気になった事柄を集めた年表 [五]:(2014・11・3 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表 [五]:(2014・11・3 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリ
 西海岸で療養生活に入った。稲造は、重症の神経衰弱と
 診断され、休養を取るよう申し渡されていた。→1年
1898年、アメリカが、フィリピン・ハワイ諸島・ジョンス
 トン島・グァム島を新領土の植民地として手に入れた。
1899年、アメリカによるフィリピン征服戦争が起きた。
 〜1902年。マッカーサーの父親が参戦している。また、
 この父親はインディアン掃討戦もしている。→0年
1899年、アメリカが、ウェーク島・米領サモアを新領土
 の植民地として手に入れた。→0年
1899年11月、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版
 された。「日本人の魂」という副題が付けられた。日本
 での出版は、この翌年。稲造は書く、その武士道の淵源
 を仏教と神道儒教に見い出される・・と。そしてまた、
 書く、「危険や災害に直面した場合の禁欲主義的沈着さ
 は、仏教から来る」・・と、説明している。
19世紀末〜20世紀初頭、外国勢力による中国分割が進んだ。
 満州(ロシア)、山東省(ドイツ)、華北揚子江流域・
 香港(イギリス)、雲南省(フランス)・・、→0年
1900年、新渡戸稲造が、ヨーロッパへ行き、植民政策の
 勉強をし、その後、台湾へ赴(おも)いた。→0年
1900年、ロシアが、中国(清)で発生した義和団の乱
 混乱収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは、満州
 を植民地化することを既定事実化しようとした。日英米
 の抗議によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を
 守らず、逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響
 力をロシアは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山
 採掘権や森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取
 得し影響力を増した。日本は、これらを買い戻して回復
 させた。そして、日本は、外交的に衝突を避けようとし
 たが、ロシアは、軍事力で日本への圧力を増していった。
 中国への外国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が
 出兵した。日本も出兵した。ロシアとドイツは、日本の
 3〜4倍の賠償金を要求し、取った。ロシアは、兵を撤兵
 させず、朝鮮国境に砲台を建設したり、シベリア鉄道
 軍の輸送を開始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期
 間1901年〜1909年)は、アメリカインディアンの事実
 上の絶滅を指示すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
 という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
 が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
 は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
 キリスト教は、国家体制への癒着(ゆちゃく)を強めて
 行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
 究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
 ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
 想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
 うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
 ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
 この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
 アメリカは反抗作戦を実施した。→1年
1905年9月5日、日露戦争終結した。この日に、ポーツ
 マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
 森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
 また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
 音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
 べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
 日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
 わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
 だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
 ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
 行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
 ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
 と思うのは考えすぎであろうか。
1905年9月5日、日露戦争の日本の勝利は、朝鮮のロシア
 化から守った。また、アジアの植民地の方々へ勇気を与
 えた。例えば、インドのガンジーネルーは、心が揺さ
 ぶられたとの話を吐露している。また、日本に好意を感
 じていたインドネシアの方々は、巨大なロシアのバルチ
 ック艦隊が、狭い海峡を通って行く姿を見て、立ち上が
 って来た日本の終焉を予測し、涙を流して見たそうであ
 る。が、しかし、その後の結果に沸き立ったという。ア
 メリカの黒人の方々も勇気づけられたという。そして、
 考えるきっかけを作ってくれたという。ある公民権運動
 家は、日本が白人優位の人種偏見神話を崩してくれたと、
 全米を演説してまわった。しかし、逆に、白人社会へは
 衝撃とパニックを与えていた。これが深刻な問題につな
 がって行った。その一つが、アメリカの排日運動である。
 また、それまで中国の方々へ向けられていた「黄禍論」
 が、日本へも向けられ、世界に流れて行った。その先に
 は、悲しい第二次世界大戦への影があった・・、
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの
 支配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
 に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
 の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
 を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
 『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
 択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
 間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
 聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
 メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
 と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
 感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
 を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
 界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
 り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
 で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
 った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
 史によくある人種間の対立のイメージとなった。→0年
1906年、日本人の移民の真実は、日本人移民などわずか
 で、たかがしれた人数だった。その真実は、1日に3000
 人の割合で、アメリカに上陸してくるヨーロッパ系白人
 の移民だった。しかし、その脅威が日本へ向けられたの
 だった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
 によって、日本の朝鮮半島南満州の勢力範囲が合意さ
 れ、また、ロシアの外モンゴル北満州の勢力範囲が合
 意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
 た。→1年
1908年3月、アメリカの大西洋の大艦隊が太平洋に回航し、
 日本へ来た。これは対日の威嚇行動であった。日本の2
 倍の艦隊規模だった。日本は驚愕した。日露戦争の日本
 の勝利に、アメリカだけでなく、カナダやオーストラリ
 アも排日の共同戦線を張った。強い日本が、逆に、脅威
 に変わったのである。特に、アメリカは興奮し、日本を
 仮想敵国扱いにした。世界にはいつの間にか日米戦争の
 熱が広がっていた。その日本への威圧行動だった。日本
 は、日露戦争疲労困憊の時期、何かをする様な余力な
 ど無い状態だったのに。→2年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
 が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
 手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
 18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
 る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
 信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦キリスト教
 国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
 った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
 た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
 い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
 いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、『再臨待望者』
 や『再臨狂』を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
 の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
 の土地所有権を剥奪した。これは、日本人を狙い撃つ立
 法だった。日本人移民1世は、既に、アメリカ市民権を
 取得できないとの差別を受けていた。がさらに、この法
 律は、土地所有権も奪われるという非人道的な法律だっ
 た。勿論、ヨーロッパ系移民には適用されないという不
 平等なものだった。アメリカ大統領は、ウィルソン大統
 領だった。日本政府は強硬な抗議をした。しかし、日本
 は、戦争を予定しているのでは無いかと言われ、アメリ
 カは、さながら開戦前夜の様な対応の仕方をし、緊張し
 た空気に包まれて行った。海軍作戦部長のブラッド・リ
 ーフィスク少将は、日本がこの法律を絶好の開戦理由と
 して、フィリピンとハワイを奇襲するといい、対日戦争
 は十分に起こる事と言った。そして、軍艦を派遣すべき
 だと言った。この日米危機は最終的には回避されたが・
 ・、日本の人種差別に対する正義の抗議に対し、この様
 な対応がなされるという状況だった。→1年
1914年6月28日、オーストリアの皇太子がサラエボで暗
 殺された。これをきっかけに、7月28日に宣戦布告がな
 され、戦争に参戦する国々が増え、第一次世界大戦へと
 なった。日本は日英同盟の関係から8月15日に最後通牒
 をドイツに勧告し、8月23日に宣戦を布告した。→3年
1917年、ロシア革命が起きる。→1年
1918年11月11日、第一次世界大戦終戦した。休戦協定
 が結ばれた。→1年
1919年1月18日〜、パリ講和会議が開かれた。この会議に
 おいて日本は、人種平等に関する提案を行った。この提
 案の背景には、度重なるアメリカの人種差別・偏見があ
 るからだった。また、この時の日本の視点は、いち日本
 人移民に止(とど)まるものではなかった。有色人種に
 対する差別と闘(たたか)っていた。レジナルド・カー
 ニーは書く(その概要):世界の秩序を取り戻そうとの
 パリ講和会議。この会議で、世界は、日本とアメリカの
 発言に耳を傾ける姿勢になっていた。アメリカ大統領の
 ウィルソンは、パリに乗り込んで14の提案を行った。
 日本は、そのウィルソン大統領が提案できなかった15番
 目の提案を行った。それは『人種平等』の提案だった。
 日本とアメリカの差は、この人種平等の提案ができるか、
 出来ないかの差だった(アメリカで差別を受けていた黒
 人の方々は、日本に人種差別と偏見をなくすように尽力
 してほしいという嘆願書を提出してる状況でもあった。
 国際連盟でなく日本へ提出していた)。日本は、世界で
 最も輝かしい、有色人種の国家の世界の列強入りが熱望
 されていた。全米黒人新聞教会は、次のようなコメント
 をした、「われわれ黒人は、次の会議の席上で、人種問
 題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬
 意を払うものである」「全米1200万の黒人が息をのん
 で、会議のなり行きを見守っている」と。会議の採決で、
 日本の人種差別撤廃の提案は、賛成17、反対11で採択
 された。しかし、委員長を務めていたアメリカのウィル
 ソン代大統領は、「かような重要案件は、全会一致でな
 ければいけない」と言って、採決をひっくり返してしま
 った。そして、不採決宣言を行ってしまった。この会議
 の様子は、如実にアメリカに生活する黒人の方々の姿、
 迫害・偏見・差別を映し出していた。→5年
1924年アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
 で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
 まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
 同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
 月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
 2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
 僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
 日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
 配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
 ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
 聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
 と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
 大げさな、偏向演説をした。また、日系人の「倹約と努
 力」が批判された。キリスト教に偏するNHKが「頑張
 るな」のキリスト教との鎌田實氏を常に使ってキャンペ
 ーン放送をし続けたが、このアメリカの嫌悪簿反応と同
 じ行為をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締
 結され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年〜1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
 骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
 考えを、外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏
 が言う。当時、イギリス海軍中南米を防衛するという
 事をしていた。日本は世界の5つの大きな大国の一つに
 なっていた。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。
 →4年
..
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