キリスト教聖書・・本当に、宗教的意味合いはあるのだろうか?

題:キリスト教聖書・本当に、宗教的意味合いはあるのだろうか?
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教の聖書にあるイエスの言葉:「皇帝のものは皇帝
に、神のものは神に返せ」は、「マルコによる福音書」の唯一
のイエスの「真正」な言葉とされている。
 何と「マルコによる福音書」には、イエスの言葉を書いたと
いうキリスト教聖書の、それも、最初に書かれたというこの福
音書に、イエスの言葉はこれしかない。
 これは聖書学が進んで来て、研究の結果、この様なことが分
かって来たのである。
 因みに、福音書は50あったと言われている。しかし、その多
くが、主義・思想が合わないと、当時のキリスト教徒の判断で
焼かれ、『焼却処分』されていた。
 そして今、4つの福音書だけが、「福音書はこれだけだ」と
思わせる様にして、取扱われている。(近年、何点かの福音書
発見されているが・・)。
 当時のキリスト教徒の浅はかな焼却処分行動を、今現代でも、
糾弾したい。
 そして、「マルコによる福音書」のこの言葉は、学者たちの
研究の結果、この福音書の中にある、色々なイエスの言葉の内
で、イエスの真正な言葉だと言えるものは「この言葉しか無い」
と結論された。そして、聖書学者たちは、「これは、正に、イ
エスの代表的な言葉であると言える」と言っているが・・・、
「しかし」である。
 結論を先に言うと、この言葉は、唯一の真正なイエスの言葉
だとはいえ、「信仰とはまったく違う言葉」である。
 イエスの宗教観の披露などという話とは、ほど遠い代物だ。
 「解説を聞かないと、まったく理解できない」という聖書の
言葉の「代表的な事例」ともなっている。
 昔から、この言葉は、『議論百出』の問題の言葉であった。
 キリスト教の聖書は、皆、この類(たぐ)いで、直読しても
理解できないという代物が多い。説明も不十分という状況とな
っている。
 この「マルコによる福音書」の文は、「税金を支払うか、支
払わないかの問題」というだけの話で、何ら宗教的意味もなく、
深い意味もない。
 また、当時のユダヤ教の一派のファリサイ派が、イエスを引
っ掛けようとした言葉だと、キリスト教は説明しているが、そ
の様な引っ掛けの質問でもなかった。
 当時、ユダヤの民(イスラエルの民)は、重税に苦しんでい
た。税金の種類も多かった。課税者が、支配者のローマ帝国と、
宗教組織の2組織があった。
 民は、支配されているローマ帝国から、「人頭税」を支払わ
されていた。
 征服者のローマ帝国は、被支配民族のユダヤ人が、「支払い
能力があろうとなかろうと」「1人いくら払え」という人頭税
を課し、ユダヤ人の反感を買っていた。
 この過酷な税金の取り立て役(ローマ帝国の手先)が「取税
人」である。
 ユダヤ人は支配され、貧困にあえぎ・苦しんでいたが、この
取税人は「吸い上げた金」で豊かに暮らしていた。つまり、豊
かな金が手元に残ったのだ。
 取り立てが多ければ多いほど、取税人に金・カネが残るとい
う取税システムだった。そのため、取税人は同民族のユダヤ
民から税を必死に取り立てた。獅子身中の虫的な民衆の敵
「取税人」は、当然、嫌われていた。
 しかし、イエスは、この取税人の家に上がり込んで、飲み食
いするのが好きだった。
 そして、話を元に戻すが、ユダヤ教のある派が、ローマ帝国
に支配され、民は「人頭税」を払わされているという苦境の時
に、このローマ帝国にゴマスリをした。それが、ファリサイ派
の「ヒレル派」だった。
 しかし、ファリサイ派にはもう一つ派があって、その「シャ
ンマイ派」は、アンチ税支払派で、税支払いには反対派だった。
 つまり、イエスに質問をした人は、このファリサイ派の人だ
った。イエスの態度が、どちらなのかを見定めたかったのであ
ろう。我々の派か?それとも・・と。
 故に、質問した人には、悪気はない。
 しかし、イエスには警戒心があった。ひねくれて話を受け取
るというイエスの性格もある。
 のっけから、イエスは、「私を試すのか?」と言った。
 そして、イエスが、この質問に対し、「支払うな」と言えば、
ローマ帝国に抵抗する過激派と同じと、イエスは見なされる危
険があった。
 また、「支払え」と答えれば、ローマ帝国に反感を持つ民衆
への「裏切り者」にされるという一面があった。
 そういう意味から、答え方は難しかった。
 また、民衆は、宗教組織が課す税金、宗教上の金「神殿税」
も支払わされていた。
 この様に、種々の税で、民衆は、税の重さに喘いでいた。
 そして、問われたイエスは、銀貨を持って来させる。
 その理由は、その銀貨の刻印が、皇帝の肖像だけではなく、
皇帝を『神格化』する文字・文言も、刻印されていた。
 その刻印文字には、「崇高な神の子、神聖なる皇帝ティベリ
ウス」と刻まれていた。
 イエスは持って来させて、それらの事を確認させた上で言っ
た。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神へ返せ」・・と。
 この言葉は、イエスの得意な手法となっている。質問には、
直接答えないのである。
 この言葉は、『税金を支払え』と言っているのか、『支払う
な』と言っているのかは『はっきりしない』、不明なのである。
 銀貨に皇帝の肖像が描いてあるから、銀貨の金は皇帝のもの
として、皇帝へ税金を支払えと言っている様にも解釈できる。
 でも、直接的にはっきりとそう断定的に言っている訳ではな
いので、その様に判断することも躊躇される。
 また、上記の様に、皇帝のもののようにも見えて・聞こえる
が、皇帝が『神格化されてもいる言葉』もあるので、その後の
言葉の「神のものは神へ」にも絡(カラ)むのでは?となる。
 そして、「神殿税」の存在も問題を複雑化し、絡む様でもあ
る。
 また、解釈の仕方によれば、前の言葉が「人頭税」で、後の
言葉が「神殿税」で、イエスは、両方「スッキリと払いなさい」
と言っている様でもある。
 今、説明したように、その言葉の中に不確定な・あいまいな
面があり、「質問には答えていない」とも言えるのである。
 人頭税支払い反対で答えれば、民衆はやんやと喝采をしただ
ろう。そして、公権力からは、イエスは過激派の烙印を押され
ただろう。
 イエスは、ここを、明確に民衆の喝采する立場にも立たず、
あいまいな言葉を発したのである。結論的に言えば、逃げたの
である。
 今、教会で、この様な事は知らないだろうと、聖職者は「あ
る」「ない」を問わず、適当に脚色し、宗教的な粉をかけて、
キリスト教信徒の方々に話をするだろう。そして、キリスト教
信徒は「ふうん」と聞くのだろう、キリスト教聖書を読んだだ
けでは理解できない。ここまで説明してないので、理解はでき
ないから。
 しかし、(ここが大切なのだが)、知ったからと言って、何
ら宗教的な、含蓄のある意味や言葉になるという訳ではない。
 イエスが問題から逃げたという事が分かるだけだ。
 身の危険を感じ、身の保全を優先させて逃げた言葉を言った
だけなのだろうが、当時、預言者は「みな殺されて」いた。
 イエスも、当時、多く居た預言者の一人とみなされていた。
 また、イエスも、急に「最後の晩餐」になった訳ではなく、
危険を常に感じていただろう。公(おおやけ)の預言者でもな
かったし。