気になった事柄を集めた年表 [1939年〜1945年]

 題:気になった事柄を集めた年表 [1939年〜1945年]
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→1年

1940年7月、ドイツ占領下のポーランドから、リトアニア
 に逃がれて来た多くのユダヤ系難民などが、各国の領事
 館・大使館からビザの取得をしようとしていた。各国領
 事館・大使館はソ連が閉鎖を求めたため(リトアニア
 ソ連が占領していたため)、まだ業務を続けていた日本
 領事館に名目上の行き先への通過ビザを求めて殺到した。
 日本は、旅費や滞在費の有する者などの発給条件があっ
 たもののビザ発給をしないということではなかった。
  杉浦千畝(ちうね)氏が、ビザ発給を禁止する日本政
 府の意思に反してユダヤの方々を救ったというのは正確
 ではない。当時、日本政府は、ナチスドイツの人種差別
 政策に賛成しない強い意志があった。当時の日本の外交
 は独自の政策を取っていた。確かに杉浦氏は、ビザ発給
 をしたが、日本政府の命令を反してまでしたというのは
 間違い。日本政府はビザ発給に反対はしていなかった。
 キリスト教徒の杉浦氏は、キリスト教プロパガンダ
 (嘘宣伝)で作り上げられている。日本政府はユダヤ
 方々にビザ発給をよしとしていた。→1年

1941年4月、アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を
 攻撃していた。これが、日本とアメリカの戦端が開かれ
 た事実となっている。アメリカに擦(なす)り付けられ
 た日本の奇襲は、この史実からも『ない』と言える。既
 に、日米は交戦状態であったからである。アメリカ軍は、
 卑怯にも中国軍を装って、実際はアメリカ軍の航空師団
 フライング・タイガーで、軍籍を外したりして偽装した。
 このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交戦
 した。れっきとした日米の戦争状態で、アメリカは、正
 式の宣戦布告などしていない。卑怯な事をするアメリ
 であるが、フライング・タイガーを、アメリカは、民間
 ボランティアだと言い訳するが、最近、アメリカ大統領
 が、直接、『許可を与える』という行為をしている事が
 判明した。米国立公文書館に動かぬ証拠がある。逆に、
 アメリカが、日本に奇襲攻撃を既にしていたのである。

1941年8月9日〜8月14日、アメリカのルーズベルト大統
 領とイギリスのチャーチル首相が、海に浮かぶ戦艦上で
 会談した。アメリカの参戦への要請と、対日戦争の協議
 が主な議題だった。ルーズベルトは、アメリカの国民世
 論が戦争反対であったため、国民へはイギリスと何も約
 束はしていないと言った。しかし、1942年1月27日に、
 チャーチルは、イギリス下院の演説で、会談内容を暴露
 した。ルーズベルトの嘘が、アメリカ国民の知るところ
 となった。日本の近衛文麿首相が、開戦の危機打開に努
 力していたが、会談がうまく行くはずもなかった。ヨー
 ロッパ戦線でイギリスはドイツに負けそうになっていた
 ので、ルーズベルトは参戦したいと考えていた。→0年

1941年9月、日本の真珠湾攻撃が行なわれる3カ月前のこの
 月に、アメリカが、日本を攻撃しようとしていた。この
 攻撃を9月に行う、実施するとした公文書が存在すること
 が判明した。ただ、当時、アメリカは、欧州戦線で、イ
 ギリスがアメリ爆撃機を大量に必要としていたため、
 予定が延びていただけだった。この計画は、宣戦布告を
 しない先制攻撃(奇襲)の計画だった。この様なことか
 らも、アメリカは、日本を奇襲呼ばわりできる様な立場
 ではない。宣戦布告なしで行なわれるアメリカのこの奇
 襲攻撃は、350機のカーチス戦闘機と150機のロッキー
 ド・ハドソン爆撃機を使用するとし、全体を3段階に分
 け、日本本土爆撃を行い、第2段階は、200機の戦闘機と
 100機の爆撃機を使い、東京、横浜、大阪、京都、神戸
 を目標とした。日本は、軽くて燃えやすい木造住宅が多
 いので効果のある焼夷弾を使用するとされていた。

1941年12月8日、日本が、アメリカのハワイ真珠湾を攻撃
 して大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまったと言われて
 いるが、実際は、アメリカの軍艦が、日本の先行してい
 た潜水艦へ、機雷攻撃をして、すでに戦端は開かれいた。
 また、このアメリカ軍艦は、この交戦事実をアメリカ司
 令部へ送信し、知らせている。日本の真珠湾攻撃は、こ
 の様な確定した事実により奇襲ではなく、すでにアメリ
 カの知るところの交戦中にあった。アメリカは国民の世
 論操作目的から、日本の奇襲をデッチアゲたかった。ま
 た、アメリカ軍は日本の連合艦隊の交信を傍受し、その
 行動は逐一知るところとなっていた。奇襲は、絶対、成
 立する状況に無かった。作られた奇襲。→0年

1941年12月18日、ヒトラーの言葉:「日本は多くの島を
 次々に占領している。彼らはオーストラリアも獲得する
 に至るであろう。白色人種はこの地域から消滅してしま
 うだろう」。→1年

1942年2月15日、ヒトラーは、一つの喜ぶべき(しかし、
 また、悲しむべき)報告をしなければならないと語った。
 シンガポールの陥落がたった今、伝えられたのである。

1942年3月22日、噂によれば、ヒトラー自身は日本の戦果
 に心から感動している訳ではなく、むしろ逆に、黄色人
 種を撃退するために、出来ればイギリス人に20個師団を
 派遣したいと語った。→2年

1944年9月、この時期から、アメリカは、日本中の都市の
 住民を殺傷する目的で、攻撃を行ない出した。軍事施設
 の攻撃と並行して、民間人(非戦闘員)の殺傷を目的と
 する攻撃で、日本各地の都市の住民が殺戮対象にされた。
 このアメリカの攻撃は、明らかに非人道的行為で、「人
 道に対する罪」に相当する。戦後、正義を装った東京裁
 判でも、この件は取り上げられず、無視され、何処が正
 義の東京裁判なのだと言える。逃げまどう一般民間の人
 々へ焼夷弾のじゅうたん爆撃は、戦争犯罪そのもので、
 犯罪ではないと言えるものではない。有罪行為である。
 無防備な一般人への殺戮行為そのものだった。

1944年9月、アメリカは、パリのドイツ軍が降伏すると、
 すぐに、原爆は、米英で独占して開発しようとした。そ
 して、日本に対して使用することを検討しようとした。
 日本への使用目的の一つは、この戦争の終結が見えた今、
 次の対抗勢力となるであろうソ連の存在が見えていたか
 らで、日本で使用し、その威力をソ連に示し、有利な状
 況に居たいとの意図があった。日本の殺戮される方々へ
 の思いやりの「かけらもなかった」。黄色人種への蔑視、
 および、軽視の心だった。

1945年3月10日、東京大空襲。連日のアメリカによる無実
 の無防備の丸腰の一般の人々への殺戮行為である。東京
 の人が、一夜にして10万人以上の方々が殺され、亡くな
 った。「ニューヨーク・タイムズ」の特派員は、さすが
 アメリカの非を感じ、アメリカ空軍当局へ警告した。住
 宅の無差別空爆は、ナチスゲルニカ空襲の犯罪性を思
 い出させると・・。しかし、ナチスゲルニカの死者は
 3000人。アメリカの卑劣さは、その人数からも筆舌につ
 くせぬ悪行為となっている。アメリカの感覚は、黄色人
 種の大量殺戮に不感症的で、道徳的反応を示さなかった。
 キリスト教が、古くから有色人種を「人ではない」とし
 てきた考えに洗脳されていた。小磯首相は、ラジオを通
 じて、この爆撃は戦略的目的ではすでにない、殺人の目
 的で、破壊のための破壊であるとアメリカ向けに放送し
 言った。

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下される。

1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下される。原爆の投下
 を知ったサルトルは言った、「ドイツの都会だったら、
 白人種の上だったら、彼らも敢(あ)えてなし得たか疑
 問だ。黄色人種だからだ。彼らは黄色人種を忌み嫌って
 いるのだ」と。

1945年8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。
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