(増補版)32B:気になった事柄を集めた年表(1183年〜1185年)

 題:(増補版)32B:気になった事柄を集めた年表(1183年〜1185年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1183年10月、後白河院は宣旨を下し、源頼朝を本位に復し、
 赦免し、京への軍勢の進発を求めた。
  また、この時の宣旨によって、源頼朝が東国における
 強大な公権力の行使の権限を朝廷から認められ、東国の
 政権としての鎌倉幕府の成立の重要な指標となった。
1183年10月、水島の戦い。
  源義仲が、水島で平軍に敗ける。
  この時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。
  平氏を追討するため、1183年9月に、源義仲軍は都を
 出発して屋島方面へ進軍していった。
  四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。
1183年11月19日、法住寺合戦。
  源義仲が、後白河法皇の院御所・法住寺殿を襲撃し、
 後白河法皇後鳥羽天皇を幽閉した。
1183年11月28日、源義仲が、法皇近臣40余人を解官した。
1183年12月、源頼朝が、義仲追討のため、範頼・義経
 軍を率いて西上させた。
1184年1月15日、木曽義仲征夷大将軍になった。
  鎌倉の頼朝軍が、墨俣を越えて美濃国に入ったという
 噂を聞き、義仲は恐れ慄いた。
  15日には、自らを、征夷大将軍に任命させた。
1184年1月20日、源(木曽)義仲が、6万余りの軍勢に対
 し、わずか2000足らずの軍勢で応戦するも、宇治での
 「勢田の橋の合戦」に敗れ、栗津に敗死した(1154年〜
 1184年)。
  乳母子(めのとご)として義仲と共に育った今井兼平
 も死んだ。
1184年、1月29日、源範頼義経の軍が、平氏追討へ向か
 う。
1184年2月、この月、源頼朝が、梶原景時土肥実平をし
 て播磨・美作・備前・備中・備後の国務を掌握さす。
1184年2月、源頼朝が、院に朝務条々を奏上する。
  朝廷の政務の事について、頼朝が考えていることを箇
 条書きにして送り渡した。
1184年2月7日、一の谷の合戦。
  摂津国・福原および須磨で行われた。
  範頼軍が5万6000余騎、義経軍が1万騎で京都を出発し
 ている。
  2月6日に、福原で、清盛の法要を営んでいた平氏一門
 へ、後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平
 は交戦しないよう命じた。
  平氏一門は、これを信用してしまい、警戒を緩めたこ
 とが勝敗を決した・・との説がある。
  ただ、現代の研究者の意見はまちまちである。
1184年3月、源頼朝が、大内惟義を伊賀の「守護」とした。
1184年4月、源頼朝が、義仲の子・義高を殺した。
1184年6月、源頼朝が、一条忠頼を殺した。
1184年8月、源義経左衛門少尉が、後白河法皇より左衛門
 少尉、検非違使に任じられた。
  これは、鎌倉の許可なく、朝廷から任官を受けたこと
 になり、頼朝の怒りを買った。
1184年10月、源頼朝が、公文所(くもんじょ、政務一般、
 1191年政所と改称)、初代別当大江広元(のち北条氏
 世襲)。問注所(訴訟・裁判を扱う、初代執事・三善康
 信)を設置し、いち早く行政機構の整備をはかった。
  この機構は、将軍独裁であるが、重要事項は合議制。
  武家による行政機構の整備。
1185年、後鳥羽天皇(在位、1185年〜1198年)
1185年1月、源範頼の軍が、長門方面(山口県)で苦戦す
 る。
  水軍の戦力を持たず、また、兵糧が得られなかった。
  豊後国の豪族・緒方惟栄の味方などを得て、ようやく
 兵糧と兵船を調達した(虚構との見解もある)
1185年2月19日、屋島合戦。
  讃岐国屋島(現高松市)で行われた。やしまのたたかい。
1185年3月、源頼朝が、従二位になった。
1185年3月24日、壇ノ浦(山口県下関市)の海戦が起きた。
  安徳天皇が入水した(8歳)。
  戦いの状況から死を決意した二位尼が、幼い安徳天皇
 を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。
  安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼
 は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がござい
 ます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。
  続いて、建礼門院平氏一門の女たちも後を追って海
 に身を投じた。
  武将たちも覚悟を定め入水した。
  平氏の剛のある者は戦い、義経を道連れにせんと欲し、
  義経の船を見つけ、これに乗り移った。
  義経は「八艘飛び」で逃げ去った。
  平家が滅んだ。
  また、この時、先陣になることを望んだ梶原景時と義
 経が衝突している。
  事の起こりは、景時が、義経の前に出て「今日の先陣
 は景時が賜りたい」と言ったことが始まり。
  景時と義経が喧嘩腰となるまで行き、
  義経が、刀に手を掛ける時もあったほどという。
  また、義経の配下の弁慶たちが、景時を討ち取ろうと
 したほどでもあったともいう。
  「猪や、鹿のことは知らぬが、いくさは、ただ正面か
 ら攻めて、それで勝ってこそ、心地よい」という言葉も
 飛び交ったという。
  景時は、後に、頼朝に換言したことが、義経を死に至
 らしめたとも言われている。
1185年5月、源義経が、平宗盛らを率いて鎌倉へ向かう。
  義経が、腰越状を捧ぐ。
  源義経が頼朝に愁訴した(腰越状、こしごえじょう)。
  源義経が、平宗盛父子を俘虜として腰越まで伴って来
 たのに、頼朝の怒りが解けず、鎌倉に入る出来なかった。
  義経が鎌倉の腰越に留まっていた時、心情を綴り無実
 を訴えた(腰越状)。宛先は大江広元
1185年6月、源頼朝が、義経の所領を奪う。
  平宗盛・重衡らは斬られる。
1185年8月、源行家が、叛す。
  源行家(みなもとのゆきいえ)は以仁王の挙兵に伴い、
 諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起
 を促した人。
  この月、8月に、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ
 浦の戦いの後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10
 月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣
 を受け、「四国地頭」に補任される。
  しかし、行家らに賛同する武士たちは少なく、頼朝が
 鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3
 日に、行家・義経一行は都を落ちた。
  翌年(1186年)5月に、源行家は斬首された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009