大学教授の言葉と、神のとりなし。

 題:大学教授の言葉と、神のとりなし。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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(副題ー1):大いなる無理を強いる宗教=キリスト教
 法政大学教授・高尾利数氏の言葉:
 「近代以降の歴史的・批判的研究を、きちんと踏まえたなら
ば、
 伝統的・正統的なキリスト教という宗教を、
 イエスが、作ろうとしたとは考えられないし、
 そもそも、イエスの十字架上の血が、
 あらゆる時代の、あらゆる人々の、罪を贖(あがな)うため
のものであったとか、
 そのイエスが、3日目に死人のうちから復活したという様な
ことが、歴史的事実として生起したなどということを、
 認める事は出来ない。

 そういうことを、「実体的・史実的事実だ」などと言うのは、
 端的に「迷信に過ぎない」と言えよう。

 近代プロテスタンティズムに発する長い探求を、
 まともに受け止めれば、
 そういう事は、当然の事である。
 そう言う認識は、あまりにも『当り前』の話であって、
 史実的事実としては、そういう事などあり得ないという事を、
 牧師であろうと、正直かつ明確に、承認すべきであると思う。
 それは、あまりにも「大いなる無理」なのであり、
 その事を、素直に認めることは、自らの精神衛生のためにも
健全なことで、
 まさに、つまらないこだわりから解放されるようになる。
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 (副題ー2):何が「神のとりなし」だ。
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 彼・Aは、正直ものだった。
 何も不法を働かず、正直な生活をし、公正な民だった彼・A
を、
 キリスト教の神は、他の民・B(彼・A以外の民、この民もま
た、公正なる民たちだった)が、
 この他の民・Bたちが、背(そむ)いたからと、
 その善良なる彼・Aの一人をターゲットに、
 キリスト教の神は、手を掛け、イジメ抜き、殺す。
 これでは、学校で起きている『虐(いじ)め・イジメ』では
ないか。
 何の罪もない、善良な人、一人だけをターゲットにイジメ抜
く、そして、最後には命を奪う。
 この様な、『話の設定』が陰湿だ。
 キリスト教は、この様な話に満ち満ちている。
 本当に、必死にキリスト教の聖書を読むと、洗脳され、意地
悪な・陰湿な性格になってしまう。
 それにしても、この様な、キリスト教の神の、なんと、卑劣
なことか。
 また、この様な宗教設定の、何と貧困な想定だろうか?
 この『陰湿ないじめの設定』に憤(いきどおり)りが涌(わ)
く。
 殺された彼・Aは、「その口に偽(いつわ)りがなかった」
という。
 また、彼・Aは、「毛を切る者の前に、ものを言わない羊の
様に、彼は口を開けなかった」というではないか。
 この様な彼を捉え、そして、殺すとは? 卑劣な宗教設定だ。
 この様な話に、毎日、接していると、洗脳され、この不合理
に、まったく気付かない・鈍感な人間となり、
 逆に、ありがたさを感じる様な、曲がった・ひねくれた倫理
観となる。
 そして、『その神の義がある』からと、コントロールが利か
なくなった心で判断し、戦争をし、平気で人を殺す様な人とな
る。
 何が「神のとりなし」なのだ。この様な嘘で人々を錯覚させ
る。
 ただの、キリスト教の神を語った「戦争指令」「殺人指令」
なだけではないか。
 まやかし・いんちきの戦争指令で、こうやって洗脳して、人
を殺しに行くだけではないか。
 キリスト教に何と戦争の歴史が多いことか。
 教義を変えよ!
 現代社会でも、このトリックに引っ掛かった指導者がいた。
 そして、戦争をした。
 (参考)とり‐なし【取(り)成し/執(り)成し】 1 対立
する二者の間に入って、うまく折り合いをつけること。仲裁。
また、仲介。
 (参考)まやかし ごまかすこと。また、そのもの。いかさま。
いんちき。