(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年〜1304年)

 題:(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年〜1304年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1299年、オスマン帝国オスマン・トルコ、イスラム国家)
 が建国された。
  15世紀には、東ローマ帝国を滅ぼして、その首都であ
 ったコンスタンティノーブルを征服した。
  最大領土に、1683年になったが、カナンの地(イスラ
 エル)も完全にこの帝国に殲滅されている。
  この国の出現は、西欧キリスト教国にとって「オスマン
 の衝撃」であった。
  また、西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を
 挫折させた。
  この国の歴史は、1922年のトルコ革命による滅亡まで
 の620年以上の長期間、続いた。
13世紀〜15世紀、インカ帝国:1200年頃に興り、13世紀
 〜15世紀に繁栄を極めたインカ帝国は、大量の黄金を使
 った工芸品を所有していた。
  これらは、1533年に、スペインによって滅ぼされた時
 (最後の王アタワルパは莫大な身代金を積んだにもかかわ
 らず殺された)、王族がチチカカ湖に投じたという。
  この伝説は、1988年の日本とボリビアの共同調査で証
 明された。
  エクアドルからチリに及ぶ大帝国だった。
  巨大な石造建築・土木灌漑(かんがい)・織物などの
 高度な文明を有していた。
13世紀、タイ(スコータイ朝アユタヤ朝):13世紀中頃
 に、中国の雲南地方から南下したタイ族が、スコータイ朝
 を建設したが、短命に終わる。
  タイ人による最初のタイ王朝(1257年〜1350年、年代
 は諸説ある)。
  14世紀中葉に勃興したアユタヤ朝(1351年〜1767年)
 が417年間続いた。
  ビルマのアラウンパヤ朝の攻撃により、1767年に滅亡。
  山田長政はこの王朝のもとで活躍。
  中国や琉球と盛んに貿易を行った。
13世紀、外国では、13世紀に既に特許(慣習法)が付与さ
 れていたと言われている。
  日本は明治4年になってから。
13世紀、マレーシア:13世紀にジャワ島にあった王朝の勢
 力下にはいって、振るわなかった。
13世紀、彫刻:明月院上杉重房像(神奈川)
13世紀、絵画:禅林寺山越来迎図(京都)
13世紀、絵画:西本願寺親鸞上人像(京都、専阿弥筆)
1300年頃、中世の頃、鎌倉街道筋が発展した。
  「いざ、鎌倉」、幕府は、有力御家人や豪族を諸国の
 守護や郷の地頭に任命し、一旦鎌倉に異変が起こると、
 これら諸国の部者たちは手勢と共に武装して駆け付けた。
  京・駿河遠江戸〜鎌倉、下総・常陸〜鎌倉、武蔵東
 部・下野〜鎌倉、奥州〜鎌倉、武蔵西部・上州〜鎌倉、
 信濃・越後〜鎌倉などのルートがある。
1300年、最古のポルトラノ型海図ピサ図が作られた。
  羅針盤の発明が、航海図を画期的に変え、実用的にした。
  ポルトラノは、イタリア語で沿岸航海図?の意味からと
 言われている。
14世紀初、絵画:14世紀初。愛染明王像(東京根津美術館
13世紀〜14世紀、絵画:13〜14世紀。聖衆来迎寺六道絵
 入道(滋賀)
14世紀、工芸:14世紀。大鎧・兜・大袖、櫛引八幡宮赤糸
 威(青森)
14世紀、チベット:14世紀には、ツォンカバが出て宗教改
 革を唱え、黄帽派が成立し、次第に勢力を伸ばし、ダラ
 イ・ラマの政権が樹立する。
  清朝以後は、清、英、露の勢力争いの目標になった。
  現在は、中華人民共和国西蔵自治区になっている。
14世紀、アステカ王国:アステカ族が、メキシコ中央高原
 に築いた王国(14世紀〜1521年)。
  アステカ族は、伝承によると、1300年頃にメキシコ盆
 地に到達し、先住民から農耕技術や文化を学び、勇猛さと
 団結力、また、婚姻に基づく同盟関係で勢力を伸ばした。
  首都のテノチティトランを、14世紀中頃に建設し、15
 世紀にアステカ王国を建設した。
  スペイン人キリスト教徒とキリスト教聖職者たちによっ
 て、1521年に滅ぼされた。
1300年、ルネッサンス/文芸復興:14世紀、イタリアに始
 まり、17世紀まで各国に波及した。
  古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動。
  中世のキリスト教に抑え付けられた人間性や、戦争が
 多発する社会の暗黒時代から、人間本来の姿を取り戻し
 たいの「再生・復活」の動き。
  19世紀の中葉ころに、歴史家のミシュレンやブルクハ
 ルトの用いた考え方で、原意は「再生」である。
  市民階級の繁栄を背景に、古典文化を模範とし、ヒュー
 マニズム(人文主義・人間中心主義)によって、あるが
 ままに人間や自然を見ようとしたものであり、近代文化
 の形成に貢献した。
  しかし、なお多くの中世的要素が存在したので、ルネッ
 サンスを近代の始まりとする考えには疑問が呈されている。
  また、ルネッサンスが、ビザンチン文化・イスラム文化
 の影響を受けたことも知られている。
  なお、古典文化の継承をカロリングルネッサンス
 12世紀ルネッサンスなどによってとらえる事もできる。
1301年、新田義貞が生まれた(1301年〜1338年)
1301年8月22日、第10代執権・北条師政(1301・8・22〜
 1311・9・22)
1303年、北条高時が生まれた(1303年〜1333年)
1304年、元と日本の関係に、逆の現象が現れた。
  日本の武装商船が、元(中国)の江南に度重なって襲
 来するようになった。
  元は、海防を強化させた。
  また、元の商人に海外へ出る事を禁じる『禁海令』を
 発布した。
  元が、倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉鎖主義へと
 態度を変化させ、日本との通交を回避するようになった。
  また、高麗においても、二度に及ぶ日本への侵攻で、
 および、第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が
 殆ど尽き、海軍力が弱体した。
  この事が、相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる原因
 となった。
  日本への2度の侵攻の敗戦と、その後の日本武装商船の
 活動によって、中国における対日本観は大きく変化し、
 狂暴で勇猛な日本人像、および、日本脅威論が形成された。
  例えば、南宋遺臣の鄭思肖は・・、
  「倭人は狼、死をおそれない。たとえ十人が百人に遇
 っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで
 戦う。戦士しなければ、帰ってもまた倭王の手によって
 殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべか
 らず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして
 入りがたく、戦守の計を為すべし」・・と述べている。
  この様な、日本恐るべしの資料は複数ある。
  なにしろ、クビライの日本侵攻が成功しなかったとい
 う事が国内で議論されて日本征討を思い止まったという。
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