矛盾の数々が、キリスト教に・・。

 題: 矛盾の数々が、キリスト教に・・。
   どうしようもない『矛盾』が存在するキリスト教
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、「数々の矛盾の中にある宗教」と言える。
 それは、その成り立ちからその宿命を背負っている。
 キリスト教の発生地は、その環境の厳しさから、飢餓に晒(
さら)される地だった。
 そのため、民族が生存するための「マニュアル・忘備録」的
なものの必要性が存在した。
 その時々の、民族生存のための、時に応じての記述があった。
 その「マニュアル・忘備録」的なものが宗教性を帯びたので
ある。
 それ故に、当然、その書=聖書記述者が、大勢、存在すると
いう事になった。
 その経緯の中の記述者の多くの頭は、当然、様々な事を考え、
そして、記すために、『統一的見解』がある訳ではなく、
 また当然、矛盾の『論理』、『矛盾点』も多く生起した。
 民族の生存のための忘備録的な立場に留まっていれば、それ
はそれで機能した。
 しかし、そこに神が介在し、神と絡んで信仰の対象となって
行った時、宗教という名に変わった時、
 その数々の、幾通りに存在する論点は、『矛盾』としての問
題面をあらわにした。
 それは宗教としての存在の根幹を揺るがし、死命を制した。
 それ故、キリスト教の歴史は、それらの矛盾点を、何とか「
この様に考えて」とかと・・『つじつまを合わせ』という歴史
が展開し、連綿と続いて来た。
 宗教という形になって、当然、発生した信徒は、その矛盾に
よる、心の中の葛藤(かっとう)を、常に、受け、そして、処
理していなければならないという状況に置かれた。
 処理ができないことで、自分の立ち位置が、すぐに霞(かす)
んでしまうという宗教の形となった。
 その様なところを何も考えず、「ぼけーっ」としていれば別
だが・・・。
 矛盾処理が、心ででき得ない信徒には、心を悲しい状況にす
るという状況が生まれた。
 その様な、信徒を悩ますキリスト教の宗教論理の多くある矛
盾の1つが「律法」である。
 キリスト教の宗教企画をしたパウロキリスト教の骨格を作
ったパウロは、『律法を捨てた』。
 パウロは「律法不要論者」である。パウロは、律法は不要だ、
無用だ・・害があるのだの論理だ。
 パウロが、この論理に至ったのは、大きな宗教的思考から至
ったのではなく、大いに当時の社会情勢に左右され、律法無用
の立場に立っただけであった。
 故に、基本的にパウロが作った骨格の上にある現在のキリス
ト教は、このパウロの観念・論理の上に宗教教義を置いている。
 「パウロキリスト教」と言っていい立場である。
 故に、「律法は無用」としている。
 それに対し、イエスは、パウロの様な「律法完全否定ではな
い」。
 律法の『必要性を主張している』。
 ただ、無条件ではない。
 「正すべき面がある」の立場である。
 キリスト教学者が、「律法とは法律と同義である」と言って
いるが、
 現代社会では、『法律』は社会が成立する上で大切なもの・
根幹として存在している。
 そして、新しい法律ができたり、法律を修正したり(イエス
の言う正す行為)が行なわれている。
 故に、「パウロの論理」と「イエスの論理」は、
 現代社会の状況や、現代社会が採用している面からみれば、
パウロは間違っていて、イエスが正しいと言える。
 その間違ったパウロ論理の大根幹の上に、現在のキリスト教
は存在している。
 イエスの言葉に「私が来たのは正すために来たのだ」がある
が、
 また、イエスに「律法の解釈の仕方」を、この様に解釈しな
さいと主張している面もあり、「律法重視」の立場である。
 しかし、こと半(なか)ばで刑死したため、今、キリスト教
は、この面でも、イエス不本意な状態の中で存在している。
 キリスト教の解説においても、
 一般論的な論点として、『律法を厳しく守ることが神の祝福
を受けるための条件』・・という考えが、明記されている。
 パウロは、当時の、「細かい律法はうんざりだ」的な、宗教
規定の忌避の当時の世の風潮に同調しただけなのだ。
 そこで、短絡的に「律法全面否定」で、すべての律法を捨て
たのである。
 「律法の律法主義的な理念的理解は正しくない」・・と、分
かった様な分からないことを言って、パウロ路線がさも正しい
様にキリスト教は言うが、
 そして、イエス路線は否定されているが、
 そしてまた、律法で馬鹿馬鹿しい律法も多く存在するが、
 その事例だけで、すべてを捨てる行為は正しくない。
 「他人の女性が台所に入ったら、その台所の鍋の料理は捨て
ろ」とか、「歯向かうかう息子は殺しても良い」とか、馬鹿馬
鹿しい律法も多いが・・。
 しかし、路線としては、イエスの路線の、「律法を正しなが
ら、律法の中の生活が大切」というイエスの考えは正解である。
 そして、この様な間違いをしている現在のパウロ路線のキリ
スト教は、教義の中でも、このたぐいの矛盾を平気でしている。
 それは、キリスト教は言う「キリスト教というものの中で、
祝福された状態の中に生き続ける。その為に、神は、民と契約
し、その生き方の指針として指針(取り決め・律法)を与えて
くれた」というのである。
 この神の指針こそ「律法なのである」。
 つまり、「律法否定」は、「神との契約において存在した契
約の、約束事の否定になる」。
 つまり、その契約の約束事が律法と言えるからだ。
 そして、キリスト教は言う
 「無条件で与えられた祝福のうちに、民が感謝を持って留(
とど)まるようにと発した指針なのです」と。
 つまり、パウロ路線の「律法否定論」は、キリスト教の大根
幹の「神との契約」の否定につながっていく。
 今、キリスト教は、「パウロ路線」で、「律法否定論」・「
律法無用論」であり、
 キリスト教の大根幹教義の「神との契約」との「大バッティ
ング」の中に、キリスト教は存在している。
 (「詩篇」19・8〜11)では、
 「主の律法は、完全で、魂を生き返らせ、
  主の定めは真実で、無知な人に智慧を与える。・・」・・
とある。
 この矛盾する2論。
 正解は、法律=律法の必要論であるが、
 少なくとも、そのニ論のどちらかが間違っていると言え、い
ずれにしてもキリスト教の間違いの存在は確かなのである。
 キリスト教は、この問題・矛盾をどうしようもなく、ふらふ
らと、「ああ」と言えば「こう」と言い、「こう」と言えば「
ああ」と言うことで放置している。
 この様な宗教が、キリスト教なのであるが、可哀想な人々の
心を惑(まど)わせ、また、戦争などの悪さばかりをしている
キリスト教が存在している。
(参考)死命(しめい)を制・する 相手の運命を左右するような
急所を押さえる。
(参考)こっかく【骨格】 [共通する意味] ★物事を形作る基本
的な構造。[英] a framework[使い方]〔骨格〕▽計画の骨格がで
きあがる〔骨組み〕
(参考)どう‐ぎ【同義】意味が同じであること。同じ意義。
(参考)き‐ひ【忌避】 [名](スル) 1 きらって避けること。
「徴兵を―する」 2 訴訟事件に関して、裁判官や裁判所書記官
に不公正なことをされるおそれのある場合に、当事者の申し立
てにより、その者を事件の職務執行から排...
(参考)は‐むか・う【歯向(か)う/刃向(か)う】 [動ワ
五(ハ四)] 1 歯をむき出して向かっていく。また、刃物を持
って向かっていく。「野犬が―・ってくる」 2 反抗する。抵
抗する。「権力に真っ向から―・う」
(詳しくは、以下のブログに)
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