(増補版)40B:気になった事柄を集めた年表(1225年〜1232年)

 題:(増補版)40B:気になった事柄を集めた年表(1225年〜1232年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
  天変地異が続く世の中となっている。大飢饉も起こる。
1225年10月29日、朝廷、新制36条を下す。民の事を思う
 徳政の意味を含んだ宣旨だった。
1225年12月2日、北条時村(ときむら、武将)が没した。
  歌人としても才が深く、新勅撰和歌集などに詠歌が収
 められている。
1225年12月21日、幕府(北条泰時)が評定衆を置く。
  執権とともに政所に列し、諸般の政務を合議・採決し
 た幕府の最高機関。その数は、11人〜15人くらい。
  評定衆には、北条一門のほか、大江・中原・三善・二
 階堂・三浦・千葉・結城など法律に詳しいものと豪族層
 から選ばれた。
  これは、執権独裁を防ぎ、御家人、特に、豪族層(民
 に近い層)の利益を守るためにも必要として行われた。
  独裁防止のために、この様な機関を自ら創設したとい
 う日本人の素晴らしさがここにもある。
  最高の地位にある執権の同席する前で合議し、採決す
 るという議会制である。
  ヨーロッパなどには見られない政治体制で、ヨーロッ
 パの独裁的流れと対比し、その差が際立つ。
1225年12月21日、六波羅・鎮西両探題にも設置された。
1226年1月27日、九条兼実の孫(道家)の子・頼経を将軍
 とする(第4代将軍の将軍宣下)→将軍の有名無実化(宮
 将軍・みやしょうぐん、皇族将軍、親王将軍とも称される)、
  しかし、朝廷への尊重や親和が深まった、また、幕府
 存続の正当化もあった。第4代将軍・九条頼経(1226・
 1・27〜1244・4・28 1256年没)
1226年、彫刻:鞍馬寺聖観音像(京都、定慶作)
1226年7月、鎌倉に、7月だというのに霜が降った。
1226年8月26日、太政官文殿、焼失する。
  文殿(ふみどの):太政官や院庁において、公文書や
 典籍の管理が行われた場所。
  この焼失のあと、官務文庫にその役目が移されている。
1227年、北条時頼が生まれた(1227年〜1263年)、第5
 代執権となる。
1227年1月、正月、道元が肥後河尻に帰国し、曹洞宗を伝
 えた(1228年説がある)。
  禅宗が、急速に武士の間に広まった。
1227年4月22日、内裏、焼失。
1227年、西夏が、チンギス・カンに滅ぼされた。
  西夏は、中国・宋の北西に位置し、古代より居た羌(
 きょう)族のタングート族の国。宋の支配下にあった。
  独自の文字である西夏文字を持っていた。
  皇帝が、1038年に、国を建て、国号を大夏にした。
  後に、中国の金に服属し、北宋が滅びると広大な領土
 となった。
  そして、モンゴルが強大になるとモンゴル族に依存す
 る政策を採用した。
  しかし、軍事行動が国を疲弊させ、飢饉などで貧困が
 続くと民衆の心が離反、そして、政治腐敗や、皇帝が民
 を顧みないことなどがあり、
  モンゴルが、1205年に、西夏侵攻を開始し、何度かの
 戦いの後、1211年に、宮廷クーデター発生したりし、毒
 殺も横行し、滅亡に至った。
  因みに、西夏文字は、長い間、解読できなかったが、
 日本人の西田龍雄氏によって解読がなされた。
1227年8月18日、チンギス・カンが没した(1167年頃〜
 1227年)。
  中国・満州あたりの回鶻(かいこつ、テュルク系遊牧
 民族国家)を起源とし、この国が解体の後に、バイカ
 湖方面へ南下し、モンゴル高原の北東部に広がり、11世
 紀には君主を頂き、有力な集団に成長した遊牧の民の国
 となった。
  チンギス・カンは、この民のモンゴル部に生まれた。
  西夏遠征や、金領の一部への侵攻が、最後の遠征とな
 った。
  1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で倒れ、死去
 した。そして、モンゴル高原に葬られた。
  その後、その遺骸は故郷へと帰ったが、その葬られた
 場所は、重要機密とされた。
  「東方見聞録」によれば、その遺体を運ぶ隊列を見た
 者は、機密保持のために、そのすべての人が殺されたと
 いう。
  また、埋葬地の痕跡を消すために、1000頭の馬を走ら
 せ、あたり一帯の地面を完全に分からないようにし、
  また、この様な事で、チンギスの死が敵国に知られれ
 ば攻められる恐れがあると考え、固く公表はしないよう
 にとされた。
1227年、チンギス・カンの死後も侵略の嵐はやまず・・、
  ポーランドハンガリーなどの東ヨーロッパ諸国、
  そして、イランより地中海東岸トルコに至る・・広大
 な地域を手中に収めた。
  キリスト教の甘い蜜の滴る国、乳の流れる国とある理
 想の国とされた地・カナン(イスラエル)も、この東ア
 ジアの国の軍門に下った。同時に、この東アジアの国の
 文化や宗教もこの地に流入し、東アジアの血も入った。
1228年、道元が、28歳の時、曹洞宗を開いた。
1228年7月、大風雨により京都の鴨川が氾濫するなどの天
 災が続いた。
1230年6月18日、北条時氏(ときうじ、泰時の長男)が、
 没する。
1230年7月16日、諸国に霜が降り、「ほとんど冬天のごと
 し」の記録がある。
  また、天候不順による大凶作が全国を襲った。
1231年、四条天皇が生まれた(1231年〜1242年、87代)
1231年春、大飢饉が起きた。餓死者が続出した。鎌倉時代
 を通じて最大規模と言われている。
  また、この頃、武家と領家との間に土地の所領問題な
 どの係争が全国的に続出した。
1231年8月、蒙古の高麗への侵入が始まった(第1次高麗
 侵入)。高麗は首都を移してまでして戦った(約40年間、
 1231年〜1273年)。
  朝鮮半島を統治していた高麗王朝へ、モンゴル帝国は、
 繰り返して戦争を仕掛けた。高麗の国土は荒廃した。
  この後、80年間にわたり、高麗はモンゴル(元朝)の
 支配下に置かれた。
1231年10月11日、土御門上皇、阿波に崩ず(1195年〜
 1231年)
1231年11月3日、朝廷、新制42条を下す、寛喜新制(かん
 ぎしんせい)という。
  前年から始まった寛喜の飢饉に伴う社会の危機・不安
 に対し、後堀川天皇が、朝議を重ねて制定した。
  徳政の推進や、治安の維持に配慮したもの。
1232年、親鸞が、関東を発し京都へ向かった。
1232年5月14日、北条泰時を中心にして御成敗式目(貞永
 式が51条)を制定された。北条氏の政治が固まった。
  これは、幕府の法治主義(法律に基づいて国を治める
 こと)のもと、敬神崇仏、所領、罪科、決罰など、訴訟
 裁判に関する51ヶ条を制定したもの。武家法の確立を図
 るものであった、また中で、女性を尊重している所が素
 晴らしい。
  日本は、この様に、早い時代から女性の地位をしっか
 り確認していた。ないがしろにはしていなかった。
  また、北条泰時から、1225年に命を受けた三好康連
 (やすつら)が、御成敗式目の中心人物の一人として携
 わった。
  泰時・執権在位18年→御家人の帰伏。
  連署の設置:執権を補佐し公文書に書名。
  評定衆設置:重要政務、訴訟裁判(11人)
  制定の目的・幕政と訴訟裁判の基準、習慣の成文化→
 後に武家家法の範となる。
  内容:所領・土地訴訟についての規定、守護・地頭の
 職分と義務の規定、女性地位の尊重(女地頭、女子の相
 続権)。
  対象:当初は関東御家人→のちに全国的。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009