虚・ろ・な・る・立・脚・点・・うつろなる立脚点

 題:虚・ろ・な・る・立・脚・点・・うつろなる立脚点
...(信を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 イエスは刑によって死した・・
 それを、キリスト教は・・
 「イエスが、我々の救済のために死に、そして後、復活
した」・・と言う。
 これが、キリスト教の原点なのだ・・と言う。
 このことを信じることが必須なのだ・・と言う。
 これをまず信ぜよ・・と言う。
 イエスが死に、復活したから人間は救われる・・である。
 使徒(イエスの弟子)たちが、イエスの復活を見たのだ
・・と言う。
 使徒が証人だ・・と言う。
 イエスの復活の事は、この証言によってのみ語られ、知
られた。
 イエスの復活に立ち会うことが、当然、出来ない使徒
外の、その他の人々は、我々も含めて・・その使徒の言葉
を信ぜよ・・とも言われている。
 あのイエスの刑場から逃げた使徒と言われる弟子たちが
言うことを・・。
 もうこれは理解の問題ではない。理解を越えたものであ
る。信ぜよを求められる。
 そして、「そう信じない者は滅びる」と脅(おど)され
る言葉も言われる。
 そうして、信じない者は、また、切り捨てられる。
 故に、お分かりだと思いますが、使徒の言葉だけを中心
にして、使徒だけの言葉を中心に置いて、キリスト教は、
その言葉の状態だけに権威を与えている。中心なのだから。
・・というより、当然、キリスト教の道は、権威のあるも
のという位置に置かざるを得ない状況となっている。
 故に、キリスト教は、ここを中心に、絶対性を強調し、
誇示している。
 故にまた、当然に、その絶対性は『強力に排他』の状況
となり、絶対を主張する。また、主張をせざるを得ない宗
教の形態となっている。
 イエスの復活は、その様なものであり、キリスト教の中
心に置いたパウロという人間の思考・思惑は、まず、信を
と思考し、信を要求するところからスタートする。
 そして、なぜ、イエスの弟子たちが、イエスが復活した
などと言い出したのか? 
 イエスの墓に「イエスの肉体(死に殻)」が無くなった
と・・。
 そして、モーゼが神に会う場面は、燃える柴だけが見え、
神は声だけが聞こえたが・・、
 イエスの場合は、服を着たイエスが現われたと・・、そ
して、話をしたと・・、そして、その後の時代には、イエ
スは現れていない。
 そして、ある画家の絵には、服を着たイエスが、天に登
るという絵があるが、画家は、当然、聖職者から言われ、
想像して描いた絵なのだが、本物は、この画家と言えども
見ていない。
 絵を見る人たちは、「さも、あったように」錯覚に陥(
おちい)るが・・。モーゼの神の場合とは大きく違う。
 このモーゼの芝は、今・現代でも燃えているという。
 そこにはキリスト教会が建ち、金を取って燃えている柴
を見せているという。
 故に、イエスの復活は、弟子たちだけが見ている。
 しかし、弟子たちは、イエスの昇天は見ていない。
 当然、当時の、これ以外の人たちも何も誰も見ていない。
 エルサレムの話題にもなっていない。
 エルサレムの人たちも、イエスが死ぬ所は見ているが、
復活も見てなければ、昇天するところも見てないし、エル
サレムの街で話題にもなっていない。
 それは、真実でないから。デッチアゲなのだ。
 考えれば、罪作りな話だ。この話から、何人の方々が死
ななければならなくなったというのか?
 過去に、色々な有名な研究者が、ここの所を研究してい
るが・・、語っているが・・、偉大な新約聖書学者と言わ
れる「ブルトマン」と言う人は、イエスの墓が空になった
のは「伝説だ」と断定的に言う。
 端的に言えば、キリスト教の聖書の記述は、ブルトマン
も嘘でデッチアゲだと言っている。
 そしてさらに、ブルトマンは、復活したイエスが、使徒
(弟子)に現れたのは「(実際あったのではなく)幻覚だ」
と、これもまた断定的に言う。幻覚・・『虚(うつ)ろ
なる根拠』しか持たない宗教=キリスト教なのだ。
 空想立脚点宗教=キリスト教
.
 そして、次の話。
 キリスト教聖職者は、信徒の方達へ言う・・、
 「キリスト教信仰とは、聖書の言葉を無批判・無理解の
まま真実として奉(ほう)ずることだ」・・と。
 そしてまた言う・・、
 「キリスト教信仰の立場は、人間理性の立場とは違うの
だ」・・と。だから、考えるな・・と言う。
 信徒の方々へ、「考えるな」とびっくりする様な事を言
っている。
 『キリスト教信仰の立場は、人間理性の立場とは違うの
だから、考えるな』という意味。
 そして、「信仰とは・・聖書の言葉を、無批判・無理解
のまま真実として奉ずることなのだ」と、信徒の方々が考
えて、そして、人間らしく思うことを批判されている。
 ただただ、無批判・無理解に奉(ほう)じ、奉(たてま
つ)る。
 真実なのだから・・と、それがキリスト教の信仰なのだ
と、そして、無批判・無理解の人を善(よ)き人と讃(た
た)え、ひたすら、無批判に純心に仕(つか)える人を讃
える・・それがキリスト教信仰と。
 キリスト教で繰り返すその様な行為から、洗脳され、マ
インド・コントロールされ、無批判で・・、
 理性で理解しようとする行為もしなくなり、心が、だん
だん、閉ざされて行き、心があっても無きが如くの、批判
のできない人間が出来上がって行く。
 心の働きが無くなった、無機質な心の人間が出来上がっ
て行く。
 キリスト教を信仰していると、この様に作り上げられて
行く。
 そこには心の働きが無い・・、批判もするが、切磋琢磨
して、喜びもあり、奮(ふる)い立つ心もあり、感動に沸
き、喜びに歓喜し、そして、涙する時もあり、笑う時もあ
る日常が・・その様なキリスト教のその洗脳行為によって
奪われて行く。
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