旧弊も、引きずっている・・・、

 題:旧弊も、引きずっている・・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教の聖書の・・・
 「マルコによる福音書」「マタイによる福音書」「ルカ
による福音書」を、共観福音書と言います。
 これは、この3つの福音書が似ているから、この様に言
われているのです・・が、
 それは、「マルコによる福音書」を手本にして、
 後の2つの福音書が書かれているため、似ているのです。
 似るのが当然なのです。
 キリスト教の聖書は全部で4つ、つまり、あと1冊ありま
す。
 それは、「ヨハネによる福音書」と言います。
 この福音書は、紀元後100年頃に書かれた福音書です。
 イエスの死後、70年ほどが経過した頃でした。
 イエスの姿も見えなくなり、1世代以上・・、いや2世代
も前の人となっている頃に、書かれたものでした。
 おじいちゃんの事を、孫が書くという様な状態でした。
 今の時代と違い、優れた記録媒体が無いという、古代の
ことで、
 頼るものと言えば、人々の記憶に頼るしか方法はありま
せんでした。
 しかし、それも70年という年月は、古代という時代とし
ては、大きな、長い年月であり、
 また、戦乱に明け暮れるこの地の古代としては、
 社会の不安と、不安定の中で、その記憶を維持するとい
うことは、大変な状態で、
 また、大きな重しとなって存在していました。
 伝説の昔の人のことを書くという状態です。
 キリスト教は、この「ヨハネによる福音書」の著者を、
長い間、間違っていました。
 研究が進んできた今、まだ、間違いの確率は高いのです
が、
 その著者を、有力な人を、特定して言える状況にありま
す。
 今まで著者と言われていた人は、『使徒ヨハネ』と言
われていましたが・・、研究の進んだ今、使徒ヨハネでは
ないという否定される面が、点が、色々浮かび上がってい
ます。
 今・現在、「使徒ヨハネ」と言われている人は、
 ガリラヤの漁夫で、無学の人とされています。
 イエスからも、「雷の子(ボアネルゲ)」と、半分、さ
げすむように呼ばれ、馬鹿にされていました。
 血の気が強く、決して頭脳明晰ではないと紹介されてい
ます。そして、哲学的思考などできるような人物ではない
とも言われています。
 それにまた、「ヨハネによる福音書」は論証的であり、
 共観福音書よりは知能的で洗練されたレベルであるから
でもあり、
 この福音書を、レベルの高い人のためのものと、聞き様
によっては差別的な事もキリスト教では言われている。
 以上の様に、キリスト教福音書は、「大きく分けてこ
の2つ・2種類」とも言える状態です。
 当然、「使徒ヨハネ」は、「ヨハネの黙示録」や「福
音書」を書いたという事になってしまいますが、これも間
違いという事になります。
 では、真の「ヨハネによる福音書」の著者は?という事
になります。
 現在の研究によると、現時点での最終的な著者説は、「
長老・ヨハネ」と言われています。
 「長老・ヨハネ」の存在については、
 小アジアキリスト教会指導者であるパピアスが、
 紀元後130年頃に書いた本の中に書き記(しる)してい
ます。
 「使徒たちが語ったことを長老たちに問いただし、長老
ヨハネにも問いただした」(エウセビオス「教会史」第3)
と書いています。
 1世紀末に在世した「長老・ヨハネ」は、エペソの教会に
いた。このヨハネが、「福音書」や「手紙」などの著者と
現時点ではされている。
 ヨハネの「手紙」の中にも、「長老のわたしから・・・」
とも書かれている箇所がある。
 使徒なら「使徒」と書いただろうとされ・・。
 キリスト教は、今ここに記した様に、陰に隠れていた著
者が、また新たに浮かび上がってきたが、
 「長老・ヨハネ」というこの新たな人物の著作物も『信
仰の対象』とする形の宗教。
 急に浮上する信仰対象とはと・・半分あきれる形。
 この例の様に、不特定の人々が、書いて、寄せ集まって、
出来て来た形だと、キリスト教はなっている。
 旧約聖書も、まったく、同じ形をとっている。
 この形は、『キリスト教のDNA』となっている。
 心棒のものがない、
 周りにあるものを付けくわえながら・・・
 出来てきた宗教。そしてそれがDNA。
 イエスならイエスを、存命中からその教え・考え・哲学
が宗教という目的でしっかり記録されていれば、
 その目的が、当初から、しっかりあるのならば・・・、
 もっと違ったものとなったであろうが・・・。
 まわりの弟子も少なく、また、知的な集団でもなかった
こと、
 そして、イエス自身も、『ユダヤ教のラビとしての意識』
での活動であったこと
 (イエスの弟子たちでさえ、イエスを、ユダヤ教の聖職
者の呼称『ラビ』という名称で呼称している)から、到底、
宗教としての『出立点は存在し得なかった』。
 イエスの死後、だいぶ経った頃、
 パウロという『元ユダヤ教聖職者』が、
 思い立ったように、
 自分の『勝手な宗教の企画』でもって、
 始めたという出立点があるだけの状態。
 そこに、深い哲学的示唆があったわけではない。
 あとから、付けたしで、たいぎょうなプロパガンダが、
修飾がされ、施されたが・・・
 いつまでも、いつの時代も、キリスト教は、
 この出立点の『底の浅さ』が災いしている。
 そして、いつまでも、いつの時代も、
 ユダヤ教時代の『旧弊も』引きずっている。
 人類の救済になり得ない要因の1つはここにもある。
 逆に人類の歴史に悪結果を残している。それは、歴史を
見れば分かる。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
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