題:戦後75年も経ているのに、今だに捏造した嘘で杉原千畝を美化し、また、日本を貶(おとし)めて自虐教育をしている日本・・

  題:戦後75年も経ているのに、今だに捏造した嘘で杉原千畝を美化
    し、また、日本を貶(おとし)めて自虐教育をしている日本・・
.
  今、杉原千畝(すぎはらちうね、1900年~1986年)は「命のビザ」と
 印象付けられ、美化されているが?・・戦後75年、新しい事実が分かっ
 て来てさらにその嘘が明らかになって来ている・・
  杉原千畝を美化するにしても日本を貶めるからその嘘の程度が悪い・・
  そして、その捏造した嘘が小学生の教科書に掲載されているから根が
 深い自虐教育となっている・・
  杉原千畝を「人道・博愛精神第一を貫く日本人」と言われているが?
  一人でやったというその美化の嘘は「事実ではない」・・
  杉原千畝の一人だけだと特別に美化する集団が居る・・そのため、陰
 に追いやられた人たちも居る、その人は誰か?
  1939年8月、杉原千畝が、日本領事代理としてリトアニアに赴任・・と
 言われているが、この史実の記述の裏の隠された事実を知らなければこ
 の史実の意味は分からないし、解けない・・先にそのポイントを言って
 しまえば、杉原千畝はスパイであった・・ロシアの情報を探るためにリ
 トアニアに赴任されたのだ・・これを知って行ってこそその正確な情報
 は理解できていく・・
  彼は軍人であり、大使館員であり、諜報員であった。
  この翌月の1939年9月、ドイツ軍は不埒にもポーランドに侵攻し、第二
 次世界大戦が勃発した・・その戦禍はヨーロッパ全土に拡大した・・そ
 して、無数の避難民が生じた。
  ナチス・ドイツは、非人道的行為の最悪行為である「ユダヤ人排斥運
 動」を行なっていて、厳しく迫害を行なっていた・・
  1940年7月18日、リトアニアカウナスの日本領事館に、通過ビザの発
 給を求める人々(ユダヤの人々など)が日本領事館にやって来た。
  その人々の多くがビザの発給要件は満たしていなかった。
  杉原は人道上どうしても拒否できないとして発給許可を日本本国に求
 めた・・とメディアは報じるが、正確ではない・・正確に言えば、「ビ
 ザの発給資格の無い私・杉原千畝はビザの発給行為がしたく、ビザ発給
 行為をしてよいですかと日本本国に求めた」・・である・・
  しかし、日本はその求めを否決した・・とメディアは報じるが・・正
 確に言えば「あなた・杉原千畝さんには資格が無いのでビザの発給行為
 は出来ません」・・である・・杉原にその資格(ビザ発給資格)が無い
 という事で否決をしたのである・・
  法の通り行動するのか、法を無視して人命救助をするのかの二者択一
 となった・・杉原の手記には「苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、
 博愛精神第一という結論を得た」とあると、美しくメディアは報じ、ま
 た、教科書に書かれて教育がなされ、洗脳教育や洗脳報道がなされてい
 る・・杉原は領事代理で発給権限を持たない人間だった。
  そこで、杉原は、法を無視し、法違反行為である日本の通過ビザを独
 断で発給した。
  ビザを得たユダヤ人などの人々は、シベリア鉄道カウナス~モスク
 ワ~イルクーツクハバロフスクウラジオストク~日本(敦賀)・・
 神戸に滞在し、アメリカ・南米・オーストラリア・東南アジアなどへ(
 バンクーバー、サンフランシスコ、キュラソー島リオデジャネイロ
 ブエノスアイレスシドニージャカルタ、上海、香港などへ)
  その数は1ヶ月間で6000人以上の方々に及んだ・・
  1947年4月、杉原千畝が帰国・・外務省は杉原に辞職勧告した(以上、
 メディアの報道内容)
  法を無視し、また、日本の本省が「君には資格ないからできない」「
 やってはいけない」と指示したことをしてしまった杉原だった。
  また、最近見つかった史料によると、杉原自らの依願退職だった・・
 辞めさせられたのではない・・
  そして、日本を貶めてよく言われる「日本はユダヤ人の方々を差別す
 る」などと言う様な事は全くしていない・・
  どこの日本大使館でもユダヤ人の方々へ差別なくビザの発給は行って
 いた・・杉原の居るリトアニア領事官にも発給資格のある領事が居れば
 ビザの発給は行なっていた・・
  日露戦争の時に、日本へ戦う資金を出してくれたユダヤの方々に恩義
 を感じていた日本・・日本はユダヤ人の方々を差別する訳が無い状態で
 あった・・
  杉原の独断でのビザ発給は責任が問われるべき行為であった・・
  退職した後、杉原は商社などに勤務する・・その様な杉原に、1968年、
 一人のユダヤ人男性が訪れ、杉原が発行したビザを持っていた・・そし
 て、杉原へ涙を流しながら感謝の言葉を言った「ミスター・スギハラ、
 私たちはあなたのことを忘れたことはありません」と・・
  救われた方々の子孫の方々は、今、約25万人以上だという。
  イスラエルホロコースト記念館には、ナチス・ドイツによるユダヤ
 人大虐殺の犠牲者たちを追悼するためのイスラエルの国立記念館に、杉
 原千畝の顕彰碑と植樹がある。
  杉原千畝の略歴・・
  1919年、外務省ロシア語留学生としてハルピンに留学
  1924年、外務書記生となり、ハルピンで勤務
  1926年、「ソビエト連邦国民経済大観」を刊行
  1933年、北満鉄道の譲渡ををめぐりソ連と交渉
  1937年、フィンランドヘルシンキ公使館に通訳官として赴任
  1939年、リトアニアカウナス日本領事館で領事代理として赴任
  1940年7月18日、ユダヤ難民が領事館に集まる。
  1940年7月29日、独断でビザの発給を始める。
   チェコプラハ日本総領事館へ総領事代理として赴任
  1941年、ドイツ領、東プロイセンケーニヒスベルク日本総領事館
   総領事代理として赴任
   ルーマニアブカレスト日本公使館に一等通訳官として赴任
  1947年、帰国・・外務省を退官・・そして、杉原は言う「自分でやっ
   ていたことは規則違反である」と・・違反行為であることは自認し
   ていた・・依願退職をした・・その後、貿易会社などに勤務・・
  1968年、元ユダヤ人難民のニシュリと再会。
  1969年、イスラエル・バルハフティック宗教大臣と再会、勲章を授章。
  1985年、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・パシ
   ェム賞)を受賞。
  杉原は、1919年から10年ぐらい満州国のハルピンに居たが、その後の
 移動はロシアの周辺ばかりを移動する・・
  ロシア語も勉強した・・これはロシアの監視とスパイ活動だった・・
 この時、ロシア人の女性の方と結婚・・杉原は、ロシア関係に長く携わ
 った有能な諜報員であった・・
  杉原は領事にはなれなかった・・高等文官試験に合格しなかった・・
 この高等文官試験は、第二次世界大戦前までの制度で、高級官僚に任用
 されるための資格試験で、現在の国家公務員採用総合職試験にあたる・・
  この資格が取れなかった・・故に、杉原はノン・キャリアの人でビザ
 の発給は出来ない立場の人・・
  2019年7月、杉原千畝に関する記録が発見される・・参議院事務局で履
 歴書と勤務実績を示す人事記録の計2枚が発見された・・
  それによると、杉原は外務省を辞職した後に参議院事務局の職員に転
 職していたことが分かった。
  外務省外交史料館・・ここは、日本の外交に於ける歴史的な価値があ
 る文書の保存・管理などを行なっているのだが・・ここに、杉原千畝
 関連史料などの展示コーナーと閲覧室が設けられている・・ここの史料
 に、1919年10月の外務省ロシア語留学生としてハルピンに渡るというと
 頃から、1923年3月に日露協会の学校の特務科を終了するまでの4年間が
 空白となっている、そして、期間が飛んでいる・・この期間に、杉原の
 秘密の行動の裏の立場があった・・
  ポーランドワルシャワ大学の日本語科に居られるエバーパーフェク
 トトニカ教授が書かれた著書にその事が書かれている・・
  「1920年杉原千畝は、朝鮮半島にある日本陸軍の第79連隊に志願
 し、入営している」・・
  杉原は、陸軍少尉の肩書を持つ立派な軍人・・1年後、ハルピンに戻り
 領事館の手伝いをする・・日露協会の学校でロシア語を学ぶ」・・と・・
  杉原千畝大日本帝国陸軍の軍人であるという事は日本の資料から抹
 殺され隠されていた・・スパイであったから・・
  カウナスの資料館にも、杉原千畝の軍服姿の写真がある・・名前もス
 ギハラチウネだと明示されていて間違いはない。
  また、杉原千畝は日本の陸軍の関東軍が創った「満州国の外交部」に
 も所属して・・バリバリの日本軍人だった・・
  杉原千畝を美化して「千畝は反軍的で人道的だというのは嘘で間違い」。
  逆に、軍と親密な関係のあった人物・・
  杉原千畝を美しく仕立てて「ユダヤの方々を助けた」と美化されてい
 るのはデッチアゲで間違い・・杉原が所属した日本の軍がユダヤの方々
 を助けたというのが本当であった・・杉原千畝はその一連の一部の行動
 をしただけ・・
  「満州国ユダヤの方々を受け入れている」というのはユダヤの方々
 には知れ渡っていた・・だからカウナスの日本領事館に来たのだ・・
  ユダヤの方々を助けた行為は日本陸軍が主導し、その行動がなされた。
  満州国に居る東条英機関東軍参謀長)や樋口季一郎(ハルピン特務
 機関長)が指図をし、ユダヤの方々の救出行動がなされた・・
  杉原千畝の一人芝居に仕立てたのは誰か?
  一人では出来ない行動を、一人にして仕立てたのは誰か?
  外務省の東京の本省が、杉原千畝の問い合わせに「否決した」「駄目
 と指示した」というのは正確ではない・・本省の訓令電報には「明確な
 駄目という言い方はしていない」・・だから、例え杉原が個人的な私文
 書偽造の日本通過ビザを作って出しても、それが通用するかは疑問・・
 つまり、日本はそれを初めから分かっていて、有効としていた・・
  つまり、その杉原の偽造の私文書のビザをを持って逃げて行っても、
 その書類は駄目な書類だという事になってしまう・・つまり、日本も通
 過できないという事になってしまう・・しかし、最初から日本は、この
 様にならない様にしていた・・
  東京の外務省の本省と杉原は、そこに暗黙のやり取りがあってこの杉
 原の行動となった・・満州の東条なども受け入れて日本へ行く道も開け
 ていた・・
  当時の日米関係が悪化する中、日本は恩義あるユダヤの方々の応援も
 欲しかった・・その様な国際情勢下でもあった・・そういう意味で、国
 策的な中でこの様な一連の行動がなされた・・
  杉原のビザが発給されたら、それで満州国に入国できるという簡単な
 話ではない・・話が通ってなくて偽造パスポートとなったらクエスチョ
 ンなのである・・また、日本へ送る船に乗船させるという話にもならな
 い・・杉原の個人の発行した私文書の偽造のビザで「総べてOKの交通
 手形になる訳はない」・・
  ここで、杉原を美化する話の中で語られるのは、日本とドイツが仲が
 良くて、ドイツがユダヤの方々を虐げているから、「日本もそうだ」と
 いうでっち上げの話・・これはまったくの嘘・・この逆である。
  日本とドイツは、仲が良いという状況ではまったくなかった。
  ユダヤの方々に卑劣で厳しいことを行なって来たドイツの要請を、逆
 に、日本は「きっぱり拒否し、拒絶し、断っている」。
  日本陸軍には「親ポーランド派(反ドイツ派)もすごく多かった」・・
  日本のメディアも、ポーランドに侵攻したドイツに対して厳しく、ポ
 ーランドに同情的に記事に書いていた。
  ナチス・ドイツは、この事についても日本に抗議をして来ていた。
  オトポール事件(1938年):ソ連満州の国境のオトポールに着いた
 ユダヤ人難民を救済するため、ハルピン特務機関長で中将だった樋口季
 一郎に話がすでに付けられて、入国がなされることにすでになっていた・・
  1940年7月の杉原千畝がビザを発行する2年も前の話である。 
  この時すでに、樋口季一郎は、ユダヤの方々を満州を通過させ日本へ
 の道をすでに開く考えだった・・また、そうしなければこの地は極寒の
 地で凍え死にもし、また、飢える。
  ドイツのリッべントロップ(ナチス・ドイツ親衛隊名誉大将)から猛
 烈な抗議が日本に入ったが、日本はこれもはねつけた、東条英機もこれ
 をまったく無視し、ユダヤの方々を救済した。
  ユダヤの方々は、シベリア鉄道の中でも生きることに必死だった・・
 その様なシベリアの荒野を行く、渡る行脚であった・・そのユダヤの方々
 を、日本は救う方向で早くから一致していた。
  戦後に、日本の敗戦で入って来たアメリカは、日本の軍の美談を隠そ
 うとした・・そこで作られた杉原千畝の美談だった・・このでっち上げ
 行為にキリスト教も加担した、杉原千畝キリスト教徒だからという事
 からキリスト教を美しく仕立てたかった・・
  ポーランドでは、日本の行為のすべてが立派だったという認識が行き
 渡っている・・日本軍も含めて・・
  杉原千畝の一人では出来る訳がないこの一連の話を、その一人・杉原
 千畝だけの美談の行為に仕立て上げたあり得ない話だった・・
  1939年8月、独ソ不可侵条約が結ばれ、偽りの独ソの融和があった・・
 二国は手を握り合った・・この頃に、杉原千畝リトアニアへ行ってい
 る。
  独ソ不可侵条約(1939年)には世界がびっくりした・・日本で平沼内
 閣が崩壊するほどの出来事だった・・ドイツとソ連が互いに攻撃しない
 ことなどを約束した条約なんてと言う感じだった・・反共のナチス・ド
 イツと反ファシズム共産国家のソ連による条約成立はあり得ない事だ
 った・・それで世界は驚いた。
  日本の戦後教育は、最初から日本がドイツとイタリアと組んで世界に
 歯向かったと、まったくの嘘が教育されている・・史実はそうではない。
  裏切りのドイツは、この独ソ不可侵条約の調印の9日後の9月1日に、ポ
 ーランド領内への侵攻を開始した・・これを切っ掛けに第二次世界大戦
 が勃発した。
  その17日後の17日には、何とソ連も同様に侵攻を開始した・・
  ソ連という国はこの様な悪いことを良くやる・・ほとんど終わってい
 る戦争で、日本の北方四島と千島列島と南樺太も奪ってしまった・・完
 全に戦争が終わった後までも日本領土を盗り続けたソ連・ロシアだった・・
  この時も、ポーランドナチス・ドイツと山分けにするソ連だった。
  ドイツという国は、上海事変の時も中国と一緒になって国際租界の日
 本の上海租借地に武力攻撃して来た・・これが南京につながって行く、
 そして、ありもしない南京事件が「あったと言われる由縁となる」・・
  この頃、このポーランドに近くのリトアニアに居た軍人でもある杉原
 千畝は、ドイツに警戒されていた・・その様なプロの諜報活動人物だと
 知れ渡っていた。
  そして、杉原は、1941年、ドイツ領のプロイセンに行く。
  この年の12月には、日本とアメリカの戦争が始まる年・・そして、ド
 イツとソ連も、すでに、条約そっちのけで戦争を始めている・・この様
 なこの地域の諜報情報を日本に通牒していたのが杉原で、杉原は日本の
 スパイだった・・杉原はこの様な役をしていた・・この様な杉原は警戒
 され、逆に見張られていた・・杉原は優秀なスパイだった。
  杉原は、核心的な情報を掴みたいため、モスクワに送られる予定だっ
 た・・しかし、ソ連も杉原のことをよく知っていて、断られた・・拒否
 され、こういう人間は困ると言われ、レッテルが張られた人間に既にな
 っていた・・
  杉原のスパイ行動は知れ渡っていた・・諜報員であるのが当たり前の
 大使館付きの立場だった・・この立場の男がビザの発給をする・・
  杉原は、2139の家族にビザを発給し、6000人の命を救ったと美化され
 ている・・普通の官僚ならしない行為の「ビザの発給をした」・・この
 様な行為は官僚としても絶対やらない・・「独断でやった」というのは
 あり得ないこと・・私文書を勝手に独断で発行すれば、それですべてが
 うまく行くということはあり得ないこと・・
  だから、役人の行動には独断はあり得ないのであって・・すべてが独
 断ではできないこと・・
  東京の本省の電報にも「ビザを発給するな」とは言っていない、ビザ
 の発給の要件を満たしたものに発給するとされている・・その通りに杉
 原はやった・・
  だから杉原千畝の人道的立場からの独断という話ではない・・美談に
 仕立てられるような話ではない・・
  日本の国としてのユダヤの方々を救うという人道的行動を杉原に起こ
 させた・・その通りに杉原千畝はやっただけ・・しかし、法的には違反
 行為だった・・
  当時の日本は正義を誠実に実行した・・恩義受けたユダヤ人の方々で
 もあった・・今の様に儲かれば非人道的な事でもやる様な中国とも付き
 合うというような日本ではなかった・・
  第一次世界大戦の時も、日本は、白人ばかりの会議の席で人種差別の
 撤廃条項を主張した・・
  1919年、パリ講和会議・・この主張は周りのすべてから日本が攻めら
 れる非常に厳しい立場に立たされる状況の中、その圧力の中での主張だ
 った・・世界のためという立場で日本は孤軍奮闘した・・そして、日本
 は終始、人種差別には反対し、そして、主張し続けて来た・・ユダヤ
 方々はこの日本にも賛同し、日本を尊敬した・・外圧に抗して常に日本
 は主張し続けた・・日本人はこの様な先人を持つことを誇りに思い、ま
 た、プライドも持て!・・今の若い方たちにもその血が受け継がれ、流
 れている・・
  ドイツは、第一次世界大戦の敗戦国として日本を憎んだ・・第一次世
 界大戦の戦勝国としての日本に、ドイツが持っていた太平洋の島々を委
 任統治領として日本が関わることになってしまったからだった・・ドイ
 ツと日本が仲が良いわけがない・・こんなナチス・ドイツと第二次世界
 大戦のとき、日本はどうして同盟なんかを結んだのか?
  パリ会議の国際連盟の創設の話し合いの時、日本代表の西園寺公望
 牧野伸顕は、「国際連盟規約に『人種差別撤廃条項』を盛り込むように」
 と求めた・・賛成国が多数だったが、アメリカがいちゃもんを付けた・・
 「全会一致」でなければ採択できないようにされた・・そして、全会一
 致ではないので不採択にされた・・アメリカの仕掛けで、この素晴らし
 い条項が廃案となってしまった。
  今、2020年、人種差別でもめているアメリカ、日本は100年以上も前に、
 既に、この様な誉れ高き行動をしていた・・そして、アメリカに潰され
 た・・
  アメリカ代表のウィルソン大統領が曲者(くせもの)だった。
  この時、まだ、アメリカは、黒人の方々が奴隷にされている状態の遅
 れたアメリカだった・・日本の素晴らしい条項を認める訳には行かなか
 った。
  この頃、最強のイギリスと日本が日英同盟で結んでいることに対して
 もアメリカはいちゃもんを付けた・・そして、日英同盟が潰されて行く、
 アメリカの日英同盟潰しが始まる・・
  四カ国条約(1921年)日本・英国・フランス・アメリカが太平洋上の
 領土・権益の相互尊重を約束した条約で、この条約でもって、日英同盟
 を破棄するというアメリカのマジックが出来上がった。
  日英だけではなく日・英・仏・米の四ヶ国だ、その様が良いだろうと
 いうマジック・・日英同盟は不要だろうというマジック・・
  それで日英が剥がれた後・・それからアメリカのイギリスの取り込み
 が始まる・・そして、対日的の対抗的なアメリカに、さらに、なって行
 く・・日本潰しが始まる・・その様な中、太平洋の島々を盗られ日本に
 憎しみを持つドイツが・・国連の信託統治委任統治領・・日本は孤立さ
 せられて行く・・選択肢が無い中で追い込まれて行く状態の日本・・ド
 イツへくっついて行けという状況になって行く・・その頃のドイツも良
 く見えた、それに近づいてしまった日本・・
  1943年11月5日~6日、大東亜会議・・日本、中華民国(南京国民政府)、
 満州国、タイ、フィリピン、ビルマ、インド(自由インド仮政府、オブ
 ザーバー)、
  大東亜共同宣言・・
  1、共存共栄、
  2、自主独立と互助敦睦(とんぼく、友好の促進)、
  3、伝統尊重、
  4、経済発展、
  5、人種差別撤廃と資源開放・・
  史上初の有色人種によるサミット・・フィリピンもビルマも日本によ
 って独立できた・・
  そして、350年間、オランダの植民地だったインドネシア、政治の
 仕方が分からなくて、政府の作り方を知らなくて独立できないインドネ
 シアの教育までして独立させた日本・・スカルノは日本びいきの初代の
 大統領・・政治学を学んでいない人にいきなり国を造りなさいは無理だ
 った・・スカルノとハッタという大統領と副大統領になる人に日本は政
 治学を勉強させている・・
  日本が重視していたのは「アジアの解放」と「自尊自栄」・・
  しかし、この逆を教える日本の教育・・自虐史観の温床の「戦後教育」
 の問題点・・長い間、欧米の諸国が植民地でうまい汁を吸っていたアジ
 ア各国で、日本がどの様な悪い事をしたというのか?・・悪さをしてい
 たのは欧米諸国なのだ・・それが逆の自虐史観の教育になってしまって
 いる・・
  フィリピンの方々の「日本の軍人さん、ありがとう」と言う声が上が
 っている・・その様な声を教育以外の場で知り、本当のことが分かる日
 本の子供たち・青少年たち・・日本はアメリカやヨーロッパと戦ってい
 たのであって、アジアの方々と戦ったのではない・・
  日本はユダヤの方々を支援した・・ドイツと一緒に虐げたというのは
 プロパガンダの嘘宣伝・・戦後、東京裁判東条英機が死刑にされたよ
 うに、そして、自虐史観にもって来られた。
  真実は、ユダヤの方々を満州で迎えに出た東条英機を隠された・・日
 本へ向かったユダヤの方々の船を、日本政府がわざわざ船を出して出迎
 えた・・この様な事を杉原千畝のビザの継続として、千畝のそれだけで
 やったという話にすり替えられた・・これはおかしい・・
  杉原がやったのは、日本の意志を杉原があのような形でなさせたとい
 う事・・ユダヤの方々を救うというのが日本の姿勢だった・・どこの大
 使館でもユダヤの方々へビザを出していたのがその証拠・・杉原千畝
 行為を嘘の美化で作り上げた者たちが居るの・・しかし、戦後75年も
 経っているのに、今だに、杉原の嘘の話を教科書に載せて教えている日
 本の教育・・また、近現代史自体を教えないで逃げている・・
  (参考)  https://www.youtube.com/watch?v=rvvd36Jq91M
  『ニュース女子』 #277(ニュース女子記憶遺産 第6弾〜杉原千畝・命
  のビザ〜/オジさまたちのDIYニュース)
.
  関連史料・・
  2017年12月27日、杉原リスト「世界の記憶」落選 「命のビザ」に国
 際的視点を・・(2017年12月27日、毎日新聞、東京朝刊)
  第二次世界大戦中にナチスの迫害を受けたユダヤ難民を「命のビザ」
 で救った外交官、杉原千畝(ちうね)(1900年~1986年)の関係資料
  「杉原リスト」が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記
 憶」(世界記憶遺産)に登録されなかった。
  2017年10月末の決定に関係者の間には落胆が広がる。
  だが、千畝の行為を物語る資料は記憶遺産として記録・保存する価値
 があり、登録実現への道を模索してほしい。
  ユネスコは今回、大戦中にユダヤ人を助けたポルトガルの外交官、ソ
 ウザ・メンデスの資料を記憶遺産に登録した。
  ドイツに侵攻されたフランスで南西部ボルドーの総領事だったメンデ
 スは40年、本国のサラザール独裁政権の命令に逆らってユダヤ人にポ
 ルトガルの通過ビザを発給し、3万人以上の難民を救ったとされる。
  一方、千畝は同年、リトアニアで2140通の日本通過ビザを出した。
  それもソ連軍侵攻下の非常時、独との関係を重視する日本政府の方針
 に反してユダヤ人を救った。
  数の多寡ではない。
  同じように人道主義者だった。
  千畝とメンデスは戦後、ユダヤ人を救出した功績でイスラエル政府か
 らヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)をともに受けている。
  それなのにユネスコの判断は分かれた。
  杉原リスト落選の理由は明らかにされていないが、経緯を振り返ると
 要因が浮かび上がる。
  (参考) 毎日新聞は上記の様に報じるが事実誤認がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://stff2010.blog29.fc2.com/
または
  https://32983602.at.webry.info/
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/