母・マリアは、イエスを捕えに・・・。

 題:母・マリアは、イエスを捕えに・・・。
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 有名な話なので御存じだと思いますが・・、
 お母さんと兄弟姉妹は、一番大切な人たちです。
 ましてや、お父さんが無くなっていれば、特に。
 その様な時、
 お母さんや兄弟姉妹たちが貴方を訪ねて来たとしたら、
 貴方は飛んで行って「会っていなかった空白の時間を埋める
様に話を始めるでしょう」。
 そして、お母さんや兄弟姉妹の健康を気遣い、尋(たず)ね
たりします。
 しかし、次の様な文があります。
 母と兄弟姉妹たちが、訪ねて来て、訪問先の外に立ち、
 そして、人をやって、その訪問を知らせた。そしてその時。
 その人の周りにいた人たちも、「御覧なさい。母上と兄弟姉
妹がたが外で貴方を捜(さが)しておられますよ」と教えた。
 すると、その時、その人は言った。
 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか?」と答えたという。
 そして、周りに居た人たちを見まわして言ったという、
 「(その人たちは、わたしの母ではない。わたしの兄弟姉妹
でもない)。見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がい
る。神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母な
のだ」と。
 つまり、信仰を行なう人が父母・兄弟姉妹なのだと言いたか
ったのでしょう。
 この人の父母・兄弟姉妹が同じ信仰なのにです。
 違う信仰を行なっていたということではないのにです。
 一緒の信仰をしているのに、この様な言い方をした。
 この母と兄弟姉妹たちが、わざわざ訪ねて来たのは、何か大
切なことがあったのでしょう。
 周りの人たちも、そのことを知らせてくれているのに、
 この様な「無視する言葉」「不忠義な言葉」を言う。
 それも、一番大切なお母さん、そして兄弟姉妹に対して。
 この人の人間性に疑問を感じませんか?
 軽蔑する心も起きませんか?
 周りの人に教え導くためだとしても、適切ではありません。
 非常識です。
 温かい人間性を感じる言葉ではありません。
 優しい心の欠片(かけら)もありません。
 このお母さんはマリアです。
 兄弟姉妹と一緒にイエスを訪ねて来た時の話です。
 この話は、キリスト教聖書の(「マルコによる福音書」3・
31)にあります。
 信仰しているあなた達が大切と言いたかったとしても、
まったく適切な言葉ではなく、また、適切行動が取れていない
です。しょうわる(性悪)さがあります。
 人をさびしい、悲しい気持ちにさせる話です。
 この様な話に、毎日、接していると・・、
「自分の人間性もしょうわるに感化されるので、注意が必要で
す」。
 聖書記述者の人間性もこの様に駄目だったので、この様な聖
書になったのでしょう。
 この様な記述は伝承される価値はありません。
 しかし、恐ろしいことにキリスト教はこの様におかしな話で
感化しよう、宣教しようとしています。
 色々な理屈・屁理屈を言って、理由付けをします。
 これは正しいのだと。
 信徒の方達は、最初は変だと思っていても、接しているうち
に、洗脳され、おかしいと感じていたことが、正しい判断がで
きなくなってきます。
 最後は「そうかなー」と思い、自分の母や兄弟姉妹たちにも
同じ様な行動や言葉を言うような人になっていきます。
 キリスト教聖書は「無謬だ」「間違いない」と言い続けられ
ていると・・・、
 だんだん、判断力も低下してきます。
 恐ろしい感化が気付かづに進行して行きます。
 何も正しく判断できない羊がそこに居るという状態になりま
す。
 聖職者はその効果がより上がる様に、壇上に上り、着飾り、
振る舞って言うでしょう。
 イエスの母・マリアは、イエスの従兄弟の洗礼者ヨハネ(イ
エスの母マリアにとっても親族の洗礼者ヨハネ)が、捕縛され
処刑されている。
 それで、イエスの所へ、イエスを気遣って、兄弟姉妹を連れ
て一緒に来たのでしょう。
 ある福音書には「イエスの母・マリアは、イエスが気が狂っ
たと思っていた」と書かれている。
 そしてまた、「母・マリアは、兄弟姉妹と、イエスを捕えに
来たと書かれている。