今後、二度と不幸なことが起きないように・・、

 題:今後、二度と不幸なことが起きないように・・、
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 キリスト教は、いつの時代も、「権威が欲しい」が第一
の目標となっている宗教、そして、それが、性癖となって
いる。
 キリスト教の行動を見ていると、民衆を救うということ
よりも、権威が欲しいと、そして、その権威を得るために
も、金が欲しいとなり、その金を目当てに色々な悪い事を
している。
 その1例が、資産家の女性を魔女とし、自前のキリスト
教裁判所で魔女裁判までして、魔女処刑をし、その魔女の
資産を没収した。
 そして、この『権威が欲しい』は、キリスト教が出来た
頃からであった。
 その初期の頃より以来、その権威が欲しいの気持ちを持
ち続けているキリスト教なのだ。
 キリスト教の歴史は、「権威だ」「権威だ」の権威の歴
史だった。
 それは一時期、『権威を得なければ』としなければ、立
ち行かない立場にもあった、そして、その様な宗教だった
と言える。「権威を得ねばならない様な宗教だった」と言
える。
 初期、キリスト教のできる頃の信徒は、ユダヤ人だけ、
 そのユダヤ人から権威を得るためには・・と、考えれば、「
 キリスト教と何ら関係ないダビデを引き出し、そして、
利用することが一つの方法だった。
 ダビデと言えば、「ユダヤ人の唯一の英雄」。
 キリスト教聖書に記載されて、そのダビデが生きていれ
ば言うだろう、「キリスト教?そんな宗教、全然、知らな
いよ」・・と。「キリスト教なんて何も関係ないよ」と。
 キリスト教は、ただ関係のないダビデを利用した。
 キリスト教以外のユダヤ人の方々は、さぞ怒ったでしょ
う。民族の英雄をよくも利用したな・・と。
 「マタイによる福音書」は、ぬけぬけと書いた・・、
 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト系図
アブラハムは・・」・・と。
 一般のユダヤ人の方々が信じていた「ダビデはメシア・
救世主だ」という信じる所に、丸々乗っかって、そして、
その中にイエスが居るという構図にして、聖書に書いてし
まったという所。
 そして、ダビデで権威づけた文の中で、イエスを「イエ
ス・キリスト」と言ってしまったという図。
 ユダヤの方々は、「さぞ、カンカンになって怒った事で
しょう」。
 ユダヤ教が、主な宗教であったユダヤの地のユダヤの方
々へ、ユダヤ教を破門された、ごく少数の信徒の集まりに
過ぎない「原始のキリスト教」が、こんな事を言い出し、
ユダヤの方々は、怒ると共に、「このカルト宗教め」と思
った事でしょう。
 信じられないDNAを最初から持つキリスト教は、最初
から権威が欲しい、信じてくれの歴史の中で、イエスを、
ユダヤ民族のスーパースター、ダビデの後裔(こうえい)
としたくて仕方なかった。
 しかし、そのダビデを、聖書に書き込んだという行為は
・・、ユダヤ人が対象ならいざ知らず、この小さな少数の
一民族だけの事ならいざ知らず・・、
 TPOが「まったく、アウト」。
 時代錯誤だし。ユダヤ民族だけの英雄だし。
 キリスト教聖書は、時代の中で、完全に消耗しきってい
る。
 何ら信じて幸せになれるというものではありません、ま
た、宗教ではありません。
 ダビデが、ユダヤに繁栄をもたらした王様だと言ったっ
て、「風呂をのぞき見したダビデ、そこで見た女性を手に
入れたいと、その女性の夫の自分の部下を、卑劣な行為で
殺し、その部下の妻を奪い取るという最低の輩」。
 何ら、信仰するに足る人物では、微塵もありません。
 だから救世主という論理は、疾(と)うの昔に消え去って
います。
 そんな人物の権威に寄り掛かる宗教は、クエスチョンで
す。キリスト教にある、昔からある「その様な心根(ここ
ろね)」が、クエスチョンです。
 皆様を幸せにしたいとか、幸せになって下さいが第一に
来なければならない宗教の目標なのに、自分の事ばかり考
えるキリスト教という宗教。
 昔から、自分の利しか考えない宗教。
 キリスト教は、何しろ、最初から、宗教理念が低い宗教
です。
 特に、「マタイによる福音書」は、「権威が欲しい」「
権威が欲しい」の福音書です。
 信じるのは自由ですが、その所を「どうなのかな」と、
思いながらお読みください。
 この様な聖書をいくら読んでも、天から声は、聞こえて
きません。
 だから、聖書作家としての「マタイの想い」が余計に見
えて来て、逆に、マタイの幼稚さも見えて来ます。
 古いユダヤの家系の権威にすがったマタイなのです。
 今・現代、ダビデなど歴史上の人物、その権威などどう
でもいい社会。
 また、グローバルの時代の今・現代には、歯牙にも掛か
らない霞みの彼方(かなた)の事。
 この様な聖書、何度も読む様なものではありません。
 また、この様な書物で、決して人類は救済されません。
 「マルコによる福音書」から10年から20年、時を失った
頃に、「マタイが、こんな事を考えましたという代物」と
いう図となっている。
 イエスを「デッチ上げたいマタイ」の図。
 虚構で、でっち上げの図。
 しかし、なんと・・、今・現代でも、キリスト教は、こ
の図を、延々とやっている。
 権威を付けたいというマタイ、聖書作家として下手糞な
事をしているのだ。
 『イエスは、ダビデの家系の人だ』と単純に書いていれ
ばいいものを、
 イエスの父・大工さんをしていたイエスの父ヨセフを持
ち出す。ここで話がややこしくなる。
 イエスの父ヨセフを、ダビデの家系の者だと入れてしま
ったのだ。
 マタイは、筆を滑らせ、イエスと血が繋(つな)がって
いないイエスの父ヨセフが、ダビデの末裔(まつえい)な
のだと書いてしまった。書きたい事が書けるにしても、こ
れは失敗だ。
 当然、イエスが救世主になる前に、イエスの父ヨセフが、
救世主になってしまった。
 そうなる事を、マタイは、知ってか? 知らずか? マ
タイは書いてしまった。
 だから、本当は、このヨセフが、「真の救世主だったの
かもしれない」。
 この様なキリスト教聖書の記述、こんな聖書の記述を信
じて、人を殺しに行く事だけはしないで下さい。
 虚構・デッチ上げと共に、矛盾を抱え込むキリスト教
のだ。
 真実、イエスには、兄弟姉妹が、大勢、居た。
 (「マルコによる福音書」6・3)に書かれている、
 「この人(イエス)は、大工ではないか。マリアの息子
で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹
たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と。
 そして当然、この大勢のこの兄弟姉妹は、「ダビデの家
系のイエスの父ヨセフ」の血を引く「ダビデの家系の子供」
である。
 ここを、キリスト教は、訳では「兄弟姉妹」となるが、
正確には「弟妹」だと、不正確なこと言い、言い訳に努め
る。本当に、聖書は「言い訳が、本当に、あちこち、多い
言い訳だらけの本だ」。
 ならば、キリスト教は、「弟妹」と早くすればいいのに、
一向にしないのは、その基本の底本「マルコによる福音書
の記述が正しいからである。
 最初の福音書のマルコが記述する頃は、まだ、イエスは、
普通の人間だったのだ。
 イエスの父が「神だ」とは考えられていなかった。
 次の世代のマタイが、イエスの父ヨセフを、救世主の家
系に入れてしまうが・・。
 まだ、マルコの時代には、イエスは、普通に兄弟姉妹が
居る人間だった。
 皆、キリスト教徒でさえ、その様に思っていたのだ。
 イエスは、洗礼者ヨハネに洗礼される必要のある人間だ
った。
 「処女懐妊だ」「ダビデを持ち出し、救世主の後裔(こ
うえい)だ」・・なんて言う作り話なんて・・まだマルコ
には・・、
 まだ、その様な、『夢の様な・・作り話』が、なされる
なんて思ってもいなかったのだ。
 正直者のマルコが、正直に、事実を、書いたのだ。
 最初の福音書だし・・、
 だから、イエスには「兄」や「姉」が居たのが事実。
 だから、イエスに権威が欲しいという欲求が・・、その
後の福音書の「マタイによる福音書」や「ルカによる福音
書」に求められ・・、
 夢の様な嘘話し、作り話が、記述されて行く。
 嘘記述が、ますますエスカレートし、後になればなるほ
ど、酷(ひど)くなる。
 そして、その信頼性は喪失して行く、
 その様になって行く事を知らない、浅はかな記述だった。
 この様な聖書に、キリスト教に、洗脳されて、戦争など
を起こすようなことがないように・・、今後、二度と不幸
なことは起きないように・・。
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 (参考)疾(と)うの昔 とっくに過ぎ去った昔。ずっと以
   前。「問題は―に解決した」「―から決まっている」
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009