(増補版)412E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年4月〜1885年5月)

題:(増補版)412E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年4月〜1885年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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(追記)1885年1月、北里柴三郎が、ドイツへ留学した。
  (〜1891年まで)
  ここで、水素ガスを用いてウシの嫌気性菌・気腫疽菌
 (きしゅそきん)の純培養に成功し、
  ついで、破傷風菌の純培養に成功、破傷風毒素・破傷
 風免疫の研究に進んだ。
  北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、1853年1月29日
 〜1931年6月13日)は、日本の医学者・細菌学者。
  従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。
(追記)1885年1月25日、北原白秋が福岡県に生まれた(〜
 1942年11月2日)詩人、童謡作家、歌人
  日本を代表する詩人。
  熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれ、まも
 なく福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)にある家に帰る。
  父・長太郎、母・シケ。
  北原家は、江戸時代以来栄えた商家で(油屋また古問
 屋と号し、海産物問屋であった)、
  当時は、主に、酒造を業としていた。
  1901年(明治34年)(16歳)、大火によって北原家の
 酒蔵が全焼し、以降、家産が傾き始めた。
  白秋自身は、依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲
 載していた。
  この年、初めて「白秋」の号を用い・・、
  1904年(明治37年)(19歳)、長詩『林下の黙想』が、
 『文庫』四月号に掲載された。
  感激した白秋は、父に無断で中学を退学し、早稲田大
 学英文科予科に入学した。
  上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるよ
 うになり・・、
  1906年明治39年)(21歳)、新詩社に参加し、与謝
 野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合
 った。
  『明星』で発表した詩は、上田敏蒲原有明、薄田泣
 菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友が、さらに広
 がった。
  1909年(明治42年)、『スバル』創刊に参加した。
  処女詩集『邪宗門』を上梓し・・、
  官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるが、年末に、
 実家が破産し、一時帰郷を余儀なくなった・・しかし・・、
  1910年(明治43年)、『屋上庭園』二号に掲載した白
 秋の詩『おかる勘平』が、風俗紊乱にあたるとされ、発
 禁処分を受けた(同誌は、年内に廃刊された)。
  1912年(明治45年 / 大正元年)、母と弟妹を東京に呼
 び寄せ・・、
  年末には、一人故郷に残っていた父も上京した。
  そして、白秋は、隣家にいた松下俊子と恋に落ちた。
  しかし、俊子は夫と別居中の人妻だった。
  2人は、夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置さ
 れた。
  1913年、春、俊子と結婚する。
  三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗・・・、
  白秋夫婦を残して、一家は東京に引き揚げる。
  『城ヶ島の雨』は、この頃の作品。
  1914年(大正3年)(29歳)、肺結核に罹患した俊子の
 ために、小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。
  父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。
  1916年(大正5年)(31歳)、詩人の江口章子と結婚。
  そして、東京・小岩町の紫烟草舎に転居した。
  筆勢・・いよいよ盛ん。
  1917年(大正6年)(32歳)、阿蘭陀書房を手放し、再
 び、弟・鉄雄と出版社アルスを創立した。
  この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病
 んだ。
  1918年(大正7年)(33歳)、小田原に転居。
  『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当する。
  優れた童謡作品を次々と発表・・
  この翌年・1919年あたりから、生活ようやく安定。
  1920年大正9年)(35歳)、『白秋詩集』刊行開始。
  伝肇寺境内の住宅の隣に、山荘を新築した際の祝宴は、
 小田原の芸者総出という派手なものだった。
  それに、白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発
 し、章子を非難する。
  着物のほとんどを質入れしたと言う章子は、非難され
 るいわれもなく、反発した。
  章子は、その晩・・行方をくらました。白秋は不貞を
 疑い章子と離婚。
  1921年(大正10年)(36歳)、佐藤菊子(国柱会会員)
 と結婚。
  信州滞在中、想を得て、『落葉松』を発表する。
  1922年(大正11年)(37歳)、長男・隆太郎が誕生。
  1925年(大正14年)(40歳)、長女・篁子が誕生。
  1937年(昭和12年)(52歳)、糖尿病、および、腎臓
 病の合併症のために、眼底出血を引き起こし、入院した。
  視力のほとんどが失われたが、さらに、歌作に没頭す
 る。
  1941年(昭和16年)(56歳)春、数十年ぶりに、生ま
 れた地の柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、
  さらに、宮崎、奈良を巡遊。
  また、この年、芸術院会員に就任するも、年末にかけ
 て病状が悪化する。
  1942年(昭和17年)(57歳)、小康を得て、病床に執
 筆や編集を続けるも、11月2日、阿佐ヶ谷の自宅で逝去し
 た。享年57歳。
(追記)1885年2月10日、ハワイ王国のホノルルに領事館を設
 置した。
  1868年6月20日には、153名の日本人が移民第1号として
 ホノルルに到着した。
  明治元年渡航なので、「元年者」と呼ばれた。
  別史料には以下の様に記す・・、
  1885年(明治18年)2月8日、最初の「官約移民」943名が
 渡った。
  この時、中村治郎初代日本国領事と、官吏2名が着任し
 た。
  ハワイ王国において、アメリカ合衆国に続いて、外交
 使節の第2号であった。
  翌々日の1885年(明治18年)2月10日に、「日本領事事務
 所」を開設し、旧ロイヤル・ハワイアン・ホテル内(ダ
 ウンタウンにあった)にオフィスを構えた。
(追記)1885年2月21日、品川硝子製造所を、稲葉正邦、西
 村勝三へ貸下げ、民営化を図った。
  近代ガラス工業の礎となった「品川硝子製造所」。
  スタートは、1873年明治6年)、品川興業社・硝子製
 造所の開設だった。
  太政大臣三条実美の家令だった村井三四之助は、三
 条実美の支援によって、イギリスから設備を輸入すると
 共に、トーマス・ウォルトンを招聘し、国内のガラス職
 人を採用した。
  しかし、ガラス器の製造は困難で、1876年(明治9年)、
 政府に買い上げを願い出た。
  工部省が買上げ、
  1879年には、イギリス人技術者のジェームス・スピー
 ドを雇い入れ、板ガラスの製造を目指した、しかし、製
 造はできなかった。
  因みに、板ガラスは、1920年(大正9年)に、日本板硝子
 が、コルバーン法を導入して、生産開始した。
  そして、コルバーン法は、溶解窯(ようかいがま)か
 ら板のままガラスを、一度、垂直に引き上げ、やわらか
 いうちに曲げ水平にして徐冷すると・・説明されている。
1884年4月、隅田川の一銭蒸気が始まった。
  一銭蒸気とは、東京の隅田(すみだ)川を定期航行して
 いた小型客船のことで、
  この時、隅田川汽船株式会社が営業を開始した。
  吾妻(あづま)橋〜永代(えいたい)橋間を7区間に分け、
 乗船料が1区間1銭だったための愛称で、
  料金改定後もこの名でよばれた。
  焼玉エンジンの音からポンポン蒸気ともいった。
  最盛期には、年間200万人近くを運んだが、
  1942年(昭和17年)燃料不足で姿を消した。
  錦絵があり・・、東京両国通運会社 川蒸気往復繁栄
 真景図 重清 東京都公文書館蔵 (36.6×24.7センチ)
 三枚構成で、
  右に建物が描かれ、両国橋付近に立つ東京両国通運会
 社で、会社の旗も翻っている。
  明治から大正にかけて東京の川には、約68の「渡し場」
 があった。
  明治政府が、1871年明治4年)より、橋梁・渡船の整
 備を奨励し、
  私設の橋や渡船に免税の措置を取ったため、盛んにな
 った。
  道路は、ほとんど変化せず江戸時代のままだった。
  また、武士の無賃も廃止された。
  渡し賃を取ることも認められ、1人あたり、一厘から
 五厘〜七厘ぐらいであった。
  江戸時代よりも明治の方が渡しは盛んになった。
  特に、下町の人口が増えるに従い、隅田川や大川に渡
 しが増えた。
1885年4月、横浜の衛生改善のため、上水道の建設が始まっ
 た。
  (因みに、下水道は1869年に始まっていて、1871年
 は完成していた)。
  上水道について、神奈川県知事は、英国人技師H.S.パ
 ーマーを顧問として、相模川の上流に水源を求め、
  1885年(明治18年)近代水道の建設に着手し、
  1887年(明治20年)9月に、完成した。
  この時を遡ること8年の1877年(明治10年)に、
 コレラが大流行(明治12年、15年、19年も同様)して、
 衛生的な近代水道の必要性が高まっていた。
  また、横浜の下水道について・・、
  1859年(安政6年)、横浜が開港されると、小漁村にす
 ぎなかった横浜の様相は一変した。
  波止場の建設、居留地整備をはじめとして、開港地と
 してのまちづくりがはじめられた。
  横浜は、外国の窓口としての性格から、当時の最先端
 とも言える様々な技術や文物がもたらされた。
  横浜の近代的な下水道の発祥も、外国人居留地の整備
 からはじまった。
  日本を含む世界で、コレラが流行していたため、居留
 地の外国人たちは、排水と下水道の整備を切望した。
  当時の横浜の主要道路には、掘割が布設され、下水道
 の役割を担っていたが、十分な機能を果たすものではな
 かった。
  1864年(元治元年)11月、幕府と各国領事との間で「
 横浜居留地覚書」が取り交わされていて、
  居留地の下水道整備も書かれていたが、実際に整備を
 進めたのは、明治になったからの御雇い外国人のイギリ
 ス人ブライトンの指導の下で進められた。
  居留地の下水道整備計画は、1869年(明治2年)に着手
 され、1871年明治4年)に完成した。
  この下水道は、瓦製陶管による下水管を埋設するもの
 だった。
1885年5月2日、最初の文芸同人誌となる「我楽多文庫」が
 硯友社から創刊された。
  わが国最初の純文芸雑誌『我楽多文庫』、尾崎紅葉
 山田美妙らにより創刊さる。
1885年5月5日、札幌、函館、根室3県に於いて、徴兵令施
 行までの間、屯田兵を置いておく屯田兵条例が制定され
 た。
  それまでの屯田兵例則(とんでんへいれいそく、明治7
 年10月30日太政官達)は、屯田兵の根拠となる太政官達は、
 廃止された。
  「屯田兵は、徒歩憲兵に編制し、有事に際して速かに
 戦列兵に転ずるを要す」この条文に憲兵とあるように、
 屯田兵は、平時に警備などの警察的任務を担うこともあ
 った。
  しかし、本務は、農業による自活(政府にとっては経
 費節減)と、戦時の兵備にあった。
  屯田兵条令:
  第一条:屯田兵屯田歩兵屯田騎兵屯田砲兵屯田工兵
     ヲ以テ編成シ北海道枢要ノ地ニ配置シテ其警備
     ニ充ツ
  第二条:屯田兵ハ兵農相兼ヌルノ制トス、平素ハ給与
     ノ兵屋ニ居住シ軍事上ノ訓練及開墾耕稼ニ従事
     セシム
  第三条:屯田兵ハ府県ヨリ志願者ヲ召集シ本籍ヲ北海
     道ニ移シ家族ト共ニ移住セシム
  第四条:屯田兵ノ服務期限ハ二十ヶ年ニシテ現役八ヶ
     年後備十二ヶ年トス、後備役服務中ハ戦時若ク
     ハ事變ニ際シ召集ス、平時ニ在テハ勤務演習ノ
     為メ召集シ及簡閲點呼ヲ為ス服役期限中満四十
     歳ニ至リ又ハ死亡若クハ事故ニヨリ免役シタル
     トキハ其家族中適当ノ男子ヲシテ兵役ノ残期ヲ
     相続セシム、若シ適当ノ男子ナキトキハ兵役ヲ
     免ス、屯田兵ニシテ召集ノ条件ニ違背シ其他正
     当ノ理由ナクシテ兵役ノ義務ヲ履行セザル者ハ
     兵役ヲ免ズ(以下略)
1885年5月7日、電信条例が改正され、電信取扱規則が制定
 された。
  和文モールス符号改正。
  1885年6月23日、電信条例電信取扱規則局内心得書制定
 の記述もある。
1885年5月7日、千葉重太郎、死去
  江戸時代末期の剣客、鳥取藩士
  北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の長男。
  幼少より父・定吉から北辰一刀流剣術を学び、
  1853年(嘉永6年)に、父が鳥取藩の剣術師範に就任し
 たため道場を任された。
  剣士としての力量については説が定まらないが、本家
 筋にあたる玄武館道場が千葉道三郎の代になって衰退し
 た一方で、
  重太郎が、道場を任された後も桶町道場の人気は衰え
 ず、幕末期は師範の実力が道場の盛衰に直結する時代で
 あったと推測され、この観点からも重太郎の実力の程が
 分る。
1885年5月8日、九州改進党が解党した(5月10日説あり)
  九州改進党(きゅうしゅうかいしんとう)は、
  明治時代前期に、九州地方の民権派が合同して作った
 地方政党で、
  政治的には改進党ではなく、自由党系である。
  中央の自由党と連携しつつ、九州地方を舞台に独自の
 民権運動進めてきたものの、
  政府の弾圧や自由党解党の影響を受けて3年余りで解散
 した。
1885年5月9日、日本銀行が、初めて兌換銀行券を発行した。
  日本銀行から、兌換銀行券の発行が始まる。
  翌年より銀本位制に → 銀本位制度確立へ
  この銀行券は、銀貨兌換券であるから、券表面に、「
 此券引かへに銀貨拾圓相渡可申候也」と記されている。
  日本で最も古い紙幣は、安土桃山時代末期、1600年頃
 に、伊勢山田地方(現在の三重県伊勢市)で流通し始め
 た「山田羽書」であると言われている。
  「山田羽書」は、伊勢神宮の神官であった山田御師
 祈祷奉賽を行う神官で商人も兼ねていた)によって秤量
 ( 銀貨の釣り銭の代わりに発行された、端数銀貨の預か
 り証・端書)だった。
  当時、銀貨は額面を持たず、重さを量って使う秤量貨
 幣だったので、
  端数を調整するために切遣い(必要な目方だけ切って
 使用)する習慣があった。
  しかし、元和年間(1615年〜1624年)に、幕府が、銀
 貨の切遣いを禁止したため、羽書は、端数処理の簡便化
 に役立った。
  後に、一定の額面を持つようになり、伊勢神宮信仰に
 も支えられた山田羽書は、人々の非常に高い信用を得て、
 単なる預かり証から次第に人々の間で流通する紙幣とし
 ての役割を果たすようになった。
  また、「山田羽書」の影響を受けて、周辺地域でも有
 力商人による羽書の発行が見られるようになり、
  これらの私札は、後の藩札の元になったと言われる。
  わが国で最初に発行された日本銀行券は、1885年5月9
 日に発行された「旧十円券」で、
  この銀行券は、銀貨兌換券で、券表面には「此券引か
 へに銀貨拾圓相渡可申候也」と記されていた。
1885年5月15日、イギリス海軍が、朝鮮の巨文島を占領した。
1885年5月16日、外交暗号
  外務卿の井上馨は、暗号の重要性を痛感し、
  1883年に、外務省内に電信符号編纂掛を設け、権少書
 記官・栗野慎一郎を責任者に指名して研究させた。
  1885年5月16日、この日に起草の井上外務卿から在外各
 公使領事宛の通達(電信課長・佐藤愛麿の印あり)では、
  暗号で伝えられた内容を、任地の政府などに知らせる
 ような場合には、適宜パラフレーズすることによって暗
 号についての手がかりを与えにくくすることを指示する
 とともに、
  目下、使用中の暗号電信簿に代わる符号を編纂中であ
 ると伝えた。
  そして、この年・1885年3月には、「暗号電信符号取調
 費」の裁可も得ている。
  英文用の5桁数字コードが、1904年に制定した仮名符
 号の使用心得書によれば、
  1885年に、英文用のコード(明治18年符号)が制定さ
 れていた(当時、外交官が電文を英語で書くのは普通の
 ことだった)。
  これは次のように、英語の語句に5桁数字を割り当てる
 ものだった。
  平文の配列は、アルファベット順で、その後に数字に
 対する符号を集めたセクションがある。
  15768 and  15314 are  22534 by
  24443 characterized  52115 Japanese Gov't
  57941 moderation  66719 The proposals of
  68448 reasonableness  93657 8
  「使用心得書」によればp.863に数字のセクションがあ
 るということなので、00001から99999までのコードをほ
 ぼフルに使った大部のコードブックであった。
  ABCコードなど当時の欧米の主だった商用暗号をも上回
 る規模だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:哲学者が言う・・ツキジデスの罠
    覇権を持った国が、新興する国を排除する。
.
1941年12月8日、ルーズベルトは、第二次世界大戦を以下の
 様に言った。
  『植民地の争奪が、今回の戦争の実相だ』・・と、
  つまり、「アメリカも植民地が欲しかったのだ」・・
 と、白状したようなもの・・、
  「植民地が欲しくて、アメリカも戦争したのだ」と白
 状したようなもの・・
  日本は、江戸時代の遠い昔から・・、
  米欧列強の『力を誇示したやり方』に苦しめられて来
 た。
  その列強の横暴に、『多大な賠償金を支払わされたり』
 して・・、
  弱小国家の悲哀(ひあい、悲しくあわれ)を味わわさ
 れて来た。
  また、日本は、インドや中国などにおける、列強各国
 の非人道的な酷(むご)いむしりを見て来た・・
  どぎついやり方などを見て来ており・・、
  明治新政府は、その様な事態からの脱却を目指し、
 「富国強兵索を目指す」ことを国是として来た。
  即時に、豊かな国と・・強い国を作りたいと・・、
  そして、このような様々な歴史の流れの中に、欧米列
 強の『傲慢さ』があった。
  第二次世界大戦の遠因の一つとして言われるのが・・、
  力を付けて来た日本が、第一次世界大戦の時、戦勝国
 としてパリ講和会議に出席し・・、
  ここで日本は、「人種平等であるべきだ」と主張した。、
  第一の・・主要な・・重要な・・日本の主張のポイント
 だった。
  『人種は・・平等で・・あるべきだ』
  日本の主張の第一重要ポイントとして主張した。
  今・現代では、当然すぎるほど当然な『正論』である
 が・・、
  有色人種の・・新興の国が・・なんだと・・見られて
 いた・・残念ながら・・、
  当時は、まだまだ、欧米列強のキリスト教の教義に洗
 脳され、マインド・コントロールされた『有色人種蔑視
 感は強く』・・、
  アメリカ本土では、黒人の方々が酷い人種差別を受け
 ていた・・(今でもそうだが・・?)
  アメリカが主導する会議の列強各国は、黄白の差別感
 は依然と強く・・残存し・・、
  有色人種の日本の主張は、微塵も理解されなく・・打
 ち砕かれてしまった。
  アメリカのカルフォルニア州では、日本人の移民を拒
 否し・・、新聞にあおられた人々は、黄色い日本人を合
 唱していた・・、
  この様なアメリカの行為は、日本中を大憤慨させてい
 た。
  日本は、また、青島(中国のチンタオ、1922年に返還)
 は還付を、『強引』に迫られ、
  1924年には、「排日移民法」が作られ、決定とされた。
  これらは、完全に哲学者が言う「ツキジデスの罠」で
 あった。
  『覇権国が・・新興国を・・排除する』・・古来から
 あった歴史の事実だった・・
  「覇権を持った国(アメリカやヨーロッパ列強各国)
 が、新興する国(日本)を排除する」という状況だった。
  これは、何度も歴史に現れる・・古来からの・・数々
 の・・繰り返されて来た事だった。
  ある意味・・人類の愚かさが繰り返されて来た・・、
  動物的性向がなされて来た・・、
  覇権を持ったアメリカは、新興して来た日本を排除し
 たかった。
  そして・・排除した・・。
  アメリカが筆頭になって、グルとなって排除した・・、
  アメリカは、新興する日本へのパワーシフト、「中心
 勢力の移動」を快く思っていなかった。
  日本を、ことあるごとに潰そうとした。
  潰そうとして来た。
  これは、日本がロシアに戦勝したとき、日露戦争の日
 本戦勝後に・・、
  『手のひらを返したように』・・、
  ・・アメリカの態度は・・変わった。
  この「ツキジデスの罠」現象は、深刻な現象で・・、
  歴史において、そのほとんどが『戦争に至る』という
 深刻な対立だった。
  今、南シナ海において、中国の力の誇示による強行策
 が取られ、
  この中国と、アメリカをはじめとする諸国の対立が、
 この度の仲裁裁判によって、完全に中国の主張が退けら
 れ、
  また、その決定を受け入れないと、否定する中国との
 間で、「ツキジデスの罠」状態になって・・行っている。
  かつての日本が、第一次大戦後の日本が、人種差別の
 撤廃を主張し、
  米欧列強の植民地政策に対抗した新しく起きた新興国
 として存在していた。
  アメリカは、これまで、西部のインディアンの方々の
 地を奪い、メキシコの地を奪い、太平洋の諸国の島々を
 奪い、フィリピンを植民とし・・、
  そして、中国の地に至り・・日本とぶつかった。
  そこに、黄白の差別感払拭の日本の意見は、通らなか
 った。
  これが、第二次世界大戦の遠因の一つとなった。
  だから、アメリカ大統領のルーズベルトが・・、
  この大統領が言うとおりの、貴方の国・アメリカを含
 む米欧列強諸国の植民地政策に起因した戦争だったので
 す。
  有色人種の地を植民地とする欧米列強と・・、
  その有色人種蔑視の黄白差別を無くせと、有色人種の
 地を植民地とする事を否定する・・主張する新興国・日本
 との対立の実相だったのです。
  そして、まだ、アメリカは、南米などを、アメリカの
 準植民地の様に考えていたというアメリカだった。
  その様な帝国主義そのもののアメリカだった・・、
  植民地にあぐらをかく帝国主義国家だった。
  その覇権を・・その一部であっても・・崩されたくな
 かった・・であった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive