気になった事柄を集めた年表 [4]:(2014・11・2 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表 [4]:(2014・11・2 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1900年、ロシアが、中国(清)で発生した義和団の乱
 混乱収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは、満州
 を植民地化することを既定事実化しようとした。日英米
 の抗議によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を
 守らず、逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響
 力をロシアは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山
 採掘権や森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取
 得し影響力を増した。日本は、これらを買い戻して回復
 させた。そして、日本は、外交的に衝突を避けようとし
 たが、ロシアは、軍事力で日本への圧力を増していった。
 中国への外国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が
 出兵した。日本も出兵した。ロシアとドイツは、日本の
 3〜4倍の賠償金を要求し、取った。ロシアは、兵を撤兵
 させず、朝鮮国境に砲台を建設したり、シベリア鉄道
 軍の輸送を開始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期
 間1901年〜1909年)は、アメリカインディアンの事実
 上の絶滅を指示すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
 という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
 が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
 は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
 キリスト教は、国家体制への癒着(ゆちゃく)を強めて
 行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
 究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
 ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
 想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
 うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
 ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
 この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
 アメリカは反抗作戦を実施した。→1年
1905年9月5日、日露戦争終結した。この日に、ポーツ
 マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
 森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
 また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
 音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
 べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
 日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
 わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
 だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
 ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
 行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
 ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
 と思うのは考えすぎであろうか。
1905年9月5日、日露戦争の日本の勝利は、朝鮮のロシア
 化から守った。また、アジアの植民地の方々へ勇気を与
 えた。例えば、インドのガンジーネルーは、心が揺さ
 ぶられたとの話を吐露している。また、日本に好意を感
 じていたインドネシアの方々は、巨大なロシアのバルチ
 ック艦隊が、狭い海峡を通って行く姿を見て、立ち上が
 って来た日本の終焉を予測し、涙を流して見たそうであ
 る。が、しかし、その後の結果に沸き立ったという。ア
 メリカの黒人の方々も勇気づけられたという。そして、
 考えるきっかけを作ってくれたという。ある公民権運動
 家は、日本が白人優位の人種偏見神話を崩してくれたと、
 全米を演説してまわった。しかし、逆に、白人社会へは
 衝撃とパニックを与えていた。これが深刻な問題につな
 がって行った。その一つが、アメリカの排日運動である。
 また、それまで中国の方々へ向けられていた「黄禍論」
 が、日本へも向けられ、世界に流れて行った。その先に
 は、悲しい第二次世界大戦への影があった・・、
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの
 支配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
 に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
 の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
 を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
 『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
 択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
 間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
 聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
 メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
 と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
 感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
 を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
 界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
 り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
 で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
 った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
 史によくある人種間の対立のイメージとなった。→0年
1906年、日本人の移民の真実は、日本人移民などわずか
 で、たかがしれた人数だった。その真実は、1日に3000
 人の割合で、アメリカに上陸してくるヨーロッパ系白人
 の移民だった。しかし、その脅威が日本へ向けられたの
 だった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
 によって、日本の朝鮮半島南満州の勢力範囲が合意さ
 れ、また、ロシアの外モンゴル北満州の勢力範囲が合
 意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
 た。→1年
1908年3月、アメリカの大西洋の大艦隊が太平洋に回航し、
 日本へ来た。これは対日の威嚇行動であった。日本の2
 倍の艦隊規模だった。日本は驚愕した。日露戦争の日本
 の勝利に、アメリカだけでなく、カナダやオーストラリ
 アも排日の共同戦線を張った。強い日本が、逆に、脅威
 に変わったのである。特に、アメリカは興奮し、日本を
 仮想敵国扱いにした。世界にはいつの間にか日米戦争の
 熱が広がっていた。その日本への威圧行動だった。日本
 は、日露戦争疲労困憊の時期、何かをする様な余力な
 ど無い状態だったのに。→2年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
 が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
 手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
 18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
 る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
 信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦キリスト教
 国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
 った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
 た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
 い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
 いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、『再臨待望者』
 や『再臨狂』を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
 の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
 の土地所有権を剥奪した。→4年
1917年、ロシア革命が起きる。→7年
1924年アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
 で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
 まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
 同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
 月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
 2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
 僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
 日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
 配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
 ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
 聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
 と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
 大げさな、偏向演説をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締
 結され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年〜1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
 骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
 考えを、外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏
 が言う。当時、イギリス海軍中南米を防衛するという
 事をしていた。日本は世界の5つの大きな大国の一つに
 なっていた。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。
 →4年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
 た。地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→2年
1941年8月9日〜8月14日、アメリカのルーズベルト大統
 領とイギリスのチャーチル首相が、海に浮かぶ戦艦上で
 会談した。アメリカの参戦への要請と、対日戦争の協議
 が主な議題だった。ルーズベルトは、アメリカの国民世
 論が戦争反対であったため、国民へはイギリスと何も約
 束はしていないと言った。しかし、1942年1月27日に、
 チャーチルは、イギリス下院の演説で、会談内容を暴露
 した。ルーズベルトの嘘が、アメリカ国民の知るところ
 となった。日本の近衛文麿首相が、開戦の危機打開に努
 力していたが、会談がうまく行くはずもなかった。ヨー
 ロッパ戦線でイギリスはドイツに負けそうになっていた
 ので、ルーズベルトは参戦したいと考えていた。→0年
1941年12月8日、日本が、アメリカのハワイ真珠湾を攻撃
 して大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまったと言われて
 いるが、実際は、アメリカの軍艦が、日本の先行してい
 た潜水艦へ、機雷攻撃をして、すでに戦端は開かれいた。
 また、このアメリカ軍艦は、この交戦事実をアメリカ司
 令部へ送信し、知らせている。日本の真珠湾攻撃は、こ
 の様な確定した事実により奇襲ではなく、すでにアメリ
 カの知るところの交戦中にあった。アメリカは国民の世
 論操作目的から、日本の奇襲をデッチアゲたかった。
 →4年
1945年8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。
1945年8月30日、アメリカの最高司令官のマッカーサーが、
 神奈川県厚木の日本海軍飛行場に来た。マッカーサーは、
 靖国神社を焼き払えと言った、また、すべての神社も焼
 き払えと言った。そして、アメリカ占領軍は、日本へ慰
 安所を作れと命令した。→0年
1945年9月27日、昭和天皇アメリカの最高司令官のマッ
 カーサーの会談が行なわれた。昭和天皇が、敗戦国の国
 家元首として、マッカーサーの滞在するアメリカ大使館
 へ出向き、会談が行なわれた。当時、戦勝国は、天皇
 「戦犯リスト」の筆頭にしていた。しかし、マッカーサ
 ーは、天皇をもし処刑した場合の方向に進む時の不安定
 な占領統治になることなどの危惧もしていた。マッカー
 サーは、会談で「天皇が、敗戦国の君主がそうするよう
 に、戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではな
 いか」と思っていた。しかし、昭和天皇は、命乞いをす
 るどころか、「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚
 悟しており、私の命のすべてを司令部に委ねる。どうか
 国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べ
 たと語っている。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべ
 きではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態
 度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であ
 ると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだ
 ったが、会談が終わった時には昭和天皇を車まで見送り、
 慌てて戻ったといわれる。後にも「あんな誠実な人間は
 見たことがない」と発言している。→3年
1948年、イスラエルが建国される。新イスラエル国家誕
 生まで流浪の民となっていた。→3年
1951年7月、大東亜戦争第二次世界大戦)の終戦を知ら
 ぬまま、南海の孤島「アナタハン島」(サイパン島の北、
 北マリアナ諸島)に取り残されていた日本兵の20人が発
 見され、帰国した。この日本兵の一部の人の妻が、日本
 兵の夫が戦死したものと思い、夫の兄弟などと再婚して
 いたなどの悲劇も起きた。この妻の一人が、読売新聞の
 人生案内に相談した。相談を受けた方は羽田空港まで帰
 還兵を出迎え、帰還した夫に「過去を一切水に流して奥
 さんを大切にしてあげて下さい」と励ました。当時の混
 乱した世相について、当時の識者は「日本人女性を連れ
 た米兵への反感」などを述べている。多くの日本女性が、
 無責任な米兵の行為に泣いていた。米兵との間に生まれ、
 孤児となった子供たちを育てる施設なども出来た。それ
 までと違って日本の男女のモラルは大きく破壊されてい
 た。→2年
1953年、GHQ(日本占領軍)最高司令官のマッカーサー
 が、日本をキリスト教化したいと、国際基督教大学を、
 この年に開学する。キリスト教長老派。→20年
1973年4月1日、アメリカ軍のベトナム全面撤退。→3年
1976年、教皇パウルス6世は、サン・ピエトロ大聖堂の墓
 で、ペトロの墓を発見したと発表した。→10年
1986年4月15日、リビア爆撃が行なわれる。→2年
1988年、第二次世界大戦の頃、日本人を『JAP』と呼び、
 帰化不能外国人としたり、土地所有が出来なくしたり、
 「裏から忍び寄るJAPの広告」をしたりの、ひどい人種
 偏見があったことをアメリカは認めた。→1年
1989年、日本の赤崎勇氏と天野浩氏が、青色LEDを開発
 した。LED照明が実現した。照明の大革命。→14年
2003年、核放棄あり得る。アフリカの地・リビアの革命
 指導者カダフィ。2011年に発生したリビア内戦によっ
 て、その独裁政権は崩壊し、反カダフィ派の部隊によっ
 てカダフィは殺害されたが、そのカダフィが、1986年
 4月15日に、アメリカ軍およびイギリス軍によって攻撃
 された。その背景だと言われている事は、テログループ
 支援、複数の空港爆破事件の背後にいる、西ベルリンの
 爆破事件などと言われている。この時、レーザー誘導
 爆弾が使われ、ピンポイント攻撃がなされた。カダフィ
 は不在だったが、カダフィは子供が亡くなったと主張し
 た(カダフィの死後、生存が確認された)。カダフィは、
 2003年に核放棄宣言し、査察団の受け入れもしている。
 →11年
2014年10月24日、この日の読売新聞によると、キリスト
 教の神父が少なくなったという理由で、キリスト教イエ
 ズス会系(カトリック)の上智大学などを運営する「上
 智学院」は、運営する学校を合併するための協議に入っ
 たと発表した。
今・2014年
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009