(増補版)391E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月〜1884年1月)

題:(増補版)391E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月〜1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年、論・新聞・本・文学・出版:
・ 「國教論」(元田永孚・もとだながざね)
  元田永孚は、明治天皇陛下の御侍講となった。
  そして、教育勅語の草案作成に尽力し、
  1890年に、井上毅と協力して起草した。
・ 「社會學之原理」(著:スペンサー/訳:乗竹孝太郎)
  イギリスの非英国国教会(非国教徒)の家に生まれた
 スペンサーの書いた著。
  生物学において取り入れられつつあった『進化論』を、
  取り込んで作られた社会理論の『社会進化論』の概念
 にある。
  「適者生存」という言葉はダーウィンでなく、スペン
 サーの造語。
  社会だって生物とおんなじだ・・、
  他者と競い合いながら、適者が淘汰を経て、上昇して
 いくのだ・・とした。
  そして、完全社会へ至るのだとした・・
  具体的には、軍事型社会から産業型社会へと進化して
 行くとした。
  「そんな単純な社会ではないですよ」と言いたい。
・ 「富國論」(著:アダム=スミス/訳:石川暎作)
  自由放任主義の経済を説く。
  「見えざる手」や「安価な政府」の観点が展開される。
  「見えざる手」なんて言って、放任していたら、市場
 が大混乱したときがあったなー。
・ 「春窓綺話」(原・湖上の美人)(著:スコット/訳:服部誠一
 (実際は坪内逍遥ら)
  坪内逍遥高田早苗・天野為之が、服部誠一先生の名
 前を借りて、訳した痛快歴史ロマン。
・「日本人種改良論」(著:高橋義雄)
  西洋への過度の憧れをいだき、英語の習得につとめる
 などという論。
  体格的にも日本人より大きく、だから、日本人は劣っ
 ているなどという論。
  日本と西洋との格差は文明・科学だけでなく、人間個
 々の人の知力にも差があるという論。
  こんな・・何でも西欧讃美から・・キリスト教はいい
 のだと盲目的に追従して行った・・真の実態を知らずに
 追従して行った・・なんでも西欧は素晴らしいの単純論。
・「歌學論」(末松謙澄、すえまつけんちょう)
  末松謙澄は、明治・大正時代のジャーナリスト・政治
 家・歴史家。子爵。帝国学士院会員。
  伊藤博文の意向を受けて、歌舞伎の近代化のため福地
 源一郎・外山正一と共に、演劇改良運動を興し、
  明治天皇陛下の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させ
 た。
  日露戦争が勃発すると、伊藤博文を含めた政府・元老
 達から、ヨーロッパに対する日本の立場を説明し、好意
 的な世論形成、および、日本への悪感情を和らげるため
 黄禍論の拡大防止を含めた広報活動につとめた。
  イギリスとフランスを主として、戦争に対する日本の
 弁護論と、偏見に対する反論演説を展開した。
  この効があって、1905年までに黄禍論は沈静化した。
  そして、このことを政府に打電しつつ、なおも、ヨー
 ロッパに留まり、新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、
  1906年2月に帰国、
  海外での功績が認められ、3月に枢密顧問官、
  翌・1907年に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれ
 た。
  スペイン風邪に罹患し、1920年に死去。享年65歳。
・ 「文明東漸史(ぶんめいとうぜんし)」(著:藤田茂吉)
  記述内容に・・
  長英すでに獄を脱してまた帰らず、幕府骨相を写し、
 人を各地に派して探索すれども、その所在を知ることあ
 たわず、あるいは言う故郷なる水沢を経て蝦夷・・云々
  そして、東京大学の論文「明治維新史学史」に、以
 下の記述がある・・、
  民間での維新史論は、維新に関する議論という広い意
 味にとると、福澤諭吉の『文明論之概略』(1875年)や、
 田口卯吉『日本開化小史』(1877―82年)に始まる。
  前者に見えるように、「文明」を近代西洋文明と等置
 した上で、人類史を「未開」から「半開」をへて「文明」
 に至る「開化」・「進歩」の歴史と解し、その中に日本
 を置いて、未来のあるべき姿を考えようとした著作であ
 る。
  これらと同じ発想に立ちながら、具体的な歴史上の事
 件や問題を、史料を収集・解読した上で描いた最初の書
 物は、おそらく藤田茂吉『文明東漸史』(1884年)であ
 ろう。
・ 「自由燈」(今日新聞・こんにちしんぶん) 創刊
  9月25日創刊、 東京新聞の起源の夕刊紙。
  1884年9月に、小西義敬により夕刊紙《今日新聞》とし
 て東京で創刊された。
  初代主筆は、仮名垣魯文(かながきろぶん)
  都新聞に改題。国民新聞と合併し「東京新聞」となる。
坪内逍遥訳『自由太刀余波鋭鋒』(じゆうのたちなごり
 のきれあじ)刊(5月)
  シェークスピアの原題「ジュリアス=シーザー」を坪
 内逍遥が翻訳したもの。
・井上勤訳『狐の裁判』刊(7月)
  『ライネケ・フックス』は、ゲーテによるフランスの
 「狐物語」の翻案作品。
  ゲーテの作品の中で、日本で一番最初に翻訳された。
  『禽獣世界 狐乃裁判』というタイトルで出版された。
  井上は、これを訳す動機として以下を言う・・、
  「狐の裁判を翻訳する動機は、独逸領事が、小生に、
 独逸の有名なる絵入原本狐の裁判を与へられ、
  しきりに、此の狐の裁判は、最も面白き小説にして、
 之を日本語に訳して出版せば、多数の読者を得ること疑
 ひなしと申され、
  領事親友の所持されし絵入小説を与へられしものに有
 之」・・と。
三遊亭円朝作『怪談牡丹灯籠』刊(速記本の出版)
  牡丹灯籠(ぼたんどうろう)は、中国明代の小説集『
 剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』に着想を得て、
  三遊亭圓朝によって、落語の演目として創作された怪
 談噺。
ハックルベリー・フィンの冒険(マーク・トゥエン)
  舞台は、アメリカのミシシッピー河。
  ミズリー州のハンニバルという小さな田舎町。
  泥棒の隠した金塊を探しに出るという、河の自然と冒
 険をテーマとした小説。
  逃亡奴隷のジムを自由州に逃がしてやるというテーマ
 もある。
  ヘミングウェイは、「すべてのアメリ現代文学は、
 『ハックの冒険』の1冊をもって始まった」と言った。
  ハックの父は飲んだくれで、ハックに暴力を振るい、
 ある意味、ハックは奴隷(白人)だった。
  一方、ともに冒険をするジムも、自由のない奴隷(黒
 人)、
  この肌の色の違う、境遇の同じ二人が・・、
  ハックはジムの逃亡を手助けし・・そして、二人は
 自由の自然の世界へと飛び出して行った・・、
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  (今日の言葉)
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1941年4月、本当の日米開戦
  (日本へ奇襲をするアメリカ)
  アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を奇襲攻撃
 していた。
  これが、日本とアメリカの戦端が開かれた事実となっ
 ている。
  アメリカに擦(なす)り付けられた日本の奇襲は、こ
 の史実からも『ない』と言える。
  既に、日米は交戦状態にあったからである。
  アメリカ軍は、卑怯にも中国軍を装って、実際はアメ
 リカ軍の航空師団フライング・タイガーで・・、
  軍籍を外したりして偽装した。
  このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交
 戦した。
  れっきとした日米の戦争状態で、
  アメリカは、卑怯にも、正式の宣戦布告などしていな
 い。
  卑怯な事をするアメリカであるが、
  フライング・タイガーを、アメリカは、民間ボランテ
 ィアだと言い訳するが・・、
  真珠湾では・・、日本が攻撃する前に、アメリカ軍が、
 先行していた日本の潜水艦を攻撃した。
  日本の真珠湾攻撃前に、アメリカが日本を攻撃して、
 戦端を開いていたのだ。
  このとき、『あれはクジラだった』と、またまた、ア
 メリカは言い訳したが・・、
  しかし、しかし、この中国のアメリカの日本攻撃を、
  最近、アメリカ大統領が、直接、『許可を与える』と
 いう命令をしている事が判明した。
  この様な、明確な行為を、アメリカ大統領がしている
 事が判明した。
  攻撃許可は、開戦である。
  アメリカの宣戦布告なしの開戦である。
  奇襲状態の開戦である。
  米国立公文書館に動かぬ証拠がある。
  逆に、アメリカが、日本に奇襲攻撃を既にしていたと
 いうこと・・、
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  そして、続きの(今日の言葉)
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1942年、韓国人の日本軍隊への志願倍率が、この年に、56.5
 倍となった。
  朝鮮出身者で将校になる人も少なくなかった。
  日本人と、まったく同一であった。
  差別など一切なし。
  朝鮮出身の将校の下で日本兵が実際に戦ったのだ・・、
  陸軍大学校を出て、日本人と同じように戦犯の責任を
 問われた朝鮮出身の将校もいたぐらいだ・・、
  山本七平氏の著書『洪思翊(こうしよく)中将の処刑』
 のとおりである。
  イギリス植民地で・・、
  本隊が退却した後の陣地にグルカ兵が、可哀想に、イ
 ギリス兵に鎖で足を縛られ、銃を撃ち続けていた・・と
 いうことがあるが、
  イギリスは、植民地の兵を虐げていた。
  日本には、朝鮮半島出身だからと言って、その様な非
 人道的なことは、一切、無い。
  因みに、この韓国人の日本の軍隊への志願者は、年々、
 倍率が上昇した。
  韓国は嘘を言うが・・?
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  そして、続きの続きの(今日の言葉)
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1945年3月26日、沖縄戦が始まる(〜6月23日)
  キリスト教の「完全抹殺の後に平和が来る」という
 『シャロームの教義・考え方』に影響されて、
  沖縄戦も始まった。
  これにマインド・コントロールされ、洗脳されたアメ
 リカの大統領・ルーズベルトは、
  大東亜戦争第二次世界大戦)の1943年1月24日の「カ
 サブランカ演説」の時、
  「ドイツと日本の戦争する力を完全に破壊する」。
  「それまで決して平和はやって来ない」という演説は、
  イギリス首相のチャーチルはじめ、多くの批判を浴び
 た。
  このルーズベルトの非情発言の非情さ故に、反論は相
 次いだ。
  しかし、この考え方に、アメリカは、この後の方向性
 を大きく影響され、この方向性をとって行ったが、
  この『ルーズベルトとの宣言』ともなったこの方針発
 言は、各所から様々な批判を受けた。
  当時の、アメリ国務長官コーデル・ハルは、この
 言葉を聞いたときに言葉を失った。
  それはルーズベルトとの気付かぬ点に思いをはせたか
 らだった。
  そして、言った・・、
  「敵は、冷静な判断を無くし、絶望的な戦いを繰り広
 げ、結果として破壊されつくした敵国は、
  自ら復興できなくなり、
  最終的に、アメリカが、その責任を負わなくてはなら
 ない」・・と。
  無条件の降伏までの・・破壊を目ざしたルーズベルト
  結果的に、その無条件降伏を、日本は、アメリカにさ
 せられた。
  このルーズベルトの考え方・方針は、イギリスやソ連
 から問題点を指摘された。
  しかし、ルーズベルトは、「原則を曲げる訳には行か
 ない」と・・頑固に訂正を拒んだ。
  しかし、このルーズベルトの『とことん、やっつける
 のだ』は、ルーズベルトの周囲を、アメリカを、最後ま
 で悩ませた。
  結局、ルーズベルトを継いだトルーマンも、ルーズベ
 ルトの方針を受け次いだ。
  そして、行きつく所まで行く、
  キリスト教の「シャローム」の考え方にマインド・コ
 ントロールされて、
  日米戦争は続いた。
  しかし、1945年3月26日〜6月23日の沖縄戦で・・、
  手ひどい反撃を受けたアメリカは、その方針がぐらつ
 いた。
  アメリカ軍指導部は、無条件降伏にこだわらないとし
 た。
  そして、この方針にこだわらないで、条件の受け入れ
 を「了解する」とした。
  しかし、バーンズ国務長官は、『無条件降伏が原則』
 と激しく反発した。
  この頃、アメリカは、次世代の兵器の「核兵器の実現
 性」を手に入れていた。
  この時も、有色人種としての日本の命が、軽く見られ
 ていた。
  この観念も、キリスト教の教義・考え方にマインド・
 コントロールされていた。
  そしてまた、アメリカは、ドイツに対しても・・、
  傲慢にも、アメリカは、『ドイツは、牧畜農業国家に
 するのだ」と豪語した。
  日本の無条件降伏の『完全破壊よりはましだ』という
 のはおかしいか?
  何しろ、勝てば官軍の傲慢なアメリカだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive