キリスト教の戒律から疎外されているの状況の中に居る人・・、

 題:キリスト教の戒律から疎外されているの状況の中に居る人・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教は律法を無くした、律法や戒などを無くした
というが、さにあらず、たっぷりと律法がある宗教なのだ。
 そして、キリスト教聖書は、男尊女卑の書である。
 イエスは、ただ一人、マグダラのマリアだけは弟子と言
ったが、キリスト教は、今・現在でも、女性を司祭にしな
いなど、男尊女卑の宗教である。
 そして、イエスも、この男尊女卑の精神を持った人であ
った。
 キリスト教聖書も、女性を名前で呼ばない、また、イエ
スも女性を名前で呼ばない。
 仏教は、女性も男性同様に姓名で呼び、そして、多くの
女性を、弟子にもしているが、キリスト教のイエスは、女
性を弟子にもしていない。
 因(ちな)みに、聖書に出て来る女性が、どの様に記さ
れているかを記してみると、「この女」「こういう女」
ゼベダイの子らの母」「クロバの妻マリア」「ヨセフの
母マリア」「もう一人のマリア」「ヨハネヤコブの母マ
リア」「他の女」「マグダラの女と呼ばれるマリア」など。
 女性を男性の附属物的な存在としている。
 また、ちなみに、イエスが、5000人に食べるものを与え
た話の、その5000人は、女性は除外されている。
 ヨーロッパのキリスト教絵画が、女性を多く描かれてい
るから、キリスト教が男尊女卑宗教の印象が薄いと思われ
ていますが、さにあらず、酷(ひど)い男尊女卑宗教なの
だ。
 「男性信者より数段下の女性信者」という言葉がある。」
 「女性使徒なんて、とんでもない」という宗教。
 そして、イエスが死んだ時、イエスの父ヨセフは、すで
に死んでいると考えられ、イエスの母マリアは、マグダラ
のマリアに引き取られている(「ヨハネによる福音書」19
・25〜)
 「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き
取った」とある。
 他のイエスの兄弟姉妹はどうなっているのか?
 母マリアを引き取らないのか?
 つまり、イエスの兄弟姉妹が、イエスの母マリアを引き
取るより、マグダラのマリアが引き取る事で、事がうまく
収(おさ)まるからなのだ。
 だから、イエスが、そう言ったのだ。
 そして、それは、マクダラのマリアが、イエスの家族の
成員(妻)であるからだ。
 そして、また、イエスは、そのマグダラのマリアに、最
初に復活したかった、その姿を見せたかった。
 それ故、マグダラのマリアに、最初にイエスは復活した。
 イエスの復活は無かった事なのだが、イエスを知る人が、
エスが復活するには、まず最初に復活する人は誰かと、
考えた時「マグダラのマリア」になったのだ。
 「ペトロ」でもなく、「イエスの母マリア」でもないと
いう所に、強い縁のある人なのだ。
 イエスと共に住んでいた家に、イエスの母マリアは引き
取られたのだ。イエスは、マグダラのマリアだけは他の女
性とは違うとみていた。
 このマクダラのマリアの事だけで、キリスト教が男尊女
卑の宗教とは違うとは言えない。
 そして、イエスは妻帯者であり、この点でもキリスト教
の戒律から疎外されているの状況の中に居る人となってい
る。
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 そして、次の話。
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 キリスト教のイエスに12使徒が居たというが、キリスト
教の得意な嘘だ。
 4つの福音書に記載事例がほとんどないという、そして、
まったく無視されて名前さえ出て来ない使徒が4人もいる。
 使徒とされる4人を、無視して名前を出さないという福音
書があるのだ。
 使徒ではないから書かなかったのだと言っている。
 そして、1回だけしか出て来ないという「心細い使徒」が、
何と、半数以上居る。
 半数以上の使徒が、この「心細い使徒」となっている。
 作り上げられた「使徒たち」なのだ。空想の使徒
 イエスの知り合い程度の人、本当は。
 それが、福音書に1回だけ出た、ちょっと出の使徒にされ
た人たちである。
 福音書に出て来て、使徒と言ってもいいかなという使徒
は、「ペトロ」「ヤコブゼベダイの子)」「ヨハネ」「
ユダ」の・・何と・・4人だけなのだ。
 あと8人は・・申し訳ないが、付けたし。
 後の8人は、使徒とは言えない。
 1回しか出ない、または出ないという、福音書で名前を探
すのが大変な人たちなのだ、使徒であるのに。
 イエスの仲間たちは、「ほんの一握り」だったのだ。
 そして、「マタイによる福音書」に、イエスが言ったと
して・・、
 「あなたはペテロ、あなたが地上で解くことは、天上で
も解かれる」と記している。
 これは、はっきり言って・・おかしい。
 名指しで、イエスが、「ペテロは神です」と言っている
事になっている。
 何百年後に、公会議で、やっと神になったイエスが、そ
れより以前に、ペトロを神扱いしている。
 イエスが、その様にペテロに言っている。
 300年も経って、やっと公会議で、もめに揉めた上で、
神になれたイエスが、それよりはるか以前、イエスの生存
中に、ペトロを、「あなたのはなす話しは、説く事は、天
上・天国で解かれる言葉になっています、(あなたの言葉
は神の言葉です)」と言っている。
 その時にはまだ、神では無いイエスが、ペトロに言って
いる。
 まったく、キリスト教は、こんな節操無い言葉が、乱れ
飛んでいる、節操無い宗教の態となっている。
 この様に、使徒というか、弟子というか、12人は、明ら
かに居なかったわずかな人を、ちやほやしないとグループ
が保たれなかった。
 福音書には、あちこちで、イエスと意見のぶつかり合い
がある人たちなのです。
 使徒なのかなー ・・という感じの状態?
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 (詳しくは、以下のブログへ)
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