(増補版)37B:気になった事柄を集めた年表(1200年〜1214年)

 題:(増補版)37B:気になった事柄を集めた年表(1200年〜1214年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1200年、道元が生まれた(1200年〜1253年)。28歳の時、
  曹洞宗を開く。
1200年、幕府が、念仏宗を禁止した。
1200年、朱子が没した(1130年〜1200年)
12世紀末〜13世紀初頭、モンゴル帝国:チンギス・ハンが
 モンゴルを統一した。
13世紀、日本の家系で、13世紀と16世紀の2世紀を貫いて
 古代以来、信用しうる系図を持っているのは、皇室と宮
 廷貴族以外は、極めてまれである。
  近世以降の名家の系図は、この2世紀以前には、容易に
 辿れない。
  古代の名族に結び付く系図を持ってはいても、たいて
 いは、近世に、その家が興隆して後、作り上げたもので
 ある。
  例えば、徳川家が、清和源氏に結び付いているのも、
 1566年、家康が松平を徳川に改めた頃から、1603年、
 征夷大将軍の間にかけて作り上げて行ったものである。
  つまり、13世紀から16世紀は、容易に結びつかない
 のである。
  この2世紀の混乱の中で、古代以来の文物は滅び、あ
 るいは土着し、風俗化して、かろうじて命脈を保った。
1200年頃、彫刻:興福寺金剛力士像(奈良、定慶作)
13世紀初め、彫刻:東大寺俊乗堂重源上人像(奈良)
13世紀前半、彫刻:六波羅蜜寺空也上人像(京都、康勝作)
13世紀初め、クメール帝国(カンボジア):続いて13世紀
 の初め、クメール帝国の繁栄が絶頂に達したときに、今
 日に残る1辺約3キロの正方形をした第4次アンコール・
 トムが造営された。
13世紀前半、この50年間に、ヨーロッパで、70も の大学
 が設立された。
1201年1月、城長茂(じょうながもち、越後国の武将)・
 資盛、叛す。
1201年10月、源通親(みなもとのみちちか、公卿)死す。
1201年、彫刻:東大寺八幡殿僧形八幡像(奈良、快慶作)
1202年7月22日、頼家が、従二位に叙され、征夷大将軍
 宣下される(将軍になる)(1202・7・22〜1203・9・
 7、1204年没)
1203年8月、頼家の病気を理由に、関東28ヶ国の地頭職、
 および、総守護職を子一幡に、また、西国38ヶ国の地頭
 職を弟千幡(実朝)に譲らされた。
1203年9月2日、北条時政が、比企氏を滅ぼす。
  比企能員(よしかず)は、源頼家とはかって北条氏を
 滅ぼそうとした。
  北条時政は、能員を自宅に呼び出して謀殺した。
  頼家の将軍位を廃して、伊豆国修善寺へ追放した(比
 企能員の変)
  それを、比企能員から見れば、「頼家が、急病になっ
 たのを理由に、一幡と千幡に譲らせた時政に対して憤っ
 ていたので、病回復した頼家と時政追放を相談していた」。
  これが時政に漏れた。
  頼家に嫁した能員の娘が一幡を産んだので、北条氏は、
 比企氏の勢力増大を恐れていた。
  能員謀殺の後、一族も滅ぼされた。
  北条氏による頼家の長子一幡(いちまん)とその外祖
 父比企能員(ひきよしかず)の暗殺。
1203年9月7日、源実朝が将軍となる。
  第3代将軍・源実朝(1203・9・7〜1219・1・27、
 1219年没)。
  頼家の幽閉により、その弟千幡(せんまん・実朝)が、
 将軍就任。第1代執権・北条時政(1203・9〜1205・7・
 9、1215年没)
1204年7月、2代将軍・源頼家(1182年〜1204年)が、
 修善寺にて暗殺された。
1204年、キリスト教の十字軍(第4回)が、コンスタンテ
 ィノーブルを占領した。多くの略奪品を奪った。
  その略奪品は、ベネチアに運び込まれた。
  香料・宝石・織物などは、莫大な利益をベネチアにも
 たらした。略奪品の商売の都と化した。
  キリスト教に偏するNHKは、このベネチアをただた
 だ讃美するだけで、この様な実態は、まったく放送しな
 い。
  そして、この十字軍のコンスタンティノーブル占領の
 影響で、コンスタンティノーブルの人々は、西のローマ・
 カトリックが、異端の地とみなしたことに驚き、敵対の
 関係となった。
  コンスタンティノーブルの目は東に向いた。
  そして、スラブ人の教化が進み、キエフ公国のキリス
 ト教化、そして、ロシアに至った。
  ロシアは、ギリシャ正教を国教とした(ロシア正教
 1547年)。
1205年、畠山重忠(はたけやましげただ、武蔵国二俣川
 現神奈川県の有力御家人)が殺された。
  北条氏による政敵打倒。(畠山重忠の乱)
1205年、北条義時(ほうじょうよしとき、武将、伊豆国
 豪族、北条時政の次男)が政所別当(執権)となった。
  北条氏は、執権職として政権を得て、事実上の最高権
 力者となった。
  次第に、御家人による荘園の支配を強め、幕府の実勢
 力を拡大していった。
  このため、朝廷方が支配していた土地は、段々と幕府
 に奪われ、経済的基盤を削減されていった。
  これは、皇室を中心とする貴族階級の人々の生活を支
 えた最大の財源が皇室領の荘園群であった。
1206年、アイバクが北インドを統一した。最初のトルコ系
 イスラーム王朝(マムルーク・スルターン朝)。
1206年、蒙古で、ジンギス・カンが即位した(在位、
 1206年〜1227年)
  ジンギス・カンが、全蒙古を統一して帝国の皇帝とな
 り、直ちに大規模な侵略を開始した。
  モンゴル帝国:1206年に、クリルタイという会議で
 チンギス・ハンという称号を贈られた。
  以後、世界征服に乗り出し、チンギス・ハン以後も続
 けられ、ユーラシア大陸に、空前の大帝国が建設された。
  その後、モンゴルと中国本土以外は、オゴタイ(西北
 モンゴル)、チャガタイ中央アジア)、イル(イラン
 地方)、キプチャック(南ロシア地方)の4つの汗国に
 分けられた。
  5代皇帝フビライ・ハンの時、中国に元朝を建て、以後、
 モンゴル帝国は分裂状態となった。
1207年〜1210年、建築:興福寺北円堂(奈良)
1208年頃、彫刻:興福寺北円堂無著像・世親像(奈良、運
 慶作)
1211年夏、この年の夏は、大雨が降り続き、被害が相次い
 だ。
  鎌倉幕府の3代将軍・源実朝は、持仏堂の本尊に祈っ
 て、一首をしたためた。
  「時により すぐれば民の なげきなり 八大龍王
 りゅうおう) やめたまへ」
  降りすぎると人々は悲嘆にくれます。雨をつかさどる
 龍王よ、おやめください。
1212年、法然が没する(1133年〜1212年)
1212年、後堀川天皇が生まれた(1212年〜1234年、86代)
1212年、方丈記が書かれた(鴨長明
1213年5月、北条氏が、和田氏を滅ぼす。
  和田合戦が起きた(和田義盛が敗れて、鎌倉由比ヶ浜
 で滅ぼされた。執権確立)。
  有力御家人の三浦氏の一族の和田氏が、共謀して北条
 泰時を打倒するために反乱を起こした。
  この戦いに勝った北条氏は、執権権力を確立した。
1214年7月、ブービーヌの戦いが起きた。
  フランス王国と連合軍(イングランド王国、ヴェルフ
 家など)の戦い。
  結果は、フランスの勝利、王権を確実なものにした。
  イングランド王は、大陸の領土を、連合軍を作って戦
 い、回復したかったが、失敗に終わった。
  キリスト教の司教が指揮官になって戦いに絡んでいた
 り、連合軍とローマ教皇が手を結んだり、
  キリスト教が戦いに大いに絡んでいた。
  フランスの勝利によって、約1世紀に渡り、大陸のフ
 ランスの優位が続いた。
  イングランド王は、大陸領土の回復失敗だけでなく、
 本国の信頼を失い、本国の諸侯の反乱に合い、それに屈
 してマグナ・カルタを認める事となる。
  マグナ・カルタは、イングランド国王の権限の制限を
 内容としている。
  しかし、ローマ教皇は、イングランド国王は神と教会
 以外の約束に縛られるものではないと、マグナ・カルタ
 の廃棄を命じた。
  戦いの火は収まらず、翌年、フランス王国は、ロンド
 ンへ侵攻した(第一次バロン戦争)。
  マグナ・カルタは、イングランド王が再確認した。
  しかし、イングランド王は守らなかった。
  キリスト教会は国王から自由だ。王の決定で税金は集
 める事が出来ない・・など。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009