曽野綾子さんの話の「つづき」・後編。

 題: 曽野綾子さんの話の「つづき」・後編。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教の教義の性悪説的に生きていると、厳しい言い方
ですが「人生がうまくいきません」。
 性悪説的な考え方・思考では、人生を躓(つまづ)かせます。
 曽野綾子さんの考え方・思考についての事例を書かせて戴き
ましたが、
 キリスト教の聖書の中にも、その事例がありますので、以下
に書きます。
 キリスト教の聖書は、誤記が多い状況です。
 「誤訳だらけのキリスト教聖書」と言えます。
 その1事例になります。
 日本語に訳されているキリスト教の聖書の(「ルカの福音書
6・31)を見ますと、
 新改訳聖書日本聖書刊行会発行)のキリスト教の聖書には、
「自分にしてもらいたいと願う通り、人にもそのようにしなさ
い」と訳されています。
 また、新共同訳聖書(1987年初版の日本語訳の一つ)では、
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と訳さ
れています。
 また、口語訳聖書(日本聖書協会発行)では、
「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそ
のとおりにせよ」と訳されています。
 日本語に訳されている聖書の3種類とも、その相互の違いは
ありませんが、だからと言って「間違っていない訳なのだ」と
思ったら間違いです。
 つまり、この総べてが、誤訳なのです。間違いの訳なのです。
 つまり、日本語訳の聖書の3つとも、
「自分が人にしてもらいたい行為を、そのまま人に施す」とい
う意味に訳されていますが、
 「原典」の聖書は全く違う記述なのです。
 つまり、この日本語の聖書の翻訳者の方々は「性善説」の方々
なのです。
 本質は、性善説に思考する方々が、翻訳したので、この様に
なってしまったのです。
 つまり、日本語訳を吟味してみますと、
「すべての人々は性善であるので、勿論、あなたも性善である
ので、性善の人々がしてほしいと思うことは、性善の貴方がし
て貰いたいということなので、性善的に人にもそのようにして
差し上げなさい」という『性善説の論理の展開』になるのです。
 人々すべてが、善人です。それが当然なのですという、意味
です。
 つまり、キリスト教の「人には原罪がある」という前提では、
この様な展開は間違いです。この様にはなりません。
 そして、この様に解釈はされません。
 このキリスト教の「聖書に流れる本質」や話と矛盾するので
す。
 このキリスト教の原典は、ギリシャ語で書かれていますが、
その意味は、「人にされた事をそのままお返し、あるいは仕返
し出来るように神様に願え」という意味で書かれています。
 性悪説で世の中を見て、そして、そう捉(とら)えての記述
なのです。
 つまり、「人間は全て悪人であるから、人に悪を行なうと、
人が悪をお返ししてくれる」。
 つまり、「報復」の記述だったのです。
 『報復の警告』を、信徒の方々へ伝える記述だったのです。