(増補版)47B:気になった事柄を集めた年表(1303年〜1324年)

 題:(増補版)47B:気になった事柄を集めた年表(1303年〜1324年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1303年、アナーニ事件が起きた。
  ローマ法皇のボニファティウス8世とフランス王フィ
 リップ4世の対立からアナー二事件が起きた。
  フランス軍が、法王を襲撃した事件である。
  法王は死ぬ(キリスト教は、病気で死んだんだと言っ
 ている)。
  この頃、十字軍に対する批判が強くなっていた。
  また、ローマ教皇の権威と共にキリスト教の権威も揺
 らいでいた。
  権威を誇示するローマ法王との間で軋轢が生じていた。
  「すべて、教皇服従すべきである」と宣言していた。
  時代は大きく変わっていたのに・・。
  このボニファティウス8世は、非常にぜいたくな生活を
 していると、また、教会の役職を金で売っていたと弾劾
 されている。
  また、このいざこざに、テンプル騎士団を解散させて、
 多くのお金を得る(財産没収)など、金に絡む話が多い
  (テンプル騎士団は、十字軍遠征などの略奪品で財産
 が一杯あった)。
1304年、後深草天皇崩御した(1243年〜1304年)
1305年、足利尊氏が生まれた(1305年〜1358年)、貞氏
 の子。早くに源氏の再興の志があった。
  武蔵守に任ぜられて、尊氏と改名した。
  時勢を洞察して武士を糾合し、公家の中心の護良親王
 を失脚させ、1335年に、北条時行の征伐のために鎌倉に
 下り、ついに、中興政府に叛き、大挙して上洛した。
1305年、亀山天皇崩御した(1249年〜1305年)
1305年、この頃、羅針盤が発明された。
1305年、ジョット・ディ・ボンドーネというイタリア人
 画家兼建築家が居た。
  この年に、礼拝堂の内部装飾画を書いたりした。
  比較的、キリスト教の宗教画を多く描いた。
  イエスが十字架に磔になった後、降ろされて、聖母マ
 リアがその死を嘆くという状況があったとされ、その場
 面を『ピエタ』と言ったが・・、
  この画家の描いた「ピエタ図」は、他の画家と大きく
 違っていた。
  異常な違いなのであるが、聖書を読んでも分かる様に、
 イエス磔刑になる場には、一緒に刑に処せられる強盗
 の十字架が立っており、そして、刑を執行する役目の刑
 執行人が居るという殺伐たる光景である。
  居る人と言ったら、聖書には、そのイエスの刑の執行
 を見ようと集まった群衆・見物人。これでほとんどとな
 っている。
  イエスの弟子は、馬鹿な事に、逃げて隠れてしまって、
 この場には居ない。居るのは母マリア、娼婦のマグダラ
 のマリア、他2人ぐらいの女性だけ。この状況は聖書に
 書いてある。
  しかし、ジョットのピエタ図には、仏教の涅槃図のご
 とく、多くの弟子や、人々や鳥や花などに囲まれた涅槃
 図の様になっている。
  ジョットは、明らかに、この東洋の釈迦の死の涅槃図
 をモンゴル経由で知っていた。
  シルクロードなどで、インド仏教の影響は、輸送・搬
 送される物と同時に、ヨーロッパ世界へ伝わっていた。
  キリスト教は、「一神教の壁があったから、伝わって
 いない」というが、これはまったくの嘘のプロパガンダ
 で、洗脳である。嘘とプロバガンだばかりをするキリス
 ト教というところとなっている。
1306年、我が国の商船が元に入り、貿易をした。
1308年8月10日、第9代将軍・守邦親王(1308・8・10〜
 1333・5・22)
1309年、ローマにあった教皇庁が、フランス王フィリップ
 4世によって南フランスのアヴィニヨンに移された。
  ローマ法王のクレメンス5世が、ローマを嫌ったとの話
 もある。そして、ここに、77年間、教皇庁は置かれた。
  ローマは、ますます寂れた。政治も宗教もローマを去
 った。
1310年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征(
 〜1313年)。
  イタリアが、神聖ローマ帝国に侵略された。
  ダンテは、これを「喜劇(コメディ)」と呼んだ。
  後に、ボッカチオが神聖をつけて「神聖喜劇」と呼び、
 「神曲」となった。
  ダンテが、あなたが喜劇と名付けたものが、神曲にな
 っていますと聞いたら、びっくりするだろう。
1310年、この頃、大友氏が、『元』と私貿易をした。
1310年、家畜図譜の早い例「国牛十図」ができ、馬は関東、
 牛は西国の言い方がみえる。
1311年10月3日、第11代執権・北条宗宣(1311・10・3
 〜1312・5・29)
1312年6月2日、第12代執権・北条熙時(1312・6・2〜
 1312・5・29)
1315年7月12日、第13代執権・北条基時(1315・7・12
 〜1315・11・20)
1315年〜1317年、西ヨーロッパの大飢饉。
  ヨーロッパが、天候異変により深刻な飢饉となる。
  餓死者多数。1315年には、150万人もの餓死者を記録
 した。また、疾病による死者も増加した。
  この飢饉は、ニュージーランドにあるカハロア火山の
 5年間も続いた火山活動によって引き起こされたとされて
 いる。
1316年7月10日、第14代執権・北条高時(1316・7・10
 〜1326・3・13)
1317年、文保の和談(ぶんぽうのわだん)。
  皇位継承のルールを幕府が仲介してまとめた。
  持明院統大覚寺統との協議が行われた。
  この流れの中で、後醍醐天皇が討幕を決意していった。
1321年、ダンテが死んだ。
1322年、英国のマンデヴィルが地球が球形であることを
 説いた。
1324年、マルコポーロが没した(1254年〜1324年)

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