(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月〜1892年11月)

題:(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月〜1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1892年11月12日、官吏の勤務時間を、夏期を除き、退庁時
 間を1時間延長した。
  これによって、拘束8時間制となった(閣令第6号) (
 11月22日説あり)
  因みに、江戸時代の幕藩体制の頃の武士の執務時間は
 6時間だった。
1892年11月14日、高等官官等俸給令公布(勅令第96号)
  この法令によって、親任官以外の高等官が9等分され、
 親任官・一等官・二等官が勅任官、三等官から九等官まで
 が奏任官と定められた。
  (参考)官庁に勤める者を、官吏と管吏でない者(嘱
     託・雇員など)に分け、
      官吏は、高等官と判任官にわけた。
      また、高等官は、親任官と勅任官と奏任官に
     分けられた。
      親任官は、天皇陛下親任式を経て任命され、
      勅任官は、高等官一等と二等を言い、
      奏任官は、高等官三等〜九等を呼んだ。
1892年11月14日 山田顕義が死去した。
  山田顕義(やまだあきよし、1844年〜1892年)陸軍軍
 人・政治家。
  1844年10月9日、山口県(長州長門・萩藩士)に生まれ
 た・・藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。
  吉田松陰松下村塾に学び、京都を中心に尊王攘夷
 活躍し、蛤御門の変に敗れ、品川弥次郎らと御楯隊(み
 たてたい)を結成、四国連合艦隊とも戦った。さらに、
 元治(げんじ)の内戦にも活躍。
  1864年8月20日(20歳)の禁門の変に参加した。
  1864年(20歳)の江戸幕府の長州征討では高杉晋作
 下で「丙寅丸」の砲隊長として幕府艦を撃破した。
  1868年(24歳)の戊辰戦争では東征大総督参謀として、
 越後、東北、箱館五稜郭と奮戦し功をたてた。
  明治維新後となって・・
  1869年(25歳)兵部省に出仕し、兵部大輔・大村益次
 郎の下で兵部大丞(ひょうぶだいじょう)を務めた。
  大村の死後は、遺志を継いで兵制の確立に力を注いだ。
  1871年(27歳)陸軍少将、そして・・、
  1871年12月23日(27歳)岩倉遣外使節に理事官として
 随行して随行し、フランスをはじめ、欧米の兵制を視察
 した。
  1873年(29歳)帰国して東京鎮台司令長官となった。
 また、清国特命全権公使を拝命した。
  1874年(30歳)佐賀の乱が勃発し、司法大輔(しほう
 たいふ)を兼任して、その鎮圧に当った。
  1874年(30歳)台湾出兵閣議決定に反対を唱えた。
  1877年(33歳)西南戦争の際は、別働の征討第2旅団司
 令長官として活躍した。
  1878年(34歳)陸軍中将(西南戦争の功による)
  1878年(34歳)刑法草案審査委員となり、法典編纂事
 業に寄与する一方、元老院技官を兼任・・そして・・
  1879年(35歳)参議に就任、内務卿、工部卿を兼任し
 て歴任。
  1882年(38歳)皇典講究所の設置に関与する。
  1883年(39歳)司法卿になる。
  1884年(40歳)伯爵を授けられる。
  1885年(41歳)内閣制度創設以後も、第一次伊藤博文
 内閣の司法相に入閣し務めた。
  1887年(43歳)この年から法律取調委員長を務め「法
 典伯」の異名をとるほどの熱意で、刑法はじめ法典編纂
 に尽力し、法典の整備をした。
  1889年(45歳)大隈重信外相の条約改正案に「大審院
 に外国人判事を任用する」という譲歩的事項が含まれて
 いたことが「憲法違反」として世論の攻撃にさらされる
 と、帰化法の制定を閣議に提案し、外国人判事の採用を
 可能にしようとした。
  1889年(45歳)皇典講究所の所長に就任し、また、日
 本法律学校(のちの日本大学)、国学院を創立した。
  1890年(46歳)民法はフランス人ボアソナード、商法
 はドイツ人レースラーの原案起草を得て、共にこの年の
 公布にこぎつけた。
  しかし、フランスに範をとる民法が、日本の国情に合
 わないという法典論争の議論が起こった。
  山田は早期施行を主張したが、結局、両法ともに施行
 されなかった。
  1891年(47歳)大津事件では、担当大臣として大逆罪
 適用を主張した。
  1891年5月(47歳)大津事件が無期徒刑の判決直後に辞
 任、病気のためだった。
  第一次伊藤内閣の司法相、黒田・第一次山県・第二次
 松方の各内閣でも司法相を歴任(1891年・47歳まで)
  1892年(48歳)枢密顧問官となったが・・
  1892年11月11日、死去、49歳。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留しているのではない・・
    アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統領に提出されたメモ
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1676年、ナサニエル・ベイコンの反乱。
  アメリカ・バージニアで起き、黒人の方々の抵抗・反
 乱として初めてのものだった。
  弾圧による不満の極致にあった黒人奴隷の方々が立ち
 上がった。
  これに不満を抱いていた開拓者も加わった。
  この年に、メリーランドでも反乱が起きた。
  1739年9月9日、サウスカロライナでカトーの黒人奴隷
   の反抗。
   これは最大の蜂起と言われている。
   捕まった奴隷の方々は、そのほとんどが処刑された。
   生き残った少数は、西インド諸島の市場に売却され
   た。
   サウスカロライナ州議会は法律を作って、黒人奴隷
   の方々の移動を制限し、また、教育も制限し、組合
   結成も制限した。
  1770年3月5日、自由黒人クリスバス・アタックスが、
   「ボストンの虐殺」で軍の銃弾に倒れた。
   イギリスの締め付けが厳しい事で反抗した。
  1773年1月6日、「フェリックス」、解放を求める奴隷
   の請願書
  1773年4月20日、ピーター・ベステスと他の奴隷、解放
   を求める請願書 
  1773年6月、マサチューセッツのハッチンソン総督・オ
   リヴァー副総督の本国あて私信が暴露される。
   植民地人の自由を制限することを主張していた。
   マサチューセッツの黒人が、議会に自由を求める請
   願書を提出。
  1775年、イギリス軍に参加する奴隷には自由を与える
   という、破廉恥な方法で兵士を集める「バージニア
   総督・ダンモア卿の布告」
  1776年、独立宣言が行われる年になって、やっと、ア
   メリカ軍が自由黒人の軍隊参加を承認した。
   後追いの処置となっている。
   黒人嫌いのリンカーン大統領は、黒人の軍隊参加を
   渋っていた。
   黒人の方々は、何度、頼んでも許可しないリンカー
   ンを軽蔑し、すでに、軍隊へ飛び込んで参戦してい
   た。
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1789年、アメリカ合衆国憲法が制定された。
  「3/5条項」や奴隷貿易存続などを承認したことにより、
 このアメリ憲法奴隷制度を容認する状態となる。
.
1790年、フランス領ハイチで奴隷革命が起きた。
  そして、1803年に黒人共和国が成立した。
  アメリカの黒人奴隷の方々は、これに大いに勇気づけ
 られた。
.
1793年、アメリカで逃亡奴隷取締法が成立した。
  この年、イーライ・ホイットニーが、綿繰機を発明し
 た。
  これが綿花栽培の発展の契機となる。
  そして、この綿畑に黒人奴隷の方々が、大勢、連れて
 来られる。
.
1794年、アメリカ白人のキリスト教教会が、黒人差別をす
 ることに対して、黒人のリチャード・アレンが、最初の
 黒人の教会をフィラデルフィアに設立した。
  この年には、奴隷制反対協会の全国大会が、フィラデ
 ルフィアで開催されている。
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1896年、アメリカというキリスト教国が、『黒人差別をし
 ても良い』という判決を出した。
  まったく破廉恥な軽蔑すべき判決で・・、
  施設などが平等であれば、黒人を白人から隔離しても
 その行為は憲法違反にはならない・・という連邦最高裁
 判所の判決で・・、
  アメリカの下級裁判所ではなく、最高裁判所が出した
 という卑劣な判断だった。
  こんなにはっきりした明確な人種差別行為を、アメリ
 カ特有な屁理屈で「人種差別ではない」として人種差別
 を行なった。
  この判決が、アメリカの基本的考え方として適用され、
 どこでも、アメリカ中で、堂々と、黒人の方々を差別す
 るという行為が行われた。
  アメリカという国の怖い所は、宗教的な偏見で、明ら
 かに筋が通っていない事でも、アメリカ特有の屁理屈か
 ら「不正義」を「正義」としてしまう。
  これは、黒人の方々のみならず「非白人」の「有色人
 種全般」に適用された。
  このアメリカという国の「人種関係全般を支える法的
 原理」になった。
  これから「バス」で、「学校」で、「教会」で、あら
 ゆるところで人種差別が堂々とアメリカ中で行われる。
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1900年6月20日義和団事件(〜1901年9月7日)
  この事件で、中国は、列強各国に賠償金を支払う事に
 された。
  アメリカは、この金を、キリスト教関係へ流した。
  そして、中国でのキリスト教の布教活動を活発化させ
 た。
  キリスト教系の学校が、多数、創設された。
  また、多数のキリスト教宣教師が中国へ渡った。
  アメリカでの募金活動も広がった。
  そして、キリスト教系の人と莫大な金が中国へ流れた。
  (しかし、結果的にキリスト教信徒は増えなかった)
  1927年、一地方軍閥にすぎない蒋介石が、北京に政府
 樹立の宣言をするや、アメリカは承認して中央政府とし
 た。
  キリスト教宣教師は蒋介石と連合した。
  この動きの中にアメリカ雑誌の「タイム(TIME)」
 「ライフ(LIFE)」創立者のヘンリー・ルースが居
 た。
  しかし、信徒が増えないという状況で、募金打ち切り
 と宣教師の引き上げが検討されるようになった。
  そこで、キリスト教宣教師たちが使った手が、日本を
 貶(おとし)めて、アメリカにおいて、再び、中国に関
 心を向けさせるという手だった。
  キリスト教牧師のマギーは、南京市民を撮影して、ア
 メリカの政府関係者や、新聞記者に見せて、反日を煽っ
 た・・中国への同情と関心を喚起した。
  この例の様なキリスト教関係者の反日行動があちこち
 でなされた。
  上海のボイントン宣教師は、新聞記者や外交官へ、テ
 ィンパーリィ記者(オーストラリア人記者、実は、中国
 国民党宣伝機関のイギリス支部責任者)が金で依頼され
 て執筆した南京事件などを吹聴した。
  この様な色々な行動の中で、アメリカにおける反日
 情が作り出されて行った。
  1937年に至って、ルーズベルト大統領の「日本を疫病
 患者に見立てた卑劣な批難演説」となる。
  そして、日本が戦争に負けて、東京裁判に於いて、キ
 リスト教聖職者のマギーは、証言で、見てもいない日本
 のありもしない卑劣な行為を言い続けた。
  反対尋問に於いて、マギーは、見ても居ないことを、
 延々と色々、言っていることが一つ一つ嘘だと暴露され
 た。
  特に、キリスト教宣教師たちの語ったその言葉の嘘・
 悪口・雑言はその極致にある(エスピー報告)
  当時の日本側の馬淵逸雄中佐(上海派遣軍報道部)も
 以下の様に指摘している・・
  「それ(南京の外人記者)にもまして悪影響の種をま
 いたのは、アメリカ宣教師たちの悪質デマ通信であった。
  あたかも入城した日本軍が鬼畜の行動をしたかのごと
 く通信をし、世界の対日感情を悪化させた・・(中略)
  首都・南京の占領も、この二つの事件(パネー号事件、
 および、レディバード号事件)とキリスト教宣教師のデ
 マ宣伝とによって、その対外的価値を半減した」・・と。
  今でも、キリスト教は日本を貶めている。
  そして、日本のシンボルである「国旗」と「国歌」に
 対しての貶め行為は酷いものである。
  この貶め行為が、日本に定着して来ると「表から消え
 る」というキリスト教である。
  キリスト教に偏するNHKは、盛んにその肩代わりを
 している。
  そして、そのNHKの息のかかる「放送大学」も、N
 HKにゴマを摺っているのか、盛んに日本を貶めている、
 また、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしている。
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1901年、官営の八幡製鉄所が開業して、鉄鋼の国産が開始
 された。
  それに伴い、造船業も発展を遂げた。
  日露戦争の後には1万トン以上の造船も可能となった。
  『日本の産業革命』と言われる時代が始まった。
  日本のこの目ざましい近代産業の発展は、江戸時代以
 来の民間の高い教育水準がそこにはあった。
  また、国民の勤勉さがあった。
  四民平等の施策によって、国民に自分の努力と工夫に
 よって人生が切り開かれる社会体制があり・・、
  また、渋沢栄一(埼玉県深谷豪農の生まれ)の様な
 有能な民間の実業家が、多数、登場した。
  また、日本の施策が優秀で、日本の発展のための的確
 な施策がなされて行った。
  重点的になされた「交通網の拡充」も最適切だった。
  産業の発展を支えた。
  1889年には、東海道線の新橋〜神戸間が全線開通した。
  そして、全国の鉄道網が拡大して行った。
  また、馬車などの通行が可能なように、道路も整備さ
 れて行った。
  地方の都市や農村にも鉄道が通って、それまでの街道
 筋に変わって、駅周辺が新たに発展した。
  農村も様々な副業が試みられ、生活水準も向上した。
  米食が普及し、人口も着実に増加して行った。
  子女を製糸工場に出稼ぎに出したり、都市に移住して
 工場の労働者になる人々も、多数、出る状況にあった。
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1905年9月5日、日露戦争が、日本勝利で終わった。
  日露戦争の後、ロシアは、東アジアでの動きを止めた。
  南下政策もあきらめた。
  そして、活動拠点を、再び、ヨーロッパへ移し、進出
 を模索した。
  ヨーロッパの情勢は、そのため、緊迫するものとなっ
 た。
  ドイツは、すでに、1882年に、オーストリアとイタリ
 アとで三国同盟を結んでいた。
  そして、海軍力を強め、海外へ進出をした。
  これを恐れたイギリスは、ロシアとフランスに接近し
 た。
  ロシアは、1891年に、フランスと露仏同盟を結び、ま
 た、1907年には、イギリスと英露協商を結んだ。
  また、1904年には、英仏協商が結ばれている。
  そこで、この三国(イギリス、ロシア、フランス)は、
 1907年に、三国協商を結びドイツを包囲し、ドイツなど
 の三国同盟と対峙(たいじ、にらみ合って対立すること)
 した。
  これによってヨーロッパは、緊張が高まって行った。
  この時、日本は、1902年に、日英同盟を結び、1905年
 の日露戦争の戦勝の後、1907年には、ロシアと日露協約
 を、また、フランスと日仏協約を結んだ。
  日本は、三国協商の三国とのつながりを強めた。
  この頃、バルカン半島に緊張が高まった。
  民族の独立を目指す運動が高まった。
  この地域に利害を持つイギリスをはじめとする三国協
 商の列強諸国と、ドイツをはじめとする三国同盟の列強
 諸国は、この独立運動を利用して勢力を伸ばそうとした。
  そのため、バルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」
 と呼ばれた。
  一触即発の緊張状態となり、この状態が続いた。
  これは、東アジアの中国の軍閥が割拠する頃の状況と
 同じ様な緊張状態だった。
  バルカン半島で、ヨーロッパ列強各国がうごめくこと
 が良くて、「満州ではダメ」なんて言えない状態だった。
  こんなことをしでかして来たヨーロッパ各国が、満州
 で日本をとやかく言うような事が出来るのか・・?
  そして、結局、1914年、オーストラリア皇太子夫妻が、
 ボスニアサラエボで、親ロシアのセルビア青年に殺さ
 れると(サラエボ事件)、これを切っ掛けとして第一次
 世界大戦を起こしてしまった。
  他人(ひと)の事をとやかく言えない状況をやってい
 た。
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1905年、日清戦争後、中国から、日本の近代化に学ぼうと
 して、多数の留学生が日本に来て・・そして・・
  1905年、孫文は、東京で留学生を中心に中国同盟会を
 結成した。
  そして、三民主義を掲げて、清朝を打倒する運動を開
 始した。
  1911年、中国では、民衆の反政府運動と軍の反乱が結
 び付いて、多くの省が清朝からの独立を宣言して、辛亥
 革命(しんがいかくめい)が起きた。
  1911年、そして、この年、南京に革命派の代表が集ま
 って孫文を臨時大総統に選びんだ。
  1912年の翌年に、中華民国の成立を宣言した。
  首都は、南京に置かれた。
  清朝政府の実力者だった袁世凱(えんせいがい)は、
 この革命派と結び、皇帝を退位させて清朝を滅ぼした。
  そして、その引き換えに孫文から大総統の地位を譲り
 受けた。
  しかし、袁世凱は、大総統に就任してから、自己の権
 力強化を図った。
  袁世凱は革命派を弾圧し始めた。
  その後、中国は、統一性を失って行った。
  権力を持つ地方政権である大小の軍閥が発生すること
 によって、各地方がバラバラに支配されるようになった。
  この一地方軍閥蒋介石
.
1917年2月23日、2月革命(〜1917年2月27日)
  ロシアの崩壊はこの日のデモが切っ掛けだった。
  日本と衝突した日露戦争の際の1905年の第1次ロシア
 革命、
  第一次世界大戦中の第2次ロシア革命は、いずれも民
 衆の暴動から始まった。
  その中から1917年に世界最初の社会主義政権ソヴィエ
 ト=ロシアが誕生し、最後の皇帝ニコライ2世は処刑さ
 れ、ロマノフ朝は終わりを告げた。
  1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわ
 せてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、
 デモを行った。
  食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」とい
 う要求が中心となっていた。
  他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモと
 ストは全市に広がった。
  要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
  ロシアは、ドイツとの戦争が長引いて、庶民は食糧難
 にあえいでいた。
  そして、都市の市民に暴動がおこり、これに兵士が加
 わった。
  これを契機としてロマノフ王朝が倒れた。
  国外に逃亡して革命の機会を待って居たレーニンは、
 直ちに、この機会を利用した。
  レーニン派は、武装蜂起し、兵士と労働者を中心にし
 て、代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府を作った。
  そして、他の党派を武力で削除し、共産党一党独裁
 体制を築いた。
  ソビエト政府は、ドイツとの戦争をやめ、革命に反対
 する国内の勢力との内戦に没頭した。
  ロマノフ王朝の皇帝一族を処刑し、また、共産党が敵
 とみなす資本家、キリスト教聖職者、地主、貴族、知識
 人らの多数を処刑した(ロシア革命)。
.
1917年12月、日本の軍艦の艦隊が編成されてヨーロッパへ
 派遣された。
  1902年に日英同盟が結ばれ、また、1907年には日仏協
 約や日露協約を結んだ日本は、第一次世界大戦において、
 この三国協商の側について、ドイツなどの三国同盟側と
 戦った。
  ドイツの潜水艦が、イギリス・フランスなどの協商側
 の商船を警告もなく無制限に攻撃する作戦をしている事
 から、日本は軍艦を地中海へ派遣して(イギリスの要請)、
 マルタ島を基地として、三国協商の輸送船団を、ドイツ
 の潜水艦から守った。
  また、ドイツの租借地であった中国の山東半島の青島
 (チンタオ)を攻撃した(この近くに有名な租借地・威
 海衛はイギリスの租借地がある)。
  また、日本は、太平洋の赤道以北のドイツ領の島々を
 攻撃した(赤道以南はオーストラリアおよびニュージラ
 ンドが統治)。
  また、遼東半島の関東州などのドイツ租借地を攻撃し
 た(因みに、ドイツやイギリスは、中国のあちこちに広
 大な租借地を持っている)
.
1918年、シヘリア出兵
  アメリカやヨーロッパ諸国は、ソビエト政府の共産主
 義に強い警戒心を抱いていた。
  長年、シベリアを勢力圏におさめ、南下するロシア及
 びソ連の脅威を、日本も受けていた。
  このアメリカ・ヨーロッパ諸国・日本は、ロシア領内
 で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、革命阻止と、
 シベリアへの影響力を持つことを目的に、共同して出兵
 した。
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1921年、第二回全黒人地位改善協会大会が開かれた。
  アメリカは、とことん黒人の方々を虐(しいた)げる
 国だった・・軽蔑すべき国だった。
  アメリカの自国だけでなく西インド諸島やアフリカの
 新大陸にまでその魔の爪先を伸ばして・・虐げた。
  黒人の方々は、リンチや人種的抑圧、その他さまざま
 な差別を激しく非難した。
  そして、抵抗行動として「税金の不払い」「黒人差別
 法の無視」「暴力には『手段を選ばぬ』自己防衛」をと
 った。
  1921年に、ニューヨークで開かれた第二回全黒人地位
 改善協会大会は、アメリカの全地域から集まっただけで
 なく、西インド諸島南アメリカ、アフリカからも多く
 の黒人の方々が集まった。
  この黒人指導者のガーウェイは、「アフリカ帝国」の
 樹立を宣言し、自らその臨時大統領に就任した。
  黒、赤、緑の三色の国旗も制定した。
  このガーウェイの行動の重要な所は、この後に、アメ
 リカ全土を席巻する「公民権獲得運動」への発展して行
 くところだった。
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1923年3月3日、タイム(TIME、雑誌)が、ヘンリー・
 ルースによって創刊された。
  アメリカにおける初の週刊ニュース雑誌だった。
  2009年の発行部数は340万部。
  また、ヘンリー・ルースは、1936年11月23日、アメリ
 カで写真を中心としたグラフ雑誌の「ライフ(LIFE)」
 を創刊している。
  この雑誌は、1967年〜1970年頃に850万部の最盛期の
 最高発行部数を記録した(1972年12月29日の1862号で休
 刊した・・1978年に復刊したが、2000年に再び休刊)
  このヘンリー・ルースは、中国の山東省に生まれた。
  父は、北京で布教活動に従事していた医師だった。
  そして、この父親は、中国で、燕京大学(えんきょう
 だいがく)をはじめとするミッション系大学を設立に貢
 献した。
  (因みに、この燕京大学は、1952年、中国政府によっ
 て解体されている)
  そして、このヘンリー・ルースは成長して、アメリ
 に戻ると、上記した様にニュース週刊誌『タイム』と、
 写真週刊誌『ライフ』を創刊した。
  ヘンリー・ルースは、『タイム』の表紙に蒋介石を使
 った。
  そして、『ライフ』には、日本軍の爆撃にあったとい
 う赤ん坊の嘘のデッチアゲ写真を載せた。
  中国への同情を掻き立てるためであり、募金を募って
 蒋介石を支援した。
  メディアの媒体を使って日本を貶(おとし)め行為を
 盛んにした。
  アメリカの国民の方々の反日感情を掻き立てた。
  「ライフ」も「タイム」も反日で、親中国の宣伝誌だ
 った。
  (今・現在も、アメリカでは、巨大な中国資本で、日
 本の悪宣伝が行われている。
  サンフランシスコでは、韓国の慰安婦像の建立を中国
 が支援している)
  また、キリスト教宣教師の父を持つ、このヘンリー・
 ルースは、宣伝媒体・映画も使った。
  ニュース映画『マーチ・オブ・タイム』を製作して、
 野蛮な日本を掻き立てた。
  そして、その日本と戦うけなげな中国というイメージ
 を盛んに宣伝した。
  2018年(来年)、日本のキリスト教は、これと似た方
 法で日本を貶める映画を公開する予定だという。
  遠藤周作の「沈黙」の原作を改作して、嘘でデッチ上
 げて作り直し、キリスト教を美化して、日本を貶める映
 画を公開する予定だという。
.
1923年、日英同盟ワシントン会議で失効した。
  当時のイギリス外相のバルフォアは・・、
  「20年も維持し、その間、二回の大戦に耐えた日英同
 盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったと
 しても忍び難いものがある。
  だが、これを存続すればアメリカから誤解を受け、こ
 れを破棄すれば日本から誤解を受ける。
  この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある
 大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」・・と。
.
1928年、老将軍の張作霖は、この年まで満州支配下に置
 いていた。
  張作霖は、北京の「中央政府」に権力を得たこともあ
 ったが、満州の地の地方的軍閥で・・張作霖は、満州
 自分の私領と思っていた。
  そして、二度、満州の独立を宣言した。
  1928年、張作霖が爆死すると、息子の張学良が、父の
 領地と軍を引き継いだ。
  張学良は、親イギリス的で、統率力は父ほどではなく
 低かった。
  その為、「共産系匪賊(ひぞく、集団を成して略奪な
 どを行なう賊)」に荒らし回られた。
  住民の心は、張学良の政治を悪政と感じ、張学良から
 離れていて、独立を求める気運の中にあった。
  中国情勢は混沌(こんとん、区別が立たず物事が入り
 混じっている状態)としていた。
.
1937年8月13日、中国の南京で起きたこと・・この日、蒋介
 石軍が、突然、上海の日本租界を攻撃を始めた(第二次
 上海事変
  この攻撃から南京事件につながる日中戦争が始まった。
  この頃、日本は、軍を引き上げようとしていた。
  日本政府は、1937年7月28日、揚子江沿岸に在留してい
 た日本人約29,230名の引き揚げを訓令した・・そして・・
  1937年8月9日までに上海への引き揚げを完了していた。
  また、軍も引き上げようとしていた。
  そして、アメリカは、中国の数々の軍閥の中で、中国・
 蒋介石軍を支援した。
  まだ、中国国内のあちこちに、色々な軍閥が割拠して
 いるのに・・、
  1928年6月、この蒋介石が、北京で政府を作ったと宣言
 したからというのがその理由だった。
  ただそれだけの理由だった。
  そして、アメリカは、この蒋介石へ、武器・弾薬を与
 えた。
  日本の消耗を狙った消耗戦があった。
  日本が消耗したら、今度は、自分が出て行くつもりだ
 った。
  アメリカは、後になってベトナム戦争の時もこの作戦
 を使った。
  そして、イギリスは、中国で膨大な権益を持っていた。
  そのため、日本と連合して、時には治安行動を行なう
 という事もあった。
  (1902年〜1923年、日英同盟を結んでいた・・特に、
 第二次日英同盟の時に攻守同盟を結んだ・・そして、第
 三次日英同盟の時に、日本は、第一次世界大戦を連合国
 として参戦した)
  1937年のこの時に、上海に居た日本軍は、日本に戻ろ
 うとしていた。
  この様な時、アメリカの支援を受けた蒋介石軍は、多
 くのその支援物資とともに、屈指の精鋭部隊である3万人
 の大部隊で、上海の国際共同租界の日本人区域を包囲し
 た・・ここから日中戦争が始まった。
  そして、1937年8月13日、攻撃を仕掛けた。
  この時、上海に居た日本軍は少数であった。
  日本軍の内訳は、上海陸戦隊2200、日本に引き揚げよ
 うと漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300など4000人だ
 った。
  日本に戻ろうとしていた日本軍は、日本へ戻ることが
 出来なくなった。
  当然、その戦闘を行なうという状態となった。
  日本領事は、国際委員会を招集して、中国軍の撤退を
 要求した。
  しかし、中国軍は攻撃されたからだと真っ赤な嘘を主
 張した。
  そして、また言った「中国軍は攻撃されない限りは攻
 撃しない」と・・まったくの嘘の話を主張した・・中国
 は、中国側の責任を全く認めなかった。
  日本は、やむなく派兵を要請した。
  戦いは拡大して行った。
  この戦いの詳細は・・1937年8月13日午前10時半、中国・
 蒋介石軍は、日本軍陣地に対して機関銃による射撃を、
 突然開始する事から始まった。
  物資の豊富な蒋介石軍は強力だった。
  午後5時頃には、中国軍はあちこちの橋を爆破した。
  砲撃も激しかった・・日本軍は応戦した。
  そして、5時頃、戦いが収まりそうにないと判断した日
 本の司令官は、全軍の戦闘配置を指令し、激烈な戦闘が
 開始された。
  長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊
 司令長官)は、戦争回避をしたいと考えていた・・、
  長谷川中将は、1937年7月から、華北での戦火拡大から
 考え、中国軍はすでに開戦を意図していると察していた。
  日本への攻撃を意図した蒋介石は、中国・蒋介石軍を、
 無錫や蘇州に20万人以上の大部隊を待機させ、戦争の準
 備を整えていた。
  戦いが始まって、日本は、この様な状況も察知し、こ
 の部隊への爆撃命令が出された。
  日本艦艇も蒋介石軍機によって空襲された。
  この蒋介石軍の空襲で、フランス租界や国際共同租界
 も爆撃された。
  路上にいた729人が即死し、861人が負傷した。
  また、避難所も蒋介石軍に空襲され1012人が死亡、1007
 人が負傷し、民間人の多数が犠牲となった。
  これも、中国・蒋介石軍は、日本軍機によるものだと
 嘘を承知で誤った内容を発表した。
  日本の爆撃も、九州から渡洋爆撃をするなど拡大した。
  この様な戦闘の結果、1937年11月中旬頃、日本は、や
 っと、その蒋介石軍を退けることが出来た(3ヶ月間の戦
 いだった)
  蒋介石軍は、南京へ退却して行った。
  ここで、日本軍は、日本に凱旋できるはずだった。
  「上海戦を制すれば、ただちに軍事行動を停止し、欣
 然(きんぜん、よろこんで)日支の友交をおさむるに吝
 (やぶさ)かならず(軍令部第一部甲部員/支那事変処理)」
 ・・喜んで日支の友好に努める・・だった・・
  退却する蒋介石軍を追撃するか否かの時に、日本のマ
 スコミ(NHKを初めとする日本のマス・メディア)は
 報道で煽った・・そして、参謀本部から11月19日に追撃
 命令が出た。
  日本には、追撃することに対しての反対意見もあった。
  報道の煽(あお)りでこの意見が封じられた。
  南京に入場するときに、日本では「ちょうちん行列」
 で祝った(1937年12月13日)が、この様に、日本国民を煽
 ったNHKをはじめ日本のマスコミは、大きく軍の行動
 の判断を狂わし、動かした。
  南京へ向かう日本軍を、NHKはじめマスコミは、そ
 の都度、詳細に報道し、その報道に日本国民は煽られた。
  「南京城日章旗が翻(ひるがえ)るまで」とNHK
 はじめマスコミは報道合戦を繰り広げた。
  1937年12月7日、南京に・・日本軍が迫ると、アメリ
 は、蒋介石蒋介石軍の司令部の者たちを、アメリカ軍
 の2機の飛行機やパイロットまで出して連れ去った。
  アメリカは、『救出』と言いたいのだろうが、これは、
 完全に日本軍と蒋介石軍との戦いへの介入だった。
  アメリカの参戦だった。
  ここで起きた悲劇は、多くの蒋介石軍の兵士が置き去
 りにされたことだった。
  この事から悲劇が始まった。
  アメリカによって、中国・蒋介石軍の指揮・命令系統
 が無くなされた。
  指揮・命令系統のない中国・蒋介石軍の兵士が戦場に
 残された・・卑劣な状態である。
  可哀想なのが中国の一般の方々・民衆の方々だった。
  指揮・命令系統のない蒋介石軍兵士は、一般の中国民
 衆を守れる状態ではなくなった。
  逃げ惑う中国・蒋介石軍兵士となった。
  その逃げる兵士を、蒋介石軍の下級将兵が、自軍の兵
 士へ向かって「逃げるな」と銃撃した。
  この様な「乱れに乱れた南京の状況」が現出した。
  降参して来る右の蒋介石軍兵士が、左から、やはり、
 降参して白旗を上げて来る蒋介石軍兵士が騙して銃撃す
 るという事もあって、右の兵士も左の蒋介石軍兵士とも、
 再び、銃撃戦になるという事も起きた。
  また、中国軍艦が、白旗を上げて降参しているので、
 日本の軍艦が近づいて行くと魚雷を発射して逃げるとい
 う中国軍艦のやり方・・、
  中国は、騙したってなんだって勝てばよいという考え
 方のやり方を昔からやって来た。
  騙される方が悪いという、国際法もあったもんじゃな
 いという中国だった。
  三国志(歴史書)を読めば分かる。
  日本の様に正々堂々と戦うのを良しとするのではなく、
 騙し合いの中国・世界である。
  卑怯なことだってなんだってやるという国だった。
  また、最悪なのが・・中国の民間人に隠れて、民間人
 の服に着替えて(軍服を脱いで)、そして、日本兵を狙
 撃して殺すという卑劣な卑怯な方法を多用した。
  こんなことをしては、中国の民間人に類が及ぶ(るい
 がおよぶ、他人の非が降りかかり、巻き添えを食う)の
 を分かっていてもやるという中国兵だった。
  まともな兵士なら、絶対、やってはいけない卑怯な行
 為だった。
  (日本を貶める事ばかり放送するNHKは、この様な
 事をまったく放送しない。日本を貶めてばかりいる)
  中国の庶民の方々を守る責任のあるものを奪い去った
 アメリカは、その指揮系統を無くしたアメリカの罪は非
 常に重かった。
  上海で・・攻撃を開始された日本は、アメリカが沖縄
 を攻めて来たように、南京まで攻めて行ったのであって、
 当然、侵略ではない。
.
1940年7月、アメリカの予備選で、黒人の方が排除されると
 いう事態が起きた。
  黒人の方々が投票することが出来ないという事が起き
 たのである。
  まったく卑劣な事がテキサス州で起きた。
  この事は、最高裁まで争われるという裁判になった。
  しかし、何と! テキサス州最高裁判所は、その黒
 人の方への排除は適法だったと判決した。
  裁判所は、「政党の私的行為だから」とその判決理由
 を述べた。
  選挙には、すべて政党はつきものである・・この判決
 は、アメリカ特有の屁理屈だと言いたい。
  アメリカ大統領につながる予備選が私的行為である訳
 がない。
  この原告の黒人の方の投票できなかった事に関しての
 この屁理屈判決は、連邦最高裁判所まで持ち込まれた。
  ここでやっと、この4年後の1944年4月に、先の判決が
 ひっくり返り、「黒人の方の主張が認められた」。
  アメリカという国は、最近まで、この様に低劣な人種
 差別が激しい国だった。
  今・現在においても、完全に、この卑劣な人種差別が
 無くなっているとは言えない国である。
  「歴史のないアメリカ」は、まだまだ未熟な国なので
 ある。
.
1950年、卑劣な人種差別国・アメリカは、朝鮮戦争(1950
 年)の頃になって、やっと、アメリカ史上、初めて、「
 黒人の方々が、差別を受けず、白人と隔離なき統合され
 た軍隊」として動員された。
  リンカーン奴隷解放なんてどこにあるのかというア
 メリカだった。
  1945年になって、やっと、アメリカ大統領が、大統領
 行政命令で連邦レベルで黒人差別を否定したことによる
 結果で、州法が制定される実施例が出た。
  この年に、ニュージャージー州ニューヨーク州に、
 雇用における人種差別を禁止する法令を州法によって制
 定した。
  (アメリカ北部の州も、やっと、この様な法令を制定
 した。
  アメリカ北部は人種差別をしていないなんて言うのは、
 完全なアメリカのプロパガンダ・嘘宣伝である)
  人種で雇用を差別することが、やっと、禁止された。
  肌の色や出身国や信条で、就業機会の差別をしてはい
 けないとされた。
  就業を妨げたりしてはいけないとされた。
  まったく遅いアメリカの法令化だった。
  しかし、まだまだ、卑劣な事に、州内の色々な公共施
 設における人種差別に関しては、そのままとされた。
  黒人の方々が、白人と同じ『市民的権利』を持つとす
 ることが出来ないアメリカだった。
  (トイレの差別など、乗り物の差別など・・などなど)
  この後、長くアメリカは、あらゆるところで『この差
 別を続けた』、今でもあるとさえ言える軽蔑すべき状態
 にある(この銅像を建てなさい・・)
  まったく差別のない日本とは大きく違う劣悪な人種差
 別国アメリカである。
.
1964年、アメリカに公民権法が、やっと、成立した。
  黒人の方々への差別を無くす法律がやっと成立した。
  (差別行為者はWASP
  黒人の方々の大変な苦労がやっと実った。
  そこに、何と多くの黒人の方々の血が流された事であ
 ろうか・・
  そこには、白人・アメリカ人の悍ましい(おぞましい、
 身震いするほど嫌な感じ)人種差別の行為があった・・
 厳しく糾弾されるべき行為があった。
  黒人の方々の長い絶えざる広範な闘いが、そこに必要
 だった。
  (この闘いの指導者である黒人のキング師は暗殺され
 た)
  リンカーン奴隷解放宣言は何だったのだろうか・・?
  何ら生かされていないというアメリカだった。
  キリスト教国・アメリカのWASP(W:白人、AS:
 アングロサクソン、P:キリスト教プロテスタント)の
 差別行為・圧迫行為は酷(ひど)かった。
  しかし、この卑劣な差別は、まだまだ、アメリカで続
 いている。
  キリスト教の教義「有色人種蔑視観」の洗脳により根
 深くアメリカに根付いてしまっている。
.
1971年8月24日、『核の傘」は幻影・・
  アメリカは日本を守らない。
  アメリカの「対日政策の見直し」により、核の傘は日
 本防衛の為ではないと明記された。
  アメリカの核の傘で守られているというのは幻想。
  本「仮面の日米同盟」の52頁などに、以下のような意
 味の記述がある・・、
  在日しているアメリカ軍は、日本防衛のために在日し
 ているのではない
  アメリカ軍の日本を防衛するコストはゼロである。
  「国家安全保障検討メモ(NSSM)122号」における
 「対日政策の見直し」の指示を受け、国務省が1971年8月
 24日付けでキッシンジャーに提出した文書ちょり・・
  「日本を協力的にとどめることを確保するコストには
 次のようなものが含まれる。
  核の傘の維持と米抑止力の信頼性。
  核の傘は、いずれにしても米国が自国の防衛のために
 疑いなく維持するので、核の傘の提供によって、日本の
 防衛に対する直接的なコストはかかっていない。
  日本国内、および、その周辺に配備されたアメリカ軍
 部隊は、アジアにおける米国の他の防衛公約を満たすの
 が第一の目的であり、日本防衛の為ではない」
.
1971年12月29日、アメリカ軍の駐留は、日本防衛ではない。
  日本は、目を覚まさねばならない。
  日本は、日本防衛のために立ち上がらなければならな
 い。
  アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留している
 のではない・・
  アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統
 領に提出されたメモより・・、
  「在日アメリカ軍は、日本本土を防衛するために駐留
 している訳ではなく(それは日本自身の責任である)、
 韓国、台湾、及び、東南アジアの戦略的防衛の為に駐留
 している。
  北大西洋条約機構NATO)と違って、日本とは、
 統合司令部に関する取り決めがなく、何らかの種類の統
 合計画もない・・
  このように、在日、及び、在沖縄米軍基地は、ほとん
 どすべてがアメリカ軍の兵站の目的のためにあり、戦略
 的な広い意味においてのみ日本防衛に務める。
  こうしたより大きい立場からの安全保障の思考は、日
 本自身の安全保障を直接的に損ねる、と我々は感じるか
 もしれないが、この見解は、多くの、多分ほとんどの日
 本人には共有されていない。
  日本人の多くは、アメリカ軍の存在は脅威とみなして
 おり、アメリカ軍の使用によって、日本自身が作り出し
 たわけではない紛争に日本を巻き込む恐れがあるとみて
 いる」。
  春名幹男氏著「仮面の日米同盟」(47頁〜48頁)
  https://www.youtube.com/watch?v=RUtjdMpJZdk
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive