(増補版)38B:気になった事柄を集めた年表(1214年〜1221年)
題:(増補版)38B:気になった事柄を集めた年表(1214年〜1221年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1215年1月、北条時政が没した(1138年〜1215年)
1215年6月、マグナ・カルタがイギリスで制定された。
ジョン国王が、家臣たちに強制的に署名させられた。
国王が、教会勢力を抑えたり、諸侯の勢力を抑えたり
してきたが失敗した。
新たな課税は貴族らの同意を必要とすることを国王に
認めさせた。
また、第1条は、キリスト教会は国王から自由である
(国王は教会に干渉するな)・・とある。
このジョン王に続くヘンリー3世の時代には、聖職者・
貴族・州騎士・都市代表が国政を議すようになる。
1215年、栄西が没した(1141年〜1215年)
1215年、フビライが生まれた(1215年〜1294年)。
モンゴル帝国創始者のチンギス・ハンの孫。
首都を、1271年に、北京の地に移し、首都名を「大都
」とした。
1215年、彫刻:興福寺龍燈鬼像・天燈鬼像(奈良、康弁作)
1219年1月27日、源氏が滅んだ。
源実朝(3代将軍)が、右大臣拝賀式で、鶴岡八幡宮で
公暁(くぎょう、2代将軍・頼家の次男)に襲われて落命
した(1192年〜1219年、27歳)。
実朝は、政治に希望を無くし、風雅の道に生きた(虚位)。
吹く風は 涼しくもあるか おのづから、山の蝉鳴き
て 秋は来にけり、『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)
』所収。
実朝は、鶴岡八幡宮に詣でた帰途、公暁に暗殺されたが、
北条氏の傀儡(かいらい)同然だった。
憂鬱(ゆううつ)な貴公子は、和歌に熱中し、少年の
ころ献上された「新古今集」に多くを学んだ。
上の歌は、新古今の藤原清輔(きよすけ)作「おのづ
から 涼しくもあるか 夏衣 ひもゆふぐれの 雨の名
残り」に学んでいるだろうが、較べてみれば実に素朴な
歌。「蝉のなくをきて」とある。ひぐらしだろう。(朝
日新聞、平成11年8月10日)
実朝亡き後、後鳥羽上皇は、幕府内の政争を契機とし
て、朝廷の勢力挽回を目指して、幕府の持つ地頭の任免
権に対し、これを左右する院の権力を承認させようとした。
しかし、上皇の期待に反し、北条義時は、これを手ひ
どくはねつけ、逆に、弟の北条時房を兵1000と共に上洛
させ、武威を持って拒否すると共に、再度に渡って、上
皇の皇子の鎌倉将軍着任を強要した(宮将軍)。
しかし、上皇はこれに応ぜず、承久の変の遠因となった。
1219年、チンギス・カンが西征を開始した。
この1219年から1223年の、5年の間に、飛躍的に領
土を広げた。1225年に帰還した。
1221年、後堀川天皇(在位、1221年〜1232年)
1221年5月14日、後鳥羽上皇が、倒幕の兵を集める。
承久の変につながる公武の対立:
(1)幕府による荘園の拡大→旧勢力の不満が激化。
(2)幕府の内紛→朝廷側の王朝国家再現企画。
(3)後鳥羽上皇の討幕計画・北面の武士の他に西面
の武士の新設、大社寺との提携(熊野・比叡山)
1221年5月15日、承久の乱。
朝廷側・後鳥羽上皇は、5月15日に、北条義時追討の
院宣を下した。
ここに古代貴族政権より中世・武士政権への変動の象
徴的事件ともいうべき「承久の乱」が起こった。
しかしながら、総勢19万余という圧倒的に優位な鎌倉
の幕府方(御家人の安泰)の軍勢の前には、上皇軍・1万
(在京・近国の武士)はもはや敵ではなく、戦いはわず
か1ヶ月をもってあっけなく、幕府軍の勝利に終わった。
変後の処理:仲恭天皇を廃し、後堀川天皇即位、三上
皇の配流、院側所領3000ヶ所の没収。
政治の革新:新補地頭の設置(戦功の恩賞→新補率法・
11町に1町の免田・段別5升の加徴米)・六波羅探題の設
置(京都の警備、朝廷の監視、三河以西の諸国御家人の
総括)・太田文(守護に命じ諸国の土地台帳作成)。
この戦いを伝える「承久記」には、京に乱入し、戦勝
の勢いに乗じた関東武士たちの略奪・放火・殺戮・暴行
は、さながら地獄の様相を呈したと記されている。
乱後、義時は、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡
に、土御門上皇を土佐に配流し、倒幕派の主な公卿・武
家は斬首の刑に処すという下剋上の様相を呈した。
また、3000か所と言われる皇室領の荘園を没収し、御
家人を新たに地頭に補任し、ここに幕府による全国支配
が確立した。
京都守護・伊賀光季を殺し、北条義時追討の宣旨・院
宣を諸国に下した。
新補地頭:承久の乱の結果、置かれた地頭をいう。
北条氏は、後鳥羽上皇方の公卿・武士の所領3000か所
を没収し、そこに御家人を地頭として新規に任命した。
彼らは、管理地11町ごとに1町の免田と段別5升の加徴
米の徴集が認められ、山野河海の税は領家と2分する事と
なった。
こうして、地頭の土地と農民に対する支配力は著しく
強まった。
六波羅探題:幕府は、成立当初、京都守護を設置した
が、承久の変後、朝廷対策と京都の警護を重視し、六波
羅探題を設けた。初代は北条泰時・時房である。
以後、探題は北条一門から任じた。職掌も増加し、三
河以西の国々の政務を担当したが元寇後、鎮西探題の設
置(1293年)によって九州は管轄外となった。
執権に次ぐ重職であった。
氷川清話(勝海舟)には以下の様に記されている・・、
「承久の変(朝廷が、自ら武力によって幕府の討滅を
企てた)が起きた。承久の乱の時には、北条泰時が、単
騎で西に馳せ向かえば、行くこと3日で10万騎が集まった
とは、当時の兵站(へいたん)や募兵の事は、羨ましい
ほど整っていたらしい。これは、平生、経済の事に注意
していたからのこと。陪臣であっても9代も続き、しかも
国は富み、民服したのは、もっともの次第だ。北条氏の
栄えたのは、つまり倹のためで、その滅びたのは、おご
りのためだ」・・と、
..
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