キリスト教の本(もと)について・・・。

 題:キリスト教の本(もと)について・・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教の聖書の原本は、『無い』という状態です。
 腐食しやすいパピルスであったので腐ってしまい、無いとい
う状態になってしまったのです。
 あるのは写本ばかりです。
 それも、キリスト教が当分ほったらかし状態であったので、
紀元400年〜500年の物です。
 その間は空白なのです。
 この長い空白期間は、捨て去っていたと言える期間です。
 連綿と続いて来たという訳ではありません。
 途切れています。
 この放置状態だった期間に、本(もと)が無くなってしまっ
たのです。
 だから、では、その写本が信頼が置けるかというとそうでは
ないのです。
 まったく、写本の統一性は無いのです。
 どれが本物か?、どの部分が本物か?なのです。
 同一の文の写本ではないのです。
 現代までの、今まで、『どの言葉が真の言葉なのだろうかと
いう』、悩み、さ迷う、歴史だったと言えます。
 例えば、ほんのわずかなことでもまったく違う意味となりま
す。
 この問題もあります。ピリオドの位置とか・・・。
 その位置が分からないと真意が不明となってしまう問題とか
・・・。
 この類いの不明が『非常に多い』状態なのです。
 聖書の翻訳には「釈義」という『類推』・『謎解き』的行為
を要する状況です。クイズ的状況です。
 『えいっ、やっ』と解釈するという、翻訳者の『意思』が入
って来てしまいます。
 結局、翻訳者の宗教観からの解釈が入ってしまう宗教なので
す。『神』ではないのです。
 本物へ、神へ、辿(たど)れない宗教の状態なのです。
 結局、写本の領域でふらふらしている宗教と言えます。
 宗教の根本(聖書)がこの状態で、実体がない状態です。
 世界宗教になり得ない宗教です。
 (参考)しゃく‐ぎ【釈義】 文章・語句や教えなどの意義を
解釈し、説明すること。また、その内容。
 (参考)実体:本質、本体