適当だなー・・、

 題:適当だなー・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は『適当だなあー』とまた、改(あらた)め
て強く思った。
 だから、言わせて戴きたい、キリスト教の方は『早く、
離れてください、良いことはありません。離れて冷静にな
って下さい。
 文の初めから失礼しましたが、本当に、このブログをズ
ーットお読みの方は、既に、お分かりと思いますが、キリ
スト教は本当に適当です、駄目です、そして、怖いことが
あります。
 キリスト教の肝心な、中心に位置している神が、また、
駄目なのです、適当なのです。
 これがキリスト教は、これが悩みなのですが、口に出し
ては言えません。
 昔から、キリスト教は『神問題』には悩んできました。
 今・現代もです。
 キリスト教の「イエス」も、『キリスト教の神だ』とは
されてはいませんでした。
 イエスは、キリスト教の最高会議である「公会議」でも、
『イエスは、神ではない』とされていた。
 しかし、それも、「すったもんだ」の末に・・、
 反対する者は、キリスト教の例の「異端だ」と差別する
 キリスト教の常套(じょうとう)文句を使われ・・、
 卑劣なキリスト教なのだが、何ら公会議の「体をなして
ない」過程で、
 反対者は放逐され・・一部は殺されたりして・・、
 中国に逃げた「景教」も、キリスト教ではないとされ・
 キリスト教公会議が『景況は、キリスト教ではないと
した』。
 イエスもその様な、劣った『蛮』の公会議で討議され、
 神ではなかった。
 4世紀の頃、その様な、経過の中でイエスは神なれた。
 イエスが死してから400年という長い年月が流れての後
のことだった。
 キリスト教は、晴れて、「父なる神」と「子なる神」の
『2神』となった。
 名実ともにキリスト教は『多神教となった』。
 実際は、『多神教の歴史は長い』キリスト教なのだが・
・。
 キリスト教を、事実上、作ったパウロも、イエスに関し
ては、「イエスの刑場での死の血」と「イエスの復活」だ
けを使った。イエスのすべてを使わず、イエスを食い散ら
かすパウロだった。
 そして、今・現代、神の座にある「聖霊」、これも神だ
とはされてなかった。
 パウロは、(「コリントの信徒への手紙Ⅰ」7・40)で、
「そのままでいなさい」とサンザン言った後・・、
 「わたしも神の霊を受けていると思います」と、あやふ
やな言い方だが聖霊の事を言っている。『霊』であり、
聖霊』でないことに注意。
 富岡幸一郎関東学院大学教授が、「キリスト教の神は
絶対神だ」と言っているが、事実でない事を言って、嘘を
言って、皆様を洗脳している教授だが、『何処が絶対神
のですか?』と問いたい。
 キリスト教の神は、色々な人が、色々に神を形作(かた
ちづく)っている。
 キリスト教はその様な宗教なのです。
 だからこそ、キリスト教の最高会議である公会議で議論
する必要があったのです。
 それも、『色々な意見があった』ので、長い間、すった
もんだしたのです。その様に、すったもんだする、問題が
多い、キリスト教の神だったのです。富岡教授だってその
くらいのことは知っているはずです。
 しかし、富岡教授は嘘を付きました。
 キリスト教を『巧妙に宣伝したい』からです。
 キリスト教、その姿は、もちろん多神教ですが・・、
 その姿は、「キリスト教多神教A」とか、「キリスト
教・多神教B」とか、「キリスト教多神教C」とか、と
いう姿です。
 そして、これではとなって、キリスト教の最高会議の公
会議が、やっとの決着点で・・『三位一体神』というマジ
ックを使いました。
 「父なる神」と、「子なる神」と、「聖霊」とを神とす
る・・と。しかし、一神教にしたいのだと・・。
 だから、今まで神とされて来た神は・「位格の神」とし
よう・・となった。そして、キリスト教は言った、「三位
一体神という神で、一神として下さい」と、そう考えて下
さいと・・。
 これで、キリスト教一神教になれたと、キリスト教は、
頭に刷り込みされていた『一神教になれた』と、思った。
 しかし、実体は、3つの神々に、プラスされること、取り
まとめに使った「新しい神」が、増えた・・という実態と
なった。
 キリスト教信徒の方々の頭の中には、使い分けしなけれ
ばならないことが、また、1つ増えた。
 また、キリスト教の『都合から生まれた新しい神』によ
って、また新しいストレスが、ルールが生まれた。ルール
・約束事・戒・律法がキリスト教に増えた。
 もう、神をいじる事は止めなさい。
 キリスト教には、それでなくても、整理しなければなら
ない『神々』がいっぱい居るのです。
 さすがに、キリスト教は、説明しきれないので黙ってい
ますが、キリスト教旧約聖書には、色々な預言者(予言者
)が作った神々が居て・・、
 その各預言者という(神から言葉を受けて、預言された
という者)が神を作っていて・・、
 キリスト教は、収拾がつかない状態なのです。
 本来は、棄ててしまわなければ、ならないのですが、棄
ててしまったら、キリスト教には、何も残らないという状
態になってしまいますので、キリスト教は、そのままにし
ています。
 預言者ですから、自分の言葉を神の言葉としています。
 ですから、多神教キリスト教という状態となっていま
す。名誉一神教キリスト教という状態となっています。
 パウロの様な好き勝手は、キリスト教のDNAなのです。
 預言者と言われる「あまたいる預言者たち」が、パウロ
以前から、『パウロの様な好き勝手』をやって来ているの
です。
 キリスト教に、齟齬(そご)・矛盾・食い違いが多いのは
当り前なのです。収拾は付きません、その様な宗教なので
す、キリスト教は・・。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /