キリスト教は、「有始有終」の歴史観であり、世界観である。

 題:キリスト教は、「有始有終」の歴史観であり、世界観である。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教聖書の(「ヨハネの黙示録」21・6、22・13)
に・・、
 「わたしはアルファであり、オメガである」・・という
言葉がある。
 アルファは、αで、『はじめ』であり、オメガは、ωで、
『おわり』である。
 これは、キリスト教歴史観や世界観を表している。
 キリスト教は、「有始有終」の「始まりがあって、終り
もある」の歴史観であり、世界観である。
 キリスト教の神が創造した時が始まりなのである。
 「ビックバン」が起きた時が始まりなのである。
 キリスト教にはこの始まりに対し、終わりも存在してい
歴史観であり、世界観なのである。
 宇宙は有限の世界観である。
 しかし、科学が目覚ましく発達してきた現代、「ビック
バン以前」が存在することが分かった。
 また一つキリスト教の教義が否定された。
 急に、ビックバンは起こらないことが分かったのである。
 人類始まって以来の「偉大な発明」は、キリスト教であ
り、キリスト教の神だと言いたい、・・が、
 人類始まって以来の最大の嘘は、「キリスト教」であり、
キリスト教の神」である。
 そして・・、
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 題:パウロは、「イエスは人であると見ていた」。
 (「ピリピ人への手紙」3章8〜11)で・・、
 パウロは言う・・、
 「キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかっ
て、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のう
ちからの復活に達したいのである」・・と。
 この時、パウロは、苦境にたっていた。
 そこで、キリスト・救世主を知り、イエスの復活の力を
知って、イエスの刑死の際の苦難を自分のものとし、
 イエスが経験した死を、自分も実体験した様になり、
 何も無い様に見える死の淵(ふち)より、復活する様に
再生したいのである・・と。
 ただ、パウロは、この言葉を言う時に、「律法を捨てて
いる」。
 逆に、イエスは、「律法を大切にしなさい」と言ってい
るのに・・である。
 イエスは言っている、「神の義であるが故に、律法は大
切にしなさい」・・と。
 パウロは、キリスト教徒を殺したりしていた「パリサイ
派」の、「ガリガリユダヤ教徒」の時の反動で、
 そして、その体験で、律法を捨てようと考えているだけ
なのである。
 しかし、パウロは、別の、『律法と言ってもいいもの』
を作るという『自己矛盾をしている』のである。
 また、詳細を見れば、『捨ててない律法を持っている』
のである。
 また、パウロは、イエスを予言者としか見てない。
 パウロが、この様に言うイエスは、新約聖書では、実質
「予言者」とみなしている。
 この事は、公会議でも、喧々諤々(けんけんがくがく)
「イエスは神か?人か?」で、大きく揉(も)めた事であ
る。パウロは、「イエスは人であると見ていた」。
 (「へブル人への手紙」9章11〜14)には、
 「しかし、キリストがすでに現れた祝福の大司祭として
こられたとき・・」・・と、イエスを、神と人との仲立ち
の祭儀をつかさどる祭司の人としている。
 祭司の重要業務と言えば、民が持ってきた捧げ物を、民
に代わって神に捧げる事である。
 パウロは、イエスをそう見ている。
 ただ、イエスの場合、自分自身の身を捧げたとした。
 当時、洗礼者ヨハネもそうだが、予言者の多くが磔刑
なっている。
 また、パウロは、ユダヤ教の聖職者であることから、ユ
ダヤ教正典(キリスト教旧約聖書)をよく知っていた。
 そこで、(「イザヤ書」53章1〜5、12)に、
 「(とがある)彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられ
たのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲(
こ)らしめをうけ、われわれに平安を与え、その打たれた
傷によって、われわれはいやされたのだ。・・(彼は)
とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多く
の人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」・
・と。
 ユダヤ教聖職者のパウロは、この条からキリスト教の宗
教の創作、企画をした。
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