の一税」
 と言って、「収入の10分の1を教会へ納めよ」というキ
 リスト教の教義の支払いを徹底させた。
  カールは、王国維持にキリスト教を利用した。
  その為、キリスト教聖職者を養成した。
  その為、宮廷に、キリスト教聖職者を招き、「カロリ
 ング・ルネサンス」と称したラテン語勉強をした。
  到底、ルネサンスなどと言えるものではなかった。
  祭政一致政治であった。
772年、下野の民衆が課役を免れるため陸奥に逃れた。
772年、渤海使が入朝した。
772年、再び墾田の私有を許可した。
  開墾制限を止めた。
  農民を苦しませない様にという旨の太政官符が発布さ
 れた。光仁天皇の時。
772年、唐代の詩人の白居易(白楽天)が生まれた(772年
 〜846年)
773年、穀物騰貴のため常平法を定めた。
773年、渤海使を放還した。
774年、空海が生まれた(774年〜835年)
774年、平城天皇が生まれた(774年〜824年)
774年5月、河内国が飢饉となり、救済される。
774年9月、諸国に溝池の修造をさせ、五畿内の陂池(つつ
 みいけ)を修造した。
774年、大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ、公卿)が
 蝦夷を討った。陸奥国遠山村まで行った。
774年、新羅使の無礼を責め放還した。
775年、藤原冬嗣(ふゆつぐ、775年〜824年)が、生ま
 れた。
775年、天長節天皇誕生日)が始まった。光仁天皇の時。
776年1月、税の調査の為、検税使を諸国に派遣した。
  1月は東海道、これは、すべての地域が、等しく実施
 されているかが命じられ、行われた。
777年、遣唐使の副使・小野石根が出発した(帰途、難船
 し石根ら死亡)
777年、渤海使が入貢した。
779年、唐使が来朝した。
7世紀後半頃〜8世紀後半頃、この頃に編まれた「万葉集
 が出来た。日本最古の和歌集。
780年、新羅使の朝貢を受けた。
780年、百姓より徴兵し、練達の者に武を習わしむ。
781年、光仁天皇崩御した(709年〜781年)
781年、桓武天皇が即位した(在位781年〜805年)
783年6月、諸寺の田畑の買収を禁止した。
784年、桓武天皇が、長岡京(京都の南西・山背国)に都を
 移した。
  政治の立て直しがその意図。ただ、反対意見が強かっ
 たため、当時、副都として存在していた難波宮(なにわ
 のみや)に移転するという事で新都造営を進めて行き、
 穏やかな方法で長岡京遷都に至った。
785年、国司の正税の私有を禁止した。
  また、私的な林野の選挙や不当悔恨も禁止した。
785年、長岡京造宮使(造宮推進者)となった藤原種継
 暗殺され、皇太弟の早良(さわら)親王が廃位された。
  長岡に都があった期間はわずか10年。
  長岡京遷都は、六国史の「日本後記」に記されている。
785年、最澄弘法大師)が、19歳のこの年、はじめて比
 叡山に登り、一宇の草案を結んで修業を始めた時から起
 こったと伝えられる。
785年、大伴家持が没した(718年頃〜785年)
786年、嵯峨天皇が生まれた(786年〜842年)
785年、淳和天皇が生まれた(786年〜840年)
789年、大きな軍勢を組織し、蝦夷討伐に向かったが、軍
 は多数の損害を出し、敗れて帰った。
8世紀末以前、万葉集が、この頃までに(8世紀末以前)成
 ったと言われている。
  「万葉集」に収録する歌には、鳥類17、獣類20、魚類
 14など、115種の動物が見える。
  ちなみに、ウマの声はイ、カラスの声はコロクなどと
 表現された。
790年、「三世一身の法」や「墾田永年私財法」と土地公
 有制の原則が、8世紀後半から9世紀にかけて大きく揺ら
 いだが、人々は、山林原野の開墾に励むようになり土地
 の私有地化が進み、自墾地系荘園が生まれた。
792年、辺要(へんよう、辺境の要害。国境の要地)以外の
 軍団を廃止し、郡司(ぐんじ、国司の下で郡を治めた地
 方官)の指定による「健児(こんでい、地方の軍事力とし
 て整備された軍団)の制」が創設された。
792年、渤海使の入貢年次を定めた。
794年〜1185年、平安京へ遷都した。
  桓武天皇平安京に都を定めた。平安時代の始まり。
  和気清麻呂の建議によって長岡京より遷都された。
  遷都により山背国は山城国にあらためられた。
  平安時代であるが、この時に築かれた出雲大社は、その
 高さが16丈(48メートル)もあった。
  倒壊した記録もあるが、木造で、当時の日本の技術は、
 世界に誇るものであったことを伝えている。
  中国にもない世界最高水準の業績の一つである。
794年頃、平安時代に入ると儒学は、宮廷貴族の特定の家の
 学問、すなわち家学として固定し、世襲された。
796年、東海道が開かれた。
796年、諸国に地図を作らせた。
797年、京中の凶穢を避けるため、山城国住民の住居のそば
 に死者を葬る習慣を止めさせる。
797年11月、坂上田村麻呂征夷大将軍に就任した。
797年、勘解由使(かげゆし、国司などの官吏が交代すると
 き、新任者が無事に事務を引き継いだことを証明する解由
 状・げゆじょうの審査に当たった職)を置いた(806年、
 廃止)
797年、続日本紀が出来た(菅原道真?????など)
799年、和気清麻呂が没した(733年〜799年)
800年、富士山が噴火した。
800年、カロリング朝フランク王国による西ローマ帝国の再建。
  カール大帝(カール1世、シャルルマーニュ・フランス
 語、チャールズ・ザ・グレート・英語)が、この年、西ロ
 ーマ皇帝として戴冠した。ピピン3世を継いだ。
  西ローマ皇帝を号したが、東ローマ帝国は認めなかった。
  そして、ヨーロッパの誕生、とは言うが・・。
  帝国と言っても、スペインや北アフリカは、イスラム
 治世になっていた。
  また、南イタリアやベニスは、東ローマに制圧されてい
 た。
  そして、彼は、「リベリ」と称する自由民を創設し、
 軍役の義務を負わせようとするのだが、ほとんどが、失
 敗した。
  また、地方統治のために任命した臣下の公や伯たちは、
 たちまち、土着化した。
  そして、地方の諸侯として君臨し始めた。
  当然、彼の配下の官僚的な目的の性格は、まったく失
 って行った。
  彼が目指した中央集権の統治体制どころか、ローマの
 様な一定の首都をも持てないという状況だった。
  彼は、名ばかりの大帝で、帝国の統一はガタガタだった。
  カール帝は、とても腰を据えていられる状況ではなく、
 絶えずあちこちを巡遊して、各地で皇帝の威容を、直接、
 見せつけなければならないという状態だった。
  彼の帝国は、個人的努力で維持されるという、見せか
 けの組織体だった。
  しかし、彼は、わずか、その14年後の814年に死亡した。
  その後、ローマ系人種とゲルマン系人種の混じり合いの
 度合いに応じて、ドイツ人、フランス人、イタリア人とい
 った、一種の民族分化が進み、それが少しずつ固定化して、
 分割されていった。
  ある意味、中央の強圧によってのまとまりの崩壊は、
 地方に描かれ持たれているエネルギーに拠ったという事
 である。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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