題:TPP、日本の農業は潰されるのか?(その1)

 題:TPP、日本の農業は潰されるのか?(その1)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 生き延びるために重要な食糧。
 国民の重要な・第一の安全保障項目。
 その為に必須の『日本の大切な農業』。
 国民の安全保障の要(かなめ)である。
 今、TPPで、かつてない大きな壁にぶつかっている日本
の『農業』。
 日本の有能な農家の方々が口にもする『大きな壁だ』
という指摘。
 日本の『食の安全保障』が大変な危機に直面している。
 TPPは、日本が望んで参加したわけではない。
 ある小さな国が始めたものに、アメリカが目を付け、参
加し、イニシアチブは何時しかアメリカのものとなり、
 日本は、そのいきさつから参加せざるを得ない『いきさ
つの中』に居る。
 今、秘密会議で進んでいるが、この様な中、NHKは、
第二次世界大戦後の日本の占領政策を行ったGHQの『農
地解放』から農業を考える番組を始めた。
 以下はそれをメモして、小生なりの記述。
 昭和20年、GHQの最高司令官・マッカーサーは、日本
政府にSCAPINー411「農地改革に関する覚書」を送った。
 それには、
 「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化し
てきた経済的桎梏(しっこく・足かせの事)を打破する」
と言って、指示した。
 まったく、日本人を上から目線で蛮民的に断定している。
 また、奴隷観念を聖書に記して、長い歴史の中、連綿と
伝えてきたキリスト教の教義の見方・有色人種蔑視に感化
され、洗脳されている如くの言い方だ。
 これ以前に、日本政府により国会に提案されていた第一
次農地改革法は、GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示
により、より徹底的な第二次農地改革法を作成した。
 そして、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。
 この法律の下に、農地が、政府によって強制的に安値で
買い上げられ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
 そして、その農地に、開田政策がとられ、唐鍬(とうく
わ)やまさかりで、開墾が行われた。 
 まったく、人力に頼る農業だった。
 地域の結びつきの力で田畑が作られていった。
 過酷な重労働だった。
 田に這う作業が人々を苦しめた。
 特に、草取りの四つん這いの作業は過酷だった。
 その労働を支える為の食事・飯は、『いっぱい喰わない
と持たなかった』と農家の方々は言う。
 その体力勝負が、その辛さを表していた。
 子供たちも皆、手伝い、家族総出の農作業の風景だった。
 昭和30年代から、日本は工業化していった。
 年率10%で、国民総生産(GDP)は伸びた。
 その伸びが、労働力を欲した。
 農村の労働力が食われた。
 そして、今も、TPPで農業が餌にされそうになっている。
 しかし、工業の伸びに比して、農業の伸びは少なく問題
となった。
 昭和36年(1961年)、「農業基本法」が制定された。
 農業に関する政策の目標を示す目的があった。
 別名「農業界の憲法」と言われた。
 基本的なものだった。
 補助金が投入された。
 農地は、曲がりくねった小さな田だったが、整然とした
広い田となって行った。
 農機具メーカーは、次々と新しい農機具を作り出した。
 かつて、農家の方々を苦しめた「手作業の労働」は無く
なっていった。
 農家の方々は重労働から解放されていった。
 『化学肥料』や『農薬』も導入された。
 収量も増えていった。
 農家も豊かになって行き、農業機器や化学肥料や農薬を、
農家の方たちは喜んで買い、使った。
 一方、若者達は都市へ向かった。村を離れて行った。
 農業地帯は労働力の供給地であった。
 村に残った人たちも、農機具を買うために、農閑期には
都市へ向かう様になった。
 米どころ山形県高畠町からも900人もの人たちが、都市
へ出稼ぎとして出た。
 工事現場の飯場の寝泊まりとなった。
 寒い風の入る環境だった。
 『人間というより道具のように扱われた』とそのころを
思い出して語る。
 この頃、「村の女は眠れない」という詩集が出た。
 残された女は心で泣いていると詠った。
 若者たちは、嫁がもらえるのか?・・と、その状況を見
ていた。
 青年団活動で生き方の模索もなされた。
 出稼ぎを止めるか?・・と。
 地元で冬場でも働こうと、切り替える人も出始めた。
 出稼ぎを止めた人は、米作りに励んだ。
 収量の多い品種を選んだ。
 しかし、国は、農家の方々の思いと全く逆の方向へ動い
た。
 国はコメの増産から逆転した策を示した。
 昭和45年(1970年)から減反政策が始まった(下記の
参考を参照下さい)。
 農家の方々は「青田刈り」をした。
 せっかく育てた稲を、草を刈る様に、まだ、穂の出ない、
田の稲を草刈り機で刈った。
 『大変なショックを心に受けました』と、農家の方は、
当時を語る。
 そしてまた、『怒り心頭だった』とも言う。
 最初の1年目は減反ができない、しない人も居た。
        (その2へ つづく)
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   (詳しくは、以下のブログへ)
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