いくらかでも丁寧に読めば気が付くことなのだが・・。
題: いくらかでも丁寧に読めば気が付くことなのだが・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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キリスト教の本の著者で、日本の大学で勉強し、そして更に、
外国の大学でキリスト教『神学』を学んだ博士(○○○○氏)
が言う、
(キリスト教の聖書は、ある1つの宗教理念・哲学・宗教が、
書かれているものと思うが、そうではない)、
新約聖書の各文書では、多くの場合、互いに相容れない立場
が主張されていると言った方が適切である。
もちろん、ある程度は似たような立場の文書もある。
しかし、対立している場合には、大変大きな立場の相違があ
る・・と。もう、口があんぐり開いた話である。
こうなったら宗教ではない。よく信仰していられるなと思う。
この言葉は、「キリスト教は、右でもいいし、左でもいい
という宗教です」と言われているのだ。
また、「キリスト教は、右でも駄目、だからって、左でも駄
目という宗教です」とも言われている。こんなの宗教ではない。
キリスト教の信徒へ『道が示せない宗教』ですと言われてい
る。宗教として存立していない。
この言葉は、「宗教としての駄目通告」を受けた言葉である。
この『事の重大さに気付かない』知識レベルの人たちだけが
残る宗教と言える。方向性を示しえない宗教=キリスト教。
この研究者も言う、『なかなか、そこまで深く読む人はいな
い」・・と。
また、『いくらかでも丁寧に読めば気が付くことなのだが」
・・と。
また、「盲信が先にあるから」、
また、(キリスト教会から)権威あるものと『先入観を植え
付けられているから』・・と言っている。
そして次、もう1つの話。
科学的知識も進み、
また、倫理観に関する知識も発達した人々=現代人、
これは、長い時の流れの中で得た知識である。
過去の人たちの『積み重ね』の上にある。
得難い特性を持つに至った現代人。
この様な目で、キリスト教の聖書の言葉を見ると、
種々、気になるところも出て来る。
例えば、(「マタイによる福音書」12・9〜14)に、
「あなたたちのうち、だれか羊を1匹持っていて、それが安
息日(日曜日)に穴に落ちた場合、
手で引き上げてやらない者がいるだろうか」。
そして、(「ルカによる福音書」14・1〜6)には、
「あなたたちの中に、自分の息子か、牛が、井戸に落ちたら、
すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。
この様な、誰でもわかる行動原理の話を、
馬鹿馬鹿しい当り前の話を、
くどくどと聖書という書物の中に記し、
「神の言葉だ」と押し頂いて、
何度も読むのが信仰が篤(あつ)いと讃(たた)えられる。
この様な書を、何度も読む行為は正しいのだろうか?
日曜日であっても「牛」や「羊」が穴や井戸に落ちたら、
すぐ引き上げなさい。
ましてや、愛する息子が井戸に落ちたら、何も考えずに、
愛息を引き上げなさい。死んでしまうではないか。
キリスト教の聖書のことなど考えて「躊躇する事ではない」。
この様な馬鹿馬鹿しい話を、キリスト教聖職者は、体面を保
つために、くどくどと話を、いらぬ話をするのだろうが、これ
に関し、すぐ「聖書は間違っています」「息子さんを助けてや
って下さい」と言ってやって下さい。
(詳しくは、以下のブログに)
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