(増補版)55B:気になった事柄を集めた年表(1431年〜1456年)

 題:(増補版)55B:気になった事柄を集めた年表(1431年〜1456年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1432年、太田道灌(おおたどうかん、武将、武蔵守護代
 家老的重職の人)が生まれた(1432年〜1486年)、
  主君のために武蔵国入間郡河越城(埼玉県川越市)、
 埼玉郡岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区、新資料発見
 で?になる)を築き、
  また、有名な江戸城も築城した(1456年頃)
1432年、北条早雲(ほうじょうそううん、武将、戦国大名
 の後北条の祖)が生まれた(1432年または1456年〜
 1519年)、生まれ育ちに不明な部分が多い人。
  名前も多く持っている。
  主君は、足利義政→義尚→義澄→今川氏親
  日本の氏族で桓武平氏の平惟衡(らいらのこれひら)
 の氏族である伊勢氏(政所執事世襲した家柄)から、
 後北条の祖となった。
  小説には、「伊勢の素浪人が、妹が守護の妾となって
 いたのを頼りに駿河へ下って身を興した」と記されてい
 るが、出自に関する論は多くある。
  「氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名
 門の出であった」という論もある。
1435年2月、悲田院で処刑が行われた。
  衆徒を統制する役目を持つ山門使節(さんもんしせつ)
 が、将軍の命によって3名が処刑された。
  日本は、ヨーロッパと違って処刑はほとんどなかった。
  空が曇るほどの焚刑をしたヨーロッパ。
  全滅する村もあったほどというヨーロッパ。
  キリスト教の扇動で、好きに人を殺していた国々と違
 い、日本は3名の処刑が記録に残る国、
  昔から、人の命を大切に思って来た国。
1436年1月2日、足利義政(あしかがよしまさ、第8代将軍)
 が生まれた(1436年〜1490年)、
  正室日野富子
  東山文化を築いた。
  将軍在位(1449年〜1473年)、
  将軍になった当初、義政は、3代将軍の祖父の義満の政
 治を理想として、その復活を積極的に試みた。
  国内の紛争に対しても、追討令を発し、積極介入し、
 事を収めようとしたり、
  将軍の持つ組織の充実を計ったり、
  守護大名の勢力にも対抗して、政治をしっかり確立し
 ようとした。
  だが・・?
  正室を含む義政の周りの人たちが・・関わりを持って
 来る。
  その様な事件も、何度も起きる。
  1例で・・、配下であるべき守護大名家督相続の紛糾
 も、義政の意が通らなくなって来た、
  また、威が通らなくなって来た。
  守護大名の力がついて来たとも言える。
  足利の時代から戦国の時代への過渡期の中に、義政は
 居た。・・(中略)・・、
  そして、義政は・・、
  東山文化の中に住む、数寄の人となって行った。
  政治は、正室・富子と側近が行なった。
1440年、義政の正室となる、日野富子が生まれた(1440年
 〜1496年)
1441年、嘉吉(かきつ)の乱が起きた。
  室町幕府の第6代将軍・足利義教が、播磨・備前・美作
 の守護大名である赤松満祐に暗殺された事件。
  そして、幕府の討伐軍は領国の播磨で討ち果たした。
 ついで満祐らは自殺した。
  将軍と守護大名の軋轢があり、その中で、満祐は、四
 職家の一つとして幕府政治の重きをなしていた・・が、
  将軍の地位の強化を企画し、強化したい義教は、その
 成行きの中で、一色義貫・世保持頼の重臣を殺した。
  そして、満祐をも圧迫した。
  また、彼の一族である赤松貞村を重く見て、満祐の所
 領を、貞村に与えたりした。
  この様な事から、満祐は、他の守護大名の様に、守護
 大名の勢力を割くために、自分もまた殺されると疑った。
  そして、この年・1441年に、「結城合戦・戦勝祝賀」
 のためと称して、義教を京都の自邸に招いた。そして、
 暗殺を実行した。
  満祐は、本領の播磨に逃れたが、彼と対立していた山
 名持豊以下の幕軍に攻められて、敗死した。
  赤松氏は一旦滅亡となった。
  また、この事件は、永享の乱と共に、室町幕府の没落
 を早める契機となった。
1442年5月、朝鮮において、雨量計による雨量観測が開始
 された。
  都・ソウルと各道の郡県に配置し観測した。
  朝鮮第4代王の世宗王が、1441年に雨量計を開発して
 いた。
1443年、世阿弥(ぜあみ、大和猿楽結崎座の猿楽師)が没
 した(1363年?〜1443年?)、
  父も大和猿楽の有力な役者だった。
  当時、寺が猿楽を保護していた。
  京都へも進出して行った。
  父の観阿弥が、1374年頃、今熊野で、12歳の世阿弥
 共に、猿楽能を演じていた時、
  将軍の義満の目にとまった。
  以後、義満は、保護するようになった。
  義満の催す祇園会などに出る事にもなる。
  当時の貴族・武家社会には、この様な気風を貴ぶ気心
 があった。
  世阿弥は、能力を発揮し、観客の機微を悟り、処々を
 改善し、大成させて行った。
  教養のある品格も付け、厚みも増して行った。
  人脈も広がり、摂政の二条良基には連歌を習い、世阿
 弥の能や能芸論にも反映されて行った。
  深みも増して行った。
  しかし、一転して、弾圧が加えられる。
  世阿弥は、1434年に、佐渡へ流刑にされている。
  そして、どこで没したかは、本当は不明。
1449年、足利義政が第8代将軍となった。
1450年、ハングル:朝鮮文字。
  15世紀中葉、李朝第4代の国王・世宗の時代に創案さ
 れ、「訓民正音」の名で交付された。
  アルファベットと同じ音素文字で、子音字と母音字を
 組み合わせて音節文字をつくり、これを並べて単語を表
 記する。
  当時の音声学の知識を総動員して作った極めて合理的
 な文字と言われている。
  正字である漢字に対し、諺文と卑称して、一般の民衆
 や女性の間でしか用いられていなかった。
  19世紀末に国字として公文書に使われるようになり、
 日本の日韓併合期に、文盲率を改善する目的で教育改革
 策に採用し、埋もれていたハングルを奨励して、「大い
 なる文字」を意味するハングルという呼称も生まれた。
1450年、キリスト教ローマ法王の思い上がり行為。
  世界がさも自分のもののような「思い上がりの悪の行
 為」をした。
  この年、キリスト教ローマ法王は、ポルトガル(国王)
 に、アフリカ西海岸の国・ギニアを越えて、アフリカの
 南端に至る陸地の『征服する権利』を与えた。
  そして、それは「永久だ」とまで言った。
  また、後に、「インドに至るまでを与える」とまで言
 った。
  「ローマ教皇の大勅書」というもので権威を付けて与
 えた。
  これを『デマルカシオン(境界画定)』と言った。
  『他人の土地を征服してよい』と、宗教をかさに着て
 言う極悪行為だった。
1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチが、フローレ
 ンス共和国の小さな村(ヴィンチ)に生まれた(1452・
 4・15〜1519・5・2)、
  多能の人:絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工
 学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など、
  はじめ、幼少の時、画家の所へ弟子入りしている、モ
 ナ・リザは有名、
  しかし、現存する彼の絵画は15点という。
  完全主義の彼は、気に入らない自分の作品を破棄した
 という事と、
  長い間に渡って作品を完成させる、その間に、何度も
 手を加えるという手法であったから・・。
  また、彼の絵画以外の能力の発露の、科学的創造性は、
 重要な発見などがあったが、公表されなかったため、後
 世の科学技術の発展に、直接の影響は与えなかった・・
 と言われている。
  フランス王に保護され、晩年は、下賜されたフランス
 の邸宅で過ごした。
1452年、バチカン宮殿が、教皇ニコラウス5世の時、造営
 された。
  植民地収奪で潤った金が入った。
1453年、ビザンチン帝国の滅亡。
  東ローマ帝国の首都のコンスタンティノーブルが、オ
 スマン=トルコの攻撃で陥落した。
  ビザンティン帝国の滅亡である。
  これによって、多くの学者やキリスト教聖職者が、ロ
 ーマに逃れてきて、ローマの学問や芸術や宗教の勃興に
 大きな力になった。
1456年、東京が開都した。
  太田道灌が、この年に、江戸築城を開始し、1457年に
 完成したとされている。
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