キリスト教の権威付け

 題:キリスト教の権威付け
...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教は、教勢を拡大したいと、
 そして、それと共に必死になって「権威を付けたい」と
した。
 その為の、あらゆる行動を節操無くした。
 そこに、『神を畏れよ』のキリスト教の教義があるが、
 その教義に災いされ、
 『民を死に至らしめる行為』をキリスト教はした。
 民を殺すことによって、民を畏れさせ、そこにキリスト
教の権威が生まれるとキリスト教は考えた。
 まったく、『非人道的』な、『大罪行為』である。
 死を畏れるだけの民を・・。
 その姿に、キリスト教の権威があると、生まれたと、キ
リスト教の聖職者たちは考え、そのキリスト教の教義の行
為をした。
 その為の死を民に強いた。見せしめの死もあった。
 それ故、聖書も権威ある形へ、意味ある形へと、なって
行くとキリスト教は考え、思っていた。
 ある1例、聖書解釈・・・、
 (「マルコによる福音書」6・45〜52)に、
 文脈はまったくつながらないのだが、以下の様なあらす
じの事が書いてある。
 『イエスが、弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へ行かせる。
その間、イエスは群衆を解散させる。そして、山へ登る。
夕方になると、(弟子たちの)舟は湖の真中にいた。イエ
スは陸にいた。風が吹いて、舟を漕ぐのが難しくなった。
それをイエスが見て、夜が開けると、イエスは水の上を歩
いて、弟子たちの所に来た。そばを通り過ぎようとした。
弟子たちは水の上を歩くイエスを幽霊だと思った。そして、
大声で叫んだ。弟子たちはおびえていた。イエスは弟子た
ちと話をし、『安心しなさい。わたしだ。恐れるな」と言
った。イエスが舟に乗ると風は止み弟子たちは驚いた。パ
ンの事が理解せず、心が鈍っていたからだ」・・・と、マ
ルコは書く、これが記述のポイントである。
 聖書研究者は、これは「民間説話からとられた」と言う。
 そして、「水の上を歩くと奇をてらった話は他の宗教に
もあること」と言う。
 それにしても、脈絡がつながらない話だ。無駄な動きも
多い。
 ここをキリスト教聖職者は、意味あるものなのだと言う。
これが仕事と言えば仕事なのだが・・。
 例えば、弟子たちを舟に乗せる時に、「強いて」という
言葉が書いてあると・・この『強いて』に意味がある・・
と言う。
 弟子たちを「励まし」、「試みさせているのだ」と言う。
 そしてまた、「山へ登った」という事に対して、すぐ思
い出される有名な話。
 「モーゼが山へ登って神に会い。神と契約をした話」を
持ち出す。
 「この時、イエスは山に登って神と契約したのだ」・・
と。
 しかし、こんな大切な話を、ただ、「山へ登った」で、
あとは何も書いてない。変だと思う。
 そして、何時、山から降りたとも書いてないし、山の上
で何があったのかも、書いてない。
 イエスが山へ登ったからには、何か、『重大な』意味合
いがなければならないはずなのだが、何も書いてない。
 そこを、聖職者の口でつながっていく。
 このくらいの事を言いイエスの行動の意味合いを言う。
 モーゼが出て来る。
 そう言われても、聖書の字面だけでは、「登った」しか
書いてない。他の、何の意味合いも記されてない。
 そしてまた、「夕方、舟が、湖の真中に出たのは、夕方
という闇の世界で、湖の真ん中という「混沌(カオス)」
を表している」のだと言う。だから、どうしたがない。
 イエスが、陸にいるというのは揺れる舟の上とは違い、
揺れない陸にイエスは居ると言いたかったのだと言う。
 イエスの権威を上げる事しか意味がない、これを読んだ
信徒の方たちのためになる話の意味合いは何もない。ただ
揺れない陸に居ただけの意味しかない。
 そして、聖書の他の部分にも多くあるが、「風を止ませ
る行為」がここでも出て来る。
 イエスが、風を止ませる事をしたと説明する。そのイエ
スの凄(すご)さを分からない弟子たち、そして、無理解
を繰り返す弟子たちに、マルコは批判を展開した・・と、
聖書研究者は言う。
 だから、イエスは、「夜明けまで待ったのだ」と。
 聖書の記述の意味合いをアッピールする。
 「通り過ぎる」も、神が出現するときは「通り過ぎる」
のだと。旧約聖書にもこの様な事が書いてある・・と。
 神出現の権威づけの行為と考えられる。
 そして、イエスが「わたしだ」と言ったのは、「私は神
なのだ」と言った意味なのだという。
 だから、そこを驚いた弟子をマルコは批判したと。驚い
てはいけないのだ。ああやっぱりと思わないと。
 だから「パンの事。済んだ事まで持ち出して、マルコは
批判したのだ」・・と。
 なんだ、かんだと意味合いを付けをする。
 聖職者が、色々意味合いを付けるが・・、
「マタイによる福音書」では、「弟子のペトロが水の上を
歩いて」、イエスの所へ行っている。
 その様に、マタイは、マルコを書き直している。
 そして、風でペトロが沈みかけると、イエスに助けて貰
っている。
 ここを、キリスト教聖職者は、イエスの方が、ペトロよ
り上だと言っているのだという。
 (注):ペトロは、聖書の別の記述の中で、イエスに叱
られた時、イエスを叱り返す様な弟子で、イエスと同列
意識があるから、ここでは、この様に書かれているのだと
感じる。
 そして、キリスト教聖職者は、イエスの神格化を示して
いると強調する。『わたしだ』とだけ言った言葉で・・。
 この様な記述は、まさしく、ブルトマンが、「古代の『
魅力に欠けた』古い神話的記述」と言った様な方法で権威
づけをしている、これでしか、イエスを神格化できない。
 また、ブルトマンが『古代の泥沼にはまる」と、半分、
軽蔑した様な方法でしかできない、
 「意味のない言い方の権威付け」をする。
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