(増補版)621E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月〜1895年3月)

題:*(増補版)621E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月〜1895年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年2月23日、全国の官設鉄道の線路名称を統一した。
  創業以来はじめて東海道線信越線・奥羽線北陸線
 の線路名称を定めた(鉄第366号、28年度から施行)
.
1895年2月24日、キューバ革命
  民衆が、ハバナで蜂起した。
  アメリカ・スペイン戦争・・スペイン領キューバの独
 立戦争に、1898年、アメリカ合衆国が介入した。
  そして、スペインを破って、スペインの植民地を奪っ
 た。
  アメリカの「帝国主義戦争」だった。
  1895年2月、キューバでホセ・マルティ指導の第二
独立戦争が始まった。
  革命軍は、島の東半分を解放した。
  1897年秋には、革命政府を樹立した。
  スペインは、大軍を派遣し、残虐な鎮圧作戦を行なっ
 た。
  長い間つづいた戦いのため、島は荒廃した。
  一方・・、
  同じくスペイン領のフィリピンでも、独立の機運が高
 まっていた・・
  しかし、『民族自決の原則』は何のその・・アメリ
 とスペインの帝国主義の乱暴行為が、ここでも始まった。
  1896年8月、独立革命が勃発(ぼっぱつ)した。
   その後、一時は挫折(ざせつ)したものの・・
  1898年に入って、また、再燃した。
  アメリカは、キューバに約5000万ドルの投資と、年
 間1億ドルを超える貿易の利益を持っていた・・
  また、ラテンアメリカ市場と、中米の地峡運河地域へ
 のルートの要所を押さえるのに好適な『カリブ海の要衝』
 として、キューバへの『戦略的関心』をアメリカは抱い
 ていた。
  キューバの動乱は、このアメリカの利益を脅(おびや)
 かした。
  アメリカ政府のマッキンリー大統領は、革命軍を承認
 しなかった・・そして・・利益確保のため、武力行使・・
  1898年初めに、アメリカの一方的介入だった・・武力
   行使行動が始まった・・
  1898年2月、デローメ事件と、メイン号爆沈事件が起
   きた・・うさん臭い動きだった。
  これらの事を利用した「イエロー新聞」の扇動によっ
 てアメリカ世論は激高させられた・・そして・・
  アメリカ経済界の主流が・・戦争支持への転換などが
 あり・・政府も同意を固めさせ・・政府はこの様な世論
 に動かされた・・
  (この様なイエロー新聞などの動きには、日本も被害
 を受けている・・このイエロー新聞に、南京事件がでっ
 ち上げられて、日本も濡れ衣を着せられた・・起きても
 居ない南京事件が「あったとされた」)
  こうして段取りを整えられた状況の中で・・
  1898年4月11日、アメリカのマッキンリー大統領は、
   議会に開戦教書を送った。
   開戦の大義名分が整ったとした。
   これは、キューバ共和国を支援するためではなく・・
   この様な美名のものではなく・・『アメリカ自身の
  利益』を守るために干渉する意図が明らかにされてい
  た・・本音が現れていた。
  議会での激論のすえ、平和回復後、キューバを独立さ
 せるという「自分を納得させる」条件付きで戦争介入が
 承認された。
  1898年4月25日、アメリカが正式に宣戦布告した。
   最初の戦闘は、フィリピン戦線でのアメリカのデュ
   ーイ提督麾下(きか)のアジア艦隊によるマニラ湾急
   襲と、スペイン艦隊撃破であった(1898年5月1日)。
  (参考)ジョージ・デューイ (1837年12月26日〜
1917年1月16日) 、アメリカ海軍の軍人。
      この米西戦争のマニラ湾海戦で英雄となり、
     アメリカ海軍史上でただ一人、海軍大元帥(海
     軍主席提督)の地位を与えられている。
  デューイは、その後、フィリピン人の独立闘志アギナ
 ルドのフィリピン革命軍を『利用して』マニラを包囲し
 た。
  そして、この後に到着したアメリカ地上軍が、1898
 年8月13日、マニラを侵略した。
  しかし、フィリピンの独立軍であるアギナルド軍は、
 可哀想に『利用されただけだった』。
  アギナルド軍は、、マニラから排除され、マロロスへ
 退去させられた。
  一方、カリブ海戦線では、キューバサンティアゴ
 略が主目標とされた・・
  1898年6月末、アメリカ陸軍1万6000が、キュー
バ革命軍を援助するという『名目』のもとに上陸した。
  また、アメリカ海軍も、サンティアゴ港脱出を図った
 スペイン艦隊を撃破した。
  最後に、アメリカ軍と革命軍は、サンティアゴを攻撃
 し・・、
  1898年7月16日、陥落させた・・が・・、
  革命軍は、降伏条約の調印参加を拒否された・・
  ここでも、『革命軍は利用されただけだった』。
  こうして戦闘は4か月で終わった。
  1898年8月12日、休戦協定がなり・・舞台はパリ
講和会議へ移った。
  フィリピンとキューバの代表を『ここでも排除した』・・、
  1898年12月10日、アメリカとスペインだけの間で
結ばれた講和条約は、スペインがキューバを放棄し、フ
ィリピン、グアム、プエルト・リコアメリカに割譲し、
アメリカはスペインに2000万ドル支払うことを約した。
  主役に居ない『演技となった』・・
  このアメリカ・スペインの勝手な舞台劇の末に、アメ
 リカは、戦争中に併合したハワイをも含めて『一大植民
 地帝国』を実現した。
  アメリカは、この様にして世界強国としての帝国主義
 の道に乗り出した。
  しかし、キューバとフィリピンの『本来の所有者であ
 る革命軍』は、アメリカ軍政下で押しつぶされた。
  そして、その国々は、アメリカの保護国と植民地とに
 されてしまった。
.
1895年2月26日、「私設鉄道株式会社ニ関スル件」(法
律第4号)を公布した。
  第一条:私設鉄道株式会社ハ各株式二付十分ノ一以上
   ノ払込ヲ為レタルトキハ其ノ登記ヲ受クルコトヲ得
.
1895年3月1日、京浜および京阪神区間の定期運賃を改
正した。
  学生下等定期乗車券を発売、定期乗車券購求者心得を
 制定、定期乗車券発行規約改正
.
1895年3月4日、流星雨が出現し、愛媛県に隕石が落下
した。
  重さ約71kg。
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1895年3月6日、鉄道敷設法改正、
  北陸線舞鶴から小浜を経て敦賀に至る鉄道追加(法律
 第11号)
  羽越線および岩越線として新発田から米沢に至る鉄道
 および新津から若松を経て白河本宮付近に至る鉄道追加
 (法律第12号)
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1895年3月15日、平安遷都1100年紀念祭
  平安神宮創建鎮座式が行われた。
  有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王(たるひとしんの
 う・・後に、小松宮(こまつのみや)彰仁親王(あきひ
 としんのう)と交替)を総裁にむかえて行われた。
  会長に近衛篤麿、副会長に佐野常民が就任した。
  平安遷都千百年紀念祭協賛会を設立し、国務大臣も関
 与する国家的な行事となった。
  平安宮朝堂院正殿の大極殿(だいごくでん)を模した神
 殿などが岡崎(現:左京区)の地に造営された。
  桓武天皇を奉祀する平安神宮が1895年3月に完成し
た。
  官幣大社に列せられた。
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  (今日の言葉)
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  題:そして、その国々は、アメリカの保護国と植民地とに
   されてしまった。 
    そして、アイヌを先住民としたいキリスト教の勢力は・・、
   「古来から、アイヌは、北海道に住んで居た」としたい
   のであるが・・しかし、それは嘘で、プロパガンダである。
.
紀元前15万年、日本は大陸とつながっていた。
  この頃のリス氷期末期、日本は樺太ともつながり、ま
 た、朝鮮半島や中国とも繋(つな)がっていた。
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紀元前15万年〜紀元前7万年、対馬海峡ができる。
  対馬朝鮮半島の間の対馬海峡ができた。
.
紀元前4万年、アフリカを発したホモ・サピエンスが、日
 本列島に到達した。
  この中にアイヌが居る訳はない・・
  アイヌを日本列島の先住民にしたいキリスト教勢力は、
 この中にアイヌが居たことを証明しなさい!
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるの
 は4万年前〜3.5万年前と考えられていて・・
  紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、
約3万5000年前に始まり、縄文時代へと移行する
約1万5000年前までの約2万年間という長い長い
期間、続いていた。
    この長い期間の間、日本に到達したホモ・サピエ
   ンスは日本列島中を移動し、交雑し、結婚した。
  紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初
   期現代型新人の特徴に一致する。
   歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万
   年以上前の土層(地層)から、日本国内最古の調理
   場跡が発見されている。
  紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
   日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
  紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在よ
   り120メートルも低下していた。
   本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続
   きで、また、ロシアと北海道も陸続きで・・、
    縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸
   から歩いて日本にやって来た。
  紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メー
   トル以上も低下していた。
  紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
   日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
   大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」
  紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
   中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土
   器
   また、日本の『大平山元I遺跡』の縄文土器(約1
   万6500年前)や・・
   太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町):日本最古とされ
   る約1万6500年前の土器が出土した集落遺跡
   愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射
   性炭素年代測定により14,500年前と測定された。
   人骨が発掘された。
.
紀元前1万年対馬と九州との間の対馬海峡ができた。
.
紀元前3200年、縄文人は日本中くまなく居て、当然、北
 海道にも住み、その縄文遺跡の一つ・大船遺跡は・・
  遠いアフリカから、はるばる日本に人類が来たように、
 古くて、そして、長い年月をもつ縄文人時代の歴史にお
 いて、縄文人は日本中を移動していた。
  北海道の中にも、当然、その縄文人の遺跡があり・・
 その一つが、この大船遺跡で・・
  アイヌを先住民としたいキリスト教の勢力は・・、
 「古来から、アイヌは、北海道に住んで居た」としたい
 のであるが・・しかし、それは嘘で、プロパガンダであ
 る。
  大船遺跡は、太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄
 文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年〜紀元前
2,000年頃)の大規模な集落遺跡。
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な
 盛土遺構があり、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓
 群が確認される。
  北海道・北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道・北東北に位置し、
  縄文時代の各時期(草創期、早期、前期、中期、後期、
 晩期)における、人々の生活跡の実態を示す遺跡となって
 いる。
  (集落跡、貝塚、低湿地遺跡)や、祭祀や精神的活動の
 実態を示す記念物(環状列石、周堤墓)で構成された17遺
 跡からなる考古学的遺跡群となっている。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くある。
  また、周囲のガイダンス施設や資料館では、発掘調査
 の状況や、縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺
 物が数多く展示されている。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
  9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
     ・
      ・
      ・
1877年、インドで飢饉が起き、500万人が死んだ。
  この原因は、イギリスが、インドの方々へ食料を作ら
 せなかったからだった(イギリスが儲かる綿花を作らせ
 た)
  ヨーロッパの列強諸国は、アジアの都市・沿岸地方に
 おける貿易で利潤を得るのが目的であった・・
  18世紀後半の産業革命を迎えると、原料の供給地と製
 品の市場として広範囲な植民地を直接支配する。
  土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、
 白人の資本の投下によるプランティションで行われたが、
 それはタダに近い土地で、低廉な労働力を使い、莫大な
 収益をあげた。
  マレーのゴム、インドの綿花というように・・、
 特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を植民地
 へ輸入させるという経済構造に変質したため、従来の自
 給型農業が壊滅し、決定的な変化を被った。
  その結果、水田の減少や、失業者の増加により、飢饉
 に際して、多くの犠牲者を出すようになった。
  ジャワでは、なんと人口33万の町が12万に減少した。
  インドでは、イギリスの支配の後に、明らかに飢饉が
 増加し・・
  1877年の南インドの飢饉では500万人が死亡した。
  1943年での犠牲者は、ベンガル地方だけで340万に
も達した。・・イギリスの罪悪は極悪だった・・
  また、大規模農業の急速な開発によって、大量の労働
 者を必要とした列強の宗主国は、大量の移民政策をとっ
  た。
  インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が・・1860
 年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加した。
  マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者
 にインド・タミール人が大量に移入させられた。
  これらの移入させられたアジア人は、現地社会と融合
 せず、固有の習慣や宗教を保持したため、複合社会がで
 きあがってしまった。
  また、植民統治では、この移入させたアジア人を金融
 と流通機構に登用したため、上部に白人支配層が、次に
 華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い
 現地民が最下層の地位におかれるという階層社会が造ら
 れた。
  この大量の移民政策の結果、例えば、マレーシアでは、
 マレー人52%、華僑39%、インド人12%という複合
民族国家となってしまった・・複合社会が形成された・・、
  戦後も、深刻な民族対立の原因となった。
  ヨーロッパ列強諸国は、植民地支配への反乱について
 は、きびしい虐殺と弾圧でのぞんだ・・救いを待つアジ
 アの方々だった。
  イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱の様に、
 徹底的な弾圧を加えるという対応をした。
  当時のイギリスの『タイムズ』紙は報じた・・
  「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院
 をたたきこわせ」。
  「白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴
 徒を死刑にせよ」・・と報じ、報復を訴えた。
  事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃殺撃
 や焼き殺しなど、珂責ない虐殺や弾圧を行った。
  フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始
 まった。
  1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人の
ベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多
くの囚人が殺され、死亡した。
  1945年に、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣
 言には、その怒りが込められている。
  「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国
 者を殺害し、蜂起の民を血の川に溺れさせた・・」
  アメリカとて例外ではなかった。
  米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕
 掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を強制的に制
 圧した。
  また、1906年アメリカ式の土地制度などに反発し
 たイスラム系住民の反乱の時は、アメリカ軍は住民らの
 砦を包囲して、戦闘員から女子供をも含めて600人全員
 を皆殺しにしてしまった。
  列強のアジア支配の例として、オランダの350年間に
 わたるインドネシアの卑劣な支配の特徴を、ASEAN
 センターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。
  ①オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民
   を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使っ
   て間接統治した。
    徹底した愚民政策を強(し)いた。
  ②才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人
   を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官
   や軍人として登用した。
    そして、女性を性奴隷的にして、オランダ人とイ
   ンドネシア人の混血児を作り、中間階級として使っ
   た、また、民族の分断を画策した。
  ③社会の流通経済を華僑にやらせ、経済搾取によるイ
   ンドネシア国民の憤慨と憎悪を華僑に集まるよう仕
   向けた。
  ④インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行
   動を禁止した。
    3人のインドネシア人が立ち話することすら許さ
   ず、禁を犯せば反乱罪で処罰した。
  ⑤インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域
   で用いられていた320の種族語をそのままにして、
   一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。
.
1898年、この年の頃から、アメリカは、日本を警戒し始め
 た。
  日露戦争の時までは、アメリカは、日本寄りにいた・・
  日露戦争終結は、アメリカによってできた。
  いつからアメリカは、「日本潰しのアメリカ」になっ
 たのか?
  櫻井よしこ氏は、「日清戦争日露戦争の中間で、
 1898年の米西戦争の後だ」と言われる。
  「アメリカのその様な気持ちが、日露戦争の日本勝利
 で、一層強まった」と言われる。
  ルーズベルト大統領は、ロシアを破った日本を小さい
 ながら注意しなければならない国だと思いはじめた。
.
1900年、アメリカはハワイを得たいと、それまで行われて
 来ていた日本人移民に難癖をつけた。
  日本人移民は、アメリカのハワイ属領制実施の1900
 年から著しく増加した。
  日本政府は、差別的法律が制定されるのを防ぐため、
 1907年、1908年、日米紳士協約を結び、自主的に移
民を制限した。
  しかし、アメリカ人移民によるハワイのアメリカ化は
 酷い状況にあった。
  その様な状況で、日本人移民の移民問題は解決されな
 かった。
  日米通商航海条約の、旧条約の終了と同時に有効とな
 る新条約を結び、留保条項を削除し、関税自主権を完全
 に回復した。
  日本政府は、同時に紳士協約の維持宣言をアメリカ政
 府に伝えたが、アメリカは、1924年、排日移民法によ
 り紳士協約を一方的に廃棄した。
  1939年7月26日、アメリカは、自国の行為は沈黙
して、日本の中国での行動だけに抗議し、条約の廃棄を
通告した。
  野村吉三郎(きちさぶろう)外相は、グルー駐日大使と
 暫定協定締結を試みた。
  しかし、成功せず、1940年1月26日失効した。
.
1919年、この年に、K・ハラ―が、ミュンヘンで結成した
 ドイツ労働党を、ヒトラーが、民族主義社会主義を巧
 みに接合させて・・、
  1920年に、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名
   した。
  1921年ヒトラーが党首となり・・
   1923年、ミュンヘン一揆を企てて投獄され、党は解
   散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党として
   再出発した。
  1925年の党員数はわずか2万7000人に過ぎなかっ
たが、
   その後、群小右翼団体を吸収して・・膨張した。
  1929年には、党員数が17万6000人、
  1930年9月、ヒトラーは力を付けて来て、総選挙で
18.3%を獲得し・・第2党となる。
  1931年には、党員数が80万6000人
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て、第1党に躍
進した。
   軍部や財界と取引を行ない・・膨張する。
  1933年には、党員数が390万人とふくれあがり・・
  1933年1月、政権を獲得した・・卑劣な行為をして
行く・・そして・・
  「ヒトラーのモデルはアメリカだった」という書評が、
 読売新聞(2018年12月9日)に掲載された。
  本の著者は、ジェイムズ・Q・ウィットマン、
  書評の著者は、藤原辰史氏(京都大学准教授、農業史
 研究者)
  以下は・・その抜書き・・
  ナチスがヨーロッパ各地で振るった壮絶な暴力は、遠
 い国の遠い過去の事で、自分には関係ない、と思いがち
 だ。
  そもそも子供たちの前で親を殺したり、子供を拷問に
 かけたり、収容所に送ったり、ガスで殺したり、沼に投
 げ捨てたりというようなナチスの残虐は確かに普段の暮
 らしからは想像しがたい領域にある。
  本書は、こうしたナチスの暴力の根拠となった人種主
 義のアイディアの最大の源泉がアメリカであると主張す
 る。
  私たちがいまなお政治、経済、軍事的に強く依存し、
 その文化を存分に味わっている、好感度の高い国である。
  ヒトラーは、「数百万人ものインディアンを銃で撃ち
 殺して数十万人まで減らした」としてアメリカへの讃美
 を惜しまなかった。
  ナチスは、人種法を制定するにあたって、アメリカの
 移民法や異人種間の結婚に重罰を与える法律、黒人の選
 挙権、移動の自由、職業の選択を制限する制度を学び、
 それを人種法構築に応用したのだった。
  ナチスの著述家たちは、アメリカを「移民立法を通じ
 てその血を蘇(よみがえ)らせようとしている」と褒(
 ほ)めたり、
  「自身の至上性を維持」しそれを未来永劫(えいごう)
 確保するために「外国人種分子の流入を防ぐ」ことに共
 感を示したりする。
  アメリカ白人至上主義が無ければ、ナチスはこれほど
 までにエスカレートしなかったかもしれない・・云々・・
.
1931年、強い対日経済制裁を唱えた対日強硬論者のアメリ
 カのスタンレー・ホーンベックが大きな影響を与えた。
  彼は、日本の真珠湾攻撃直前にあっても、「日本には
 アメリカを攻撃する能力はない」という主張を繰り返し
 た。
  そして、また、彼は、極東問題の専門家として、ルー
 ズベルト大統領に助言したほか、、コーデル・ハル国務
 長官に対しても大きな影響を与えた。
.
1937年8月13日、第二次上海事変が始まる。
  この日の前日・1837年8月12日未明、アメリカに
大規模に支援された中国正規軍本隊が上海まで前進した。
  中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師な
どの約3万人が、国際共同租界の日本人区域を包囲した。
  この様な奇襲を受けるとは予想してなかった日本軍は、
 上海陸戦隊が2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦
 隊が300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊が1200、
出雲の陸戦隊が200、他320の計4000人あまりであっ
た。
  昭和天皇陛下は、常に話し合いを重視され、妥協を促
 される方だった。
  そして、「平和論も出しなさい」と言われる方だった。
  この第二次上海事変の時も、この様に行動なされた。
  第一次上海事変でも、日本軍は過激な行動に至らぬよ
 うにと、事前に、軍に言われて居られた。
  実際、日本軍は自制していて、白川義則大将は、上海
 派遣軍を率いて十九露軍(中国・国民党軍)を撃退した
 が、深追いはしなかった。
  そして、停戦に至っていた。
  これも、昭和天皇陛下のお言葉に依る行動自制だった
 ことは明らかで・・これは、国際連盟でも評価された。
  しかし、この様な停戦の中、膨大な「金と武器」の支
 援が、アメリカによって中国・国民党へなされて・・支
 援されて・・
  そして、この支援に支えられた中国・国民党軍は、膨
 大な日本包囲網を構築して、攻撃を仕掛けた・・、西安
 事件(1936年12月)後の活動など・・暗躍した。
  そして、この度、大々的な攻勢を日本に仕掛けたが・・
 あたかも、完全に、アメリカの代理戦争の様相だった。
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1942年3月3日、日本海軍が、生死の危うい危険水域で
決死のイギリス兵救助を行なう。
  https://www.youtube.com/watch?v=waT94w434vM
  2018/02/05 に公開
  「正論」2008年10月号掲載 ジャーナリスト・恵
隆之介氏の論文:「敵兵を救助せよ」のそれから/わが
武士道精神の光輝と英国人元兵士の報恩の物語。
  日英両国に咲いた高貴な友情を語る・・から引用
  私は、2003年(平成15年)6月13日、朝7時30
分のNHKラジオ、ロンドン発ワールド・リポートを聞
いて驚嘆した。
  それまで昭和の全ての軍人を批判的に論じた司馬史観
 に傾倒していた私は強い衝撃を受けた。
  このレポートは次の内容であった・・
  大東亜戦争中、ジャワ海の制海権争奪に敗れた米英豪
 連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域
 からの脱出をはかった。
  1942年(昭和17年)3月2日午後2時頃、2隻の
イギリス海軍艦艇は、インド洋への脱出を試みてジャワ
海北西海域において日本艦隊に捕捉され相次いで撃沈さ
れた。
  両艦の乗員合計約450人は、脱出し漂流を開始するが、
 約20時間近く経過した翌1942年3月3日、午前10
時頃には、生存の限界に達していた。
  赤道下の強烈な太陽光、欠乏する水分、サメ襲来の恐
 怖で、現代の日本人では理解できないほど極限状態に達
 していた。
  一部将兵は、自決のため劇薬を飲もうとしていたまさ
 にその時、単艦で哨戒行動中の日本海駆逐艦「雷」(
 艦長・工藤俊作中佐)に偶然発見された。
  サー・フォールは、いよいよ機銃掃射を受けて最期を
 迎えると覚悟したところ、「雷」は救難活動中の国際信
 号旗を掲げて直ちに救助活動に入ったのだった。
  甲板に引き揚げられたイギリス海軍将兵を感激させた
 のは、汚物と沈没艦艇の重油で真っ黒になったイギリス
 海軍将兵を、小柄な日本海軍「雷」の乗員達が嫌悪する
 ことなく、両脇から真水とガソリンで一人一人を丁寧に
 洗浄する光景であった。
  220名乗務の駆逐艦が、敵将兵450人を救助した。
  通常なら反乱を恐れてここまでは救助しない、しかも
 この海面は敵潜水艦の攻撃・跳梁が激しかった。
  まさに、決死の敵兵救出劇だった。
  さらに、「雷」は、潮流に流され四散しているイギリ
 ス海軍将兵を一日中・・終日をかけて救助した。
  たとえ1人でも発見すると「雷」は必ず艦を停止し、
 総員で救助した。
  中には艦から投下された縄ばしごに自力で上がれない
 将兵もいたため、日本海軍「雷」の乗員が飛び込んで救
 助する光景もあった。
  「雷」乗員は、敵将兵に供与する艦載の被服が底をつ
 くと、自らの分まで進んで提供した。
  サー・フォールは、この光景に「自分は夢を見ている
 のではないか」と何度も腕をつねったと言う。
  それだけではない、救助活動が終了した頃、日本海
 「雷」の艦長は、イギリス海軍士官だけを前甲板に集め
 た。
  そして、こう英語でスピーチした・・
  「自分は、イギリス王立海軍を尊敬している。
  今回、貴官らは勇敢に戦った。
  貴官たちは、今日は日本海軍のゲストである」
  そして、彼らに、士官室の使用を許し、友軍以上の処
 遇をした。
  ラジオのNHKのリポーターは、興奮を抑えながらも、
 なぜこのような美談が、戦後の日本に伝わらなかったの
 か不思議でならないと発言して中継を終えた。
  さらに、彼は、サー・フォールが、「これこそ日本武
 士道の実践」と発言したことをも付言した。
  この様な行為を、アメリカやイギリスが行なった例が
 あるのか・・??
  敗けが決まっている国に原爆を落とすという卑怯な行
 為はしても、この様な行為はした事はないであろう。
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1945年8月17日、インドネシア独立戦争(〜1949年12
月27日)
  独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず
 再植民地化したいと侵略を始めたオランダとの間で戦争
 が発生した。
  1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争
で、80万人が犠牲になった。
  オランダは、これは「警察行動」だと屁理屈を言った。
  また、イギリスも侵略をし、この戦争に加わった。
  日本の正義の兵士たちは、大東亜戦争(第二次世界大
 戦)が終わった後もインドネシアに残り、再びインドネ
 シアの国を植民地にして甘い汁を吸いたいと蹂躙する目
 的でやってきたオランダ軍と戦った。
  インドネシアの独立軍に加わって、大東亜の地=イン
 ドネシアの地を、欧米列強の収奪から救おうと、命を投
 げ出して戦った。
  この時、日本軍の残した兵器が大いに役立ち、インド
 ネシアは独立を勝ち得た。
  このインドネシア独立軍と共に戦って戦死した日本兵
 たちは、今、インドネシアの英雄墓地に祀(まつ)られ
 眠っている。
  (参考)1949円12月にインドネシア連邦共和国
成立し・・、
      さらに、連邦構成国が、インドネシア共和国
     に合流して・・、
      1950年8月15日に、単一のインドネシア
共和国が誕生した。
  敗北して去って行ったオランダは、その後、日本を恨
 んだ。
  インドネシアの方々へ酷いことをして来たキリスト教
 国のオランダは、その後、インドネシアへ謝罪の一切を
 していない。
  逆に、インドネシアの独立を助けた日本の悪口を石碑
 にして、インドネシアに立てたりしている。
  恥の上塗り行為をしている。
  まったく韓国と同じ下劣な行為をしている。
  (参考)恥の上塗り:はじのうわぬり、恥をかいた上
     に、また、恥をかくこと。
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1978年12月、中国の改革開放政策
  中国の新たな指導者となった訒小平(とうしょうへい)
 は、1978年12月に、体制転換の政策を打ち出した。
  それまでの計画経済と社会主義を二本の柱とする体制
 から、実質的な市場経済と資本主義を柱とした体制へ、
 中国は転換を図った。
  それまでの中国は、頑(かたく)なに「米国駆逐」を
 口にしていた・・、
  ・・が、しかし、その表現は消えて・・経済発展路線
 に主軸を移した。
  「豊かになれる者から豊かになれ」、そして、「他を
 牽引(けんいん)せよ」となった。
  「米国駆逐」の旗が降ろされ、日欧米の資本を積極的
 に導入したい、また、、資本確保や国外からの技術移転
 など成し遂げたいとなった。
  アメリカを駆逐する敵だという看板を下ろしたが・・
  しかし、今、中国が、以前、持っていた「アメリカと
 いう国を駆逐し、乗り越える国」と見ていた方針は、取
 り下げたという意思表示は無く過ぎて来たが・・、
  その点を自由主義陣営もはっきりと確認することなく、
 自由主義陣営も「中国も豊かになれは、その方針は変わ
 るだろう」と、自分に都合よく期待をしていた・・
  相手に勝手に期待をかけていた。
  しかし、経済発展を遂げた・・経済発展の果実を得た
 中国は、以前の方針が・・アメリカを乗り越えようとす
 る現実の姿・世界が見えて来た。
  自由主義陣営に、中国の社会システムを、また、政治
 システムを同調する様な行動は一切なく・・、
  中国の今までの政治システムが良かったから良くなっ
 たのだぐらいのことを国民にプロパガンダしている。
  「我が方針は間違っていなかった」という自信ととも
 に、「中国は、アメリカの地政学的優位性に挑戦し、中
 国にとって有利な国際秩序を作ろう」という「挑戦し、
 変えようとする姿」が、はっきりして来た。
  アメリカに対抗する姿となって来た。
  「米中新冷戦」の時代に入ったと言われている。
  中国は、中国に都合の良いように変えたい・・、
 そして、アメリカが構築してきた国際秩序を塗り替えよ
 うとしている。
  また、安全保障の面でも、中国の空海軍力の近代化で、
 また、長く続いて来た多大な軍事費の投資で、伝統的戦
 闘空間では、アメリカの一方的な優位性は脅(おびや)
 かされるという状況になった。
  過去の話とは今は違うという状況となった。
  新しい戦闘域である「潜水艦を中心とする水中戦の領
 域」、また、電子線の領域、宇宙戦領域、サイバー戦領
 域、無人兵器戦領域、指向性エネルギー兵器戦領域、そ
 の組み合わせの戦争領域・・それらの新しい米中の競争・・
 その冷戦の時代に入った。
  そして、中国の経済が大きくなって、今、この様な多
 大な投資ができる中国となって・・台頭して来ている。
  しかし、中国の不自然な国家資本主義はそのままで・・
 塗り替えずにいる・・
  アメリカは、その状況を許したことに反省をしている。
  南シナ海の中国の軍事基地の構築の様に、「国際秩序
 の無視の行動」も許さざる行為であるが・・はっきりと
 追及する必要性が明確に存在するが・・不透明な世界と
 なっている。
  この地域は、中国の構築した軍事施設の完全撤去の後
 に、完全に元の環境へ戻したことにより終了し、
  そして、それによって、中国の世界の立場が受け入れ
 られるのであるが・・
  また、世界は中途半端な状況で済ますのだろうか?
  今まで「逃げポーズだったアメリカ」が、ことの重大
 さに気付いて来ている。
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1994年、中国の毛沢東の「化けの皮が剥がされる結果と
 なった本=毛沢東の私生活」が世界各国で同時出版され
た。
  毛沢東の化(ば)けの皮が剥がされて来ている。
  李志綏(りしすい)が書いた『毛沢東の私生活』を読
 めばよく分かる。
  (参考)李志綏:りしすい、中華人民共和国の医師。
      1954年から1976年の毛沢東の死去まで個
人医師を務めた。
      毛沢東の親友だという。
      アメリカへ移民の後、毛沢東の伝記である「
     毛沢東の私生活」を書いた。   
      中国国内では出版禁止となっている。
      曾祖父は清朝の御医(皇帝の主治医)
      「毛沢東の私生活」の本には中国のプロパガ
     ンダの凄(すさ)まじさが書かれている。
      また、この本の元となった膨大な日記は、迫
     害を恐れて文化大革命の最中に、自ら焼却炉で
     処分したと述べている。
      中国は、この本の内容を打ち消そうとしてい
     るが、毛沢東と李志綏との親しげに一緒の写真
     が多数発見され、中国の打ち消しにとって分の
     悪い状況となっている。
  毛沢東の独裁者ぶり、如何に汚いか、嫌な人物で唾棄
 すべき男かと・・、満州事変、支那事変など、日本軍と
 中国・国民政府軍を戦わせようとしたか、その消耗戦を
 拡大させるため、コミンテルンの謀略や策略を一緒にや
 って戦争を拡大させたか・・「二十世紀最悪の独裁者」
 と言われる。
  ユン・チアン氏の著作の「マオ」でも毛沢東の神話は
 完全に崩されている。
  「古い文化や風習を一掃するのだ」と美しく始められ
 た文化大革命も大失敗で、国民の多くが殺され、毛沢東
 の権力が劉少奇訒小平に移りつつあった状況を取り返
 そうとしたための行動だった。
  そして、この男は、戦勝国でも何でもないのに戦勝国
 に居座った。
.
1995年、原爆が投下されて50年、この年、原爆投下につ
 いての世論調査がなされている。
  質問文は、「アメリカが広島・長崎に原爆を投下した
 ことは、その当時のアメリカとしては正しい選択だった
 と思いますか、それとも間違った選択だったと思います
 か」である。
  以下は、その結果・・(NHKの調査)
       正しい選択・・まちがった選択
  日本・・・・8.2%・・・・・57.8%
  アメリカ・ 62.3%・・・・・25.7%
  韓国・・・ 60.5%・・・・・19.1%
  ドイツ・・・4.3%・・・・・66.2%
  これは、マスコミの報道姿勢に影響されているとコメ
 ントされている。
  特に、アメリカは、原爆投下を批判する言論が高まる
 ことを恐れ、大戦後に原爆投下の正当性を擁護する政府
 の公式見解が、積極的に流布され、洗脳され、世論操作
 がなされた。
  そして、日本の言論や教育が偏向していると批判する
 記事が掲載された。
  そして、その矛先が、日本の政治家や歴史家に向けら
 れ、操作されていると批判した。
  そして・・
  2005年に同様な調査が行われた・・(NHKの調査)
  質問文は、「太平洋戦争の末期に、アメリカが、広島
 と長崎に原爆を落としたのは、正しい判断だと思います
 か。それとも間違った判断をしたと思いますか」である。
  その結果・・
                日本・・アメリ
  明らかに正しい判断だった・・ 0.9%・・22.3%
  たぶん正しい判断だった・・・14.6%・・34.3%
  たぶん間違った判断だった・・33.4%・・21.5%
  明らかに間違った判断だった・38.5%・・14.7%
  わからない、無回答・・・・・12.7%・・ 7.2%
  そして・・
  2015年に、アメリカのビュー・リサーチセンターが
調査した・・
  質問文は、「ご存じかと思いますが、アメリカは1945
 年8月、第二次世界大戦終結間際に日本の都市である
 広島と長崎に原爆を投下しました。ふり返って見ると、
 あなたは1945年に日本の都市に原爆を使用したことを
正当だったと思いますか。それとも正当ではなかったと
思いますか」である。
  その結果・・
             日本・・アメリ
  正当だった・・・・・・14%・・・56%
  正当ではなかった・・・79%・・・34%
  わからない、無回答・・ 7%・・・10%
  そして・・
  参考までに・・
  1945年8月10日から8月15日にかけて、ギャラッ
プ社が世論調査をしている。
  質問は、「あなたは新しい原子爆弾を日本の諸都市に
 対して使用したことに賛成しますか、賛成しませんか」
 である。
  その結果・・
  支持する:85%・・支持しない:10%・・わからない
 5%だった。
  まだ戦争も集結していない敵国・日本の状態であった。
  そして、原爆の本当の恐ろしさも実感できなくて、知
 らない状況で、アメリカの正当化の洗脳も受けていない
 という時期だった。
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2005年〜2006年、「マオ、誰も知らなかった毛沢東」と
 いう本が、世界各国でほぼ同時に出版された。
  この本は、中国はもとより、旧ソ連、東方諸国などの
 多彩な史料、そして、存命する関係者への取材資料など、
 詳細に調べ上げ、徹底的に何年何月何日という日時まで
 詰めに詰めたことによって、毛沢東の人物像を明確に浮
 かび上がらせた。
  ここまでされれば、反駁のしようのない毛沢東の実像
 が描かれ、この本によって毛沢東の人物像は大きく崩さ
 れ、変わった。
  大人風に見える周恩来にしても、ただただ毛沢東の権
 力の前に膝まづくだけの人物でしかなく・・、
  毛沢東だけでなく、その周辺の人物像も同時に崩れ去
 った。
  また同時に、中国の悪政ぶりの数々もあぶりだされた。
  神格化した毛沢東は、「過去の偶像」と成り下がった。
  日本にいる左派やマスコミの毛沢東崇拝者たちが、た
 くさん居るが、その馬脚を表わし「似非(えせ)者」と
 なった。
  ムキになって本書を批判しているが、空虚なその必死
 の批判が、かえって、この本の痛撃が、当を得ているこ
 とを証明している。
  また、粛清(しゅくせい)の嵐に怯(おび)える中国
 国民の悲惨な現実が詳細に書かれ、中国共産党の支配が、
 如何に苛酷かも分かる。
  中国の国際的な諜報活動が、中国側の資料だけでなく、
 ロシアの公文書や回想録も多用し、ソ連コミンテルン
 の陰謀にも踏み込んでいる。
  毛沢東の虚像の数々をデッチ上げて来た日本のマスコ
 ミや左派専門家の化けの皮が剥がされた。
  共産主義の苛酷さがバレ、人民が圧迫され搾取されて
 いる実態が暴かれた。
  毛沢東中国共産党は、結局、苛酷な農民支配の独裁
 集団でしかなく、また、内部抗争の渦巻く集団でしかな
 い。
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2011年、中国から1万8000人が国外逃亡・・? 
  汚職マネーが流出する。
  東洋経済誌が報じる・・
  2000年末から2011年までの間に、中国の検察当局
は国外逃亡した職務犯罪(汚職や背任など)の容疑者を
1万8487人検挙した。
  また、最高人民検察院最高検)によると、5年間(
 2005年、2007年、2009年〜2011年)で、不正に蓄
財された財産は541億9000万元(約7000億円)に達
した。
  しかし、国外逃亡した汚職官僚(国有企業職員を含む)
 は少なく見積もっても1万〜2万人はおり、持ち出され
 た資金は1兆元(約13兆円)を下らないという見方が
ある。
  逃亡犯のあまりの多さに、国民は「逃げ得」ではない
 かと感じている。
  昨年(2011年)、中国人民銀行中央銀行)の「腐
 敗資産の国外持ち出しに関する調査報告書」が社会に衝
 撃を与えた。
  報告書には、中国社会科学院の調査資料として、
 「1990年代半ば以降、汚職官僚や国有企業幹部の国外
 逃亡数は1万6000〜1万8000人。
  持ち出された額は8000億元(約10兆円)」という
数字があった。
  後に、別の政府機関から「データが間違っている」と
 指摘があり、共産党中央紀律検査委員会の関係者も「
 8000億元という金額は正確ではない」とするが、この
 数字は実にショッキングだった。
  北京大学「廉政建設研究センター」主任の李成言氏は、
 「国外逃亡官僚は少なく見積もって1万人近くいて、持
 ち出し金額は約1兆元(約13兆円)」と推計する。
  李氏は「1人平均1億元で試算した。国外で国内より
 いい生活を送るには十分な資金が必要になる。1人で数
 億元を持ち出した汚職官僚も多い」と話した。(以上)
  また、別の史料では・・
  中国共産党幹部が、海外へ不正に持ち出した金が20兆
 円以上だという。
  汚職によって得た金を自国の中国ではなく海外へ持ち
 出し逃亡を図っている。
  昔から汚職は、この国では花盛りの伝統の文化とはい
 え、今・現代もなお、盛んに行われている。
  また、今までこの様な中国経済に群がって、利益を得
 よう、利益が得たいと必死になっている諸外国も居た。
  必死に、その中国自体も、自国の存続を図りたいと巨
 大な、そして、莫大な軍事費を使って来ている。
  この様な金が何処から生まれているのか?
  中国は、必死に人民元を刷り、その金が世界のどこか
 の国で蓄積させようとしているが、その帳尻には3800
 兆円以上の借金となっているという。
  日本は、約1000兆円の借金があると言うが、それ以
 上に日本国民が蓄積して来た資産があり、その収支はマ
 イナスとはなっていない。
  しかし、中国は問題である。
  どの様にバランスしているのか?
  アメリカも「借金大国」であるが、アメリカは、せっ
 せとアメリカ国債を刷って、その帳尻をゼロにしようと
 している。
  そして、そのアメリカ国債をせっせと買って、アメリ
 カを支えてあげているのが日本となっている。
  日本は、この様にアメリカ国債を買える状況にある。
  しかし、この様に、アメリカは、借金国債を刷って明
 確に帳尻を合わせている事を世界に明確に示しているが、
 曲者(くせもの)は中国である。
  はっきりしないのである。
  中国で儲けようと、また、儲けたいと諸外国の企業が
 中国に乗りこみ、金を流入させているから、悪い中国の
 帳尻を緩和させているが・・、
  その中国の怪しい状況に、今・現在、資金を中国から
 引き上げ始めている。
  しかし、中国は、とぼけて相変わらず軍事力強化をせ
 っせとして「金をつぎ込んでいる」。
  輪転機を廻して人民元を刷って帳尻りを合わせている。
  一握りの共産党員の支配階級、その汚職と富の一人占
 め、その結果が、20万件もの民衆の暴動の発生が1年
 間で起きている。
  しかし、中国は、その様な実態は、ひた隠しにして世
 界へ平然と振る舞っている。
  チベット民族や、ウイグル民族や、内モンゴル民族の
 事はネットにも記せない状況として「ひた隠している」。
  かつて、この様な状況にあった共産・ソ連が、ある日、
 突然と崩壊したように、この共産国・中国も、突然と崩
 壊する可能性がある。
  その時、中国へ持って行った種々の企業や人々の資産
 も、取り戻せなくなる可能性が存在している。
  だから、不正をして得た中国共産党幹部は、せっせと、
 今、海外へ不正に金を持ち出している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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