千変万化するのである・・。

 題: 千変万化するのである・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、聖職者を美化し、権威付け、その繰り返しが
続けられ、神と同等という人間まで生み出されたという『自画
自讃の宗教」。
 例えば、「マルコによる福音書」では、イエスの挙動不審を
心配した家族が、そのイエスの挙動不信行為が続くと、家族も
強くイエスに対して対応し、行動する様になる。
 聖書の原文には、「家族がイエスを逮捕しようと出掛けた」
とある。
 「逮捕」とは穏便な言葉ではない。
 そして、人々は「イエスが正気ではないと言っていたから」
と、家族のイエス逮捕に出掛ける理由を書いている。
 イエスも、この様に辿(たど)って来た経緯(いきさつ)に
快(こころよ)く思っていなかったのか、
 「ただ、イエスに『悪霊追出し』をして貰おうと、集まった
だけの人々」に対し、『私の兄弟、姉妹、また、母なのだ』と
言う。
 イエスの前にいる人々と言ったって、イエスの前に座ってい
るだけの人々、宗教的な事は何もしていない人々。
 ただ、イエスからの行為を期待して、集まっている人々なだ
け、特に何もしていないのに、イエスは、この人々を『神の御
心を行なう人』と讃える。
 そして、決して言ってはいけない事、イエスの母・マリアや
兄弟や姉妹を、『わたしの母、わたしの兄弟とは誰か(わたし
を逮捕に来るような人など、親でもなければ兄弟でもない)』
とまで言う。
 最愛の家族を、ここまで言う、最悪のイエス
 ここを、「マタイによる福音書」は、まったく変えてしまっ
ている。「マルコによる福音書は」を参考にして書かれた「マ
タイによる福音書」であるが・・。
 「マルコによる福音書」のこの部分を完全に削除してしまっ
ている。
 そして、ここを、マルコはまったく違う態度に変更して、イ
エスを丁重に扱う形にしている。
 『母上と御兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます』
としている。
 そして、さすが、何も宗教的行為も何もしていない、「ただ、
集まった人々」を、あなたたちが『親・兄弟以上の人たちだ』
とはしなかった。
 ここには「イエスの弟子たちを登場させた」。
 イエスが「弟子たちの方へ手差し伸べて」となっている。
 手を差し伸べる行為は、権威のある聖職者が、祝福を与える
時にする宗教的な典礼の態度の権威づけに変えた。
 弟子たちを宗教的・典礼的に祝福し、弟子たちを権威づけた
いのである。
 マルコの「イエスの前の群衆は完全に無視された」。
 そして、「マタイによる福音書」の50節では、
 『天の父の御心』という荘重な宗教的用語まで飛び出し、
 マルコと、まったく違う、「権威付けにせいを出している」。
 この方向は、『聖職者が聖職者を美化』し、『権威づける行
為』の習慣化へ向かった。
 『按手(あんしゅ)』というサクラメントなどの宗教的儀礼
の虚偽の行為による「使徒的権威」が、キリスト教は、虚(う
つ)ろに、もったいぶって伝えられて行く。
 この様な素人(しろうと)とダマシ的な、一見、厳(おごそ)
か的行為と観念が捏造(ねつぞう)され、最後は、虚飾をまと
って、『一切の過(あやま)ちから免(まぬが)れられる』・
・という、『途方もない盲想』が、キリスト教徒へ洗脳され、
あやつられ、繰(く)られて行く。
 頂点に居る教皇は、「無謬」、一切の誤りがない、誤りがあ
るわけないと、恐ろしい変質・変転への道を辿って行く。
 因(ちな)みに、「ルカによる福音書」の、ここのところは、
「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人
たちの事である」と、手のひらを返すように、穏便に、
 また、母・マリアや兄弟たちの顔を立てている。
 キリスト教の聖書なんて、適当なものである。
 『右を書け』ば、『左も書く』、『どちらでもよい』と言っ
ている。どうにでも、千変万化するのである。
 この様なもので、人類が救済されるわけがない、皆様が幸せ
になるわけがない。
 (参考)せんぺん‐ばんか【千変万化】 [名](スル)さまざ
まに変化すること。
       (詳しくは、以下のブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp