ただ、それだけの話・・、

 題:ただ、それだけの話・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教は、『唯一絶対の神』の存在を信じ・・、
 その頂点に神を、崇(あが)め、置いた。
 その神をとりなす、『神のすぐの直下の地位」に、キリ
スト教聖職者を置き、位置づかせた。
 その位置は、「信徒の上だ」という『差別のキリスト教
であった。
 キリスト教は、ヒエラルキーという『序列』の、そして、
身分差別・分け隔(へだ)ての宗教である。
 平等性は無い。
 そして、その聖職者に、信徒と神の間の『とりなし』を
させた。
 そしてまた、神の国に入るための条件、勝手な取り決め
教義などを教え、神の国の管理者の様に振る舞わせた。
 当然、聖職者たちに『特権意識』が生まれた。
 『権威』が生まれた。
 これが歴史で、『大いなる悪さ』を行った。
 特権的な『箔(はく)が付いた』聖職者たちは、聖職者
同士でも、『権威を付け合うハレンチ行為』をし合ってい
た。
 (「マタイによる福音書」16・19)に、
 「あなたが地上でつなくことは、天上でもつながれる。
 あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。
 また、(「マタイによる福音書」19・28)にも、
 「人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたし
に従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十
二部族を治めることになる」と、お手盛りである。
 この様な、聖書の言葉に洗脳されていく信徒の方がた・
・、違和感を感じなくされて、マインド・コントロール
れて行く。
 マルコは、さすが、この様な弟子たちの「特権的な理解」
を批判した。
 しかし、今、キリスト教は、この特権的理解・意識にど
っぷり浸(つか)かっている。
 しかし、マルコが弟子を批判したい気持ちも理解できる。
 イエスの直弟子たちの、まったくの無能さぶりだった。
 イエスも、(「マルコによる福音書」9・19)で、弟子
たちの無能さを見て、嘆いている。
 「何と真実(ピスティス)のない時代なのか。いつまで
わたしはあなたがたと共にいられようか。いつまでわたし
はあなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆いてい
る。
 また、(「マルコによる福音書」10・38)でも・・イ
エスは嘆いている、
 「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かって
いない」と、またまた嘆いている。
 この様に、イエスは、弟子たちを、聖書のあちこちで嘆
いていた。
 イエスの弟子たちの『無能ぶり』もあるが、それととも
に、少なくとも、イエスと弟子たちとの能力差が大きいと
も言える。
 これが原因の1つとして、マルコが福音書を書くまで、イ
エスの死後、数十年が、何もなく、時だけが無為に、流れ
て行った。
 そしてまた、化石の様なキリスト教聖書は、経時の劣化
をしている。聖書は時代に合っていない・・捨てよ。
 マルコは、マルコで、必死に、イエスの象を回復しよう
とした。
 イエスが悪霊追い出しをして、豚の群れに悪霊をのりう
つりさせ、そして、崖の駆け下ろしをさせ、そして、湖に
なだれ込まさせ、溺れ殺す話は・・、
 イエスの生誕地のガリラヤ近くのゲラサ地方の民話であ
って、オリジナルではない。拝借して来た話である。
 だから、この話は、マルコの空想の話で、真実ではない。
 更に、この話には、キリスト教会の教訓的なところはま
ったくなく、しかし、今、キリスト教会で、聖書にあると
いう事だけで、ありがたく語られている。
 何も意味もないものをも、『腐っていても鯛』的な教会
である。
 これは、「レギオン」という悪霊の話とされているが、
「ローマ軍団」の事である。
 これを悪霊として、取り付かれて気が変になった男を登
場させただけである。
 圧政に喘(あえ)いだ民を語った架空の話である。
 イエスは、悪霊追い出しはしていない。
 民は溜飲を下げただけ・・、その効果だけ。
 それだけの話。
 ただ、現代でも、これで思い出される話が、キリスト教
を取り巻いて存在する。
 アメリカ南部の「バイブル・ベルト」のキリスト教徒を
支持母体とした大統領が、湾岸戦争を始めた。
 アメリカの犠牲者は、150人だった。
 しかし、悲惨な事に、イラクの方たちの犠牲者は10万人
を越えるという悲惨な犠牲者数となった。
 アメリカでは、この悲惨な犠牲者数の違いに心を痛めた
のか?
 アメリカ各地で、紙吹雪の中をパレードする熱狂的歓迎
のシーンが繰り広げられた。
 日本でも、キリスト教の組織が、黒ミサまがいの「多国
籍軍に感謝する会」を開いた。
 苦しむ人に目が行かない姿であった。
 この自分たちだけの感性、キリスト教の発生地の生き残
りのためには、「自民族たちさえ生き残れば良いの感性」
は、今・現代でもある。
 イエスが、ここまでしていても、ゲラサ地方の人々は、
ここから出て行ってもらいたいと言い出した。(17節)。
 民は、イエスに感謝などしていない。
 イエスの「浄(きよ)め」を少なくとも、嫌った。
 または、これ以上、イエスと関(かか)わると、自分た
ちも破綻(はたん)し、滅びの予感が民たちは感じ怖れた。
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