(増補版)84C2/3:気になった事柄を集めた年表(1580年9月〜1581年10月)

題:(増補版)84C2/3:気になった事柄を集めた年表(1580年9月〜1581年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1580年、スペインが、ポルトガルを併合した。
  スペインのフェリペ2世が両国を統治した。
  スペインとポルトガル、この2国は交易圏の拡大を競
 ってきた。
  16世紀後半に入ると、ポルトガルの富の西ヨーロッパ
 への流出が原因とする国力衰退が目立ってきた。
スペインはその併合を狙うようになり、ポルトガル王系
 の断絶を契機に、この年に、スペインのフェリペ2世
 軍隊を派遣し、ポルトガル王位を継承し、併合した。
  スペインのこの王朝は、超宗教的なキリスト教カトリ
 ックの王朝で、1492年に、『ユダヤ教徒追放令』を出し、
 卑劣なユダヤ教徒殺戮など迫害・いじめをした。
  多くのユダヤの方々が殺戮された。ユダヤの方々は逃
 げ回った。
  そしてまた、このスペインは、キリスト教プロテスタ
 ントのイギリスと多くの戦争をして来た。
1580年9月26日、織田信長が、大和に検地指出をする。
1580年11月17日、柴田勝家が、加賀一向一揆を討つ。
1580年代、この年代から始めた干拓事業で、倉敷が陸地に
 なった。
1580年、秀吉は、中国地方の征伐を命じられて、播磨(兵
 庫県)を平定すると、姫路付近を検地している。
  これらは、信長の武将としての立場の検地であるが、
 この後、1582年から、秀吉は、独自の立場で次々と各地
 の検地をを行った。
  秀吉が、実施した検地が具体的にみられるのは、信長
 の一武将であった1580年のものが初見である。
1581年4月1日、京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)
  織田信長が、京都で馬揃えを挙行する。
  信長が行なった大規模な観兵式・軍事パレード。
  これは、丹羽長秀柴田勝家をはじめ、織田軍団の各
 軍を総動員する大規模なものだった。
  正親天皇が招待された。
  『天下布武(武によって天下を治め平和にする、そし
 て、七徳の武という施政者の徳を持つ)』を標榜する信
 長は、このパレードの実施によって、京都はじめ、周辺
 大名、庶民に至るまでへ、自分の思いを示した。
  信長は、皇居修復をしたりしているが、天皇を立てた
 姿勢の中での施政を目指していた。
1581年9月、信長が、伊賀を平定する。
1581年9月、安土城が内部装飾完成。
  信長が、狩野永徳父子や「奈良の大工や諸職人」の頭
 (かしら)に、小袖(こそで、袖口の小さく縫いつまっ
 ている和服)を与えている。
  安土城の内部装飾が完成したのであろう。その祝の小
 袖だろう。庶民にまでを思を至らす心があった。
1581年10月25日、鳥取城が落城する。
  それでも吉川経家は耐え抜き、4か月も籠城を続けたが、
 10月に至って、遂に降伏した。
  城主である経家と重臣切腹との引き替えで、兵卒の
 助命なされ、開城とした。
  しかし、開城後、あまりの空腹のところに、食料を得
 て食事したため、兵士が死亡するという事態が起きた。
  多くの兵士が亡くなったという記録が残っている。
  秀吉は、多くの切腹は避けようとした。
  城主の切腹までも避けようとした。
  しかし、経家の意思は固く、信長の許可を得て、城主・
 経家以下、臣下2名、計3名の切腹で決着している。
  吉川経家、享年35歳だった。
1581年、日本最古の海洋の法規集である「廻船式目(かい
 せんしきもく)」が成立した。
  瀬戸内海の海運業者の習慣法を成文化したものと言わ
 れる。
  鎌倉期の成立とあるが、追記が色々あり、実際の成立
 年代は、室町末期とされている。
  海難救助、船荷の損害賠償など多岐にわたる。
  国内の十大港湾などが記されている。
1581年、オランダが独立を宣言した。
  オランダは、キリスト教カトリック国であるスペイ
 ン領で、その統治下にあった。
  そのスペイン国王・フェリペⅡ世は、キリスト教プロ
 テスタントを弾圧した。
  オランダ(ネーデルランド)はキリスト教プロテスタ
 ントだった。
  人々は、また、カトリック国スペインの重税にも苦し
 んでいた。
  スペインは、統治を一層強化した集権統治とし、弾圧
 統治を強めた。
  キリスト教の司教区制度もキリスト教に都合よく変え
 た。
  キリスト教宗教裁判も厳しく、民からの廃止の声が叫
 ばれた。
  財政的にも、民衆は窮乏していた。
  民衆の反発は、そのキリスト教へ向かった。
  キリスト教会などの聖像の破壊などが勃発した。
  スペインは、強圧的に武力による抑え込みにかかった。
  また、新しい法律を作ったりして、一層、民を苦しめ
 た。政治は恐怖政治となった。
  騒乱罪も新設された。
   ドイツに亡命していた貴族・オラニエ公は、1568年、
 軍をオランダへ侵攻させた。ここに戦争が始まった。
  オランダの北部7州は同盟して戦った。
  そして、この年に、スペインへの臣従の拒否を宣言し、
 イギリス女王やフランス王の弟を主権者として迎えよう
 としたが失敗し、独立の州主権と州議会を持つ独立を宣
 言した。
  因みに、オラニエ公は、1584年に、暗殺された。
  この様な経過の中でスペインとの戦いは続いた。
  休戦条約が、1609年に、結ばれ、12年間の休戦はあっ
 たが、1621年に、戦いは再び起こった。
  ウェストファリア条約によって、1648年に、独立が承
 認された。
  八十年戦争(1568年〜1648年)とも呼ばれる粘り強い
 戦いであった。
16世紀後半〜17世紀、魔女熱狂。
  ヨーロッパは、魔女熱狂の時代だった。
  キリスト教が、大権力を保持し、民衆へ大迫害を加え
 ていた。聖俗の領権力を保持した。
  弾圧の一つが魔女による弾圧。
  夜、野草を煎じる助産婦が狙われた。
  また、財産を持っている女性が狙われた。
  魔女裁判の最盛期だった。
  焚刑にされた女性を焼く煙で、ヨーロッパの空が曇っ
 たと言われるくらいだった。
  全滅した村も出た。
  キリスト教会へ告げ口することが盛んに行われた。
  助産婦が、キリスト教に狙われたのは、助産婦は、医
 者的な知識が豊富で、庶民の尊敬を集め、に頼られてい
 た。
  その社会的地位が、権威が欲しいというキリスト教
 は目障りだった。
  キリスト教は、医学と手を結んで権威を得たいとも考
 えていた。
  その意味でも助産婦の女性の方々を無くしたかった。
  医学関係の十字マークはその名残り、何ら、美しい話
 ではない。
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