キリスト教は、すべてを語っていると言いますが・・、

 題:キリスト教は、すべてを語っていると言いますが・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教の神は、「光あれ」と言いましたが、この神
の話はクエスチョンなのです。
 何でも知っている神が、正確に言うべきだったならば、
「電磁波あれ」と言うべきだったのです。
 キリスト教は、『人間の認識領域に留(とど)まってい
る』ということなのです。
 この様な知識のない、古代の聖書記述者が、書いたのだ
から仕方ありませんが・・?
 しかし、何でもできる、何でも知っているというキリス
ト教の神が、書いた・・書いたのですと、言うのでしたの
なら、「電磁波あれ」と言わないと・・いけません。
 光は電磁波の一部です。
 光は、人間が認識ができたという領域のものということ
で、狭い部分の話です、ほんの一部分です。
 キリスト教が、『古代の人間の認識領域で書かれている』
ということを如実に表している一つの事例です。狭い部分
の話の展開です。神の記述ではありません。
 キリスト教は、真実を書いたと言いますが、『真実では
ない』のです。部分の認識では全体が見れません。
 人間の『認識領域部分のみの世界を創って』、すべてを
創ったと錯覚しているキリスト教なのです。そして、すべ
てを語っているとしています。
 精神を学べは言いのだと、キリスト教聖職者の方で、こ
の様に言う方が居られますが、部分だけで全体の精神が分
かりますか?
 詭弁(きべん)です。
 多くを知らなければ全体は見えて来ません。
 キリスト教の論理破綻を示している一事例です。
 だから、キリスト教の思考は、人間の認識できる部分の
みを、「ああだ、こうだ」と言って思考を巡らせ・・何だ
かんだと言う・・という図となっています。
 それでは、問題は解決しません・・そして、当然、真実
も掴(つか)めません。
 神が発した言葉でできたと言いますが・・、神が、「す
べてを知ってない」ということを現わしてしまったことに
なってしまったという罪作りな話です。
 この聖書記述者は、神を無能にしてしまった罪を作りま
した。
 人間の認識できる世界は、僅(わず)かに4パーセントな
のです。この4パーセントを、『創った』『創った』と言っ
ているキリスト教となっているのです。
 また、因みに、細胞でできている人間、その細胞は分子
で構成されている。
 分子と言ったって、原子核の周りに電子が回っているが、
スカスカの隙間だらけ。
 我々は隙間だらけの存在。我々全員をその隙間を無くし
てみると、僅か『升の一杯分』しかないという。
 その様な実態。
 その升一杯を、なんだかんだというキリスト教の神とい
う話になっています。
 その他の多くの部分が埒外(らちがい)になっています。
 そのキリスト教の神が認識できる4パーセントをキリスト
教は宗教としています。
 すべてを把握した様な気持ちになって、錯覚しているの
です。真実を掴(つか)め得ないキリスト教の理由の一つ
です。認識が甘い宗教。
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 (詳しくは、以下のブログへ)
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