時代を超越すると存在に耐え得ない・・、

 題:時代を超越すると存在に耐え得ない・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は言う、「信じなさい」・・と。
 そして、「信じれば、そこに神の救いがある」と言う。
 そしてさらに言う、「1+1=2の様な理屈ではない」・
・と。「だから、信じて見なさい」・・と。
 だがしかし、キリスト教にそう言われてみても・・、
 今までのキリスト教を見て来て、まったく信用できると
いうころが、無いという、キリスト教が・・そこにある。
 誰が見ても、キリスト教には、誤謬(ごびゅう)・卑劣
さ・悲惨さ・脆(もろ)さ・劣悪さなどがある。
 その様なことは、冷静に考えれば、誰でもすぐ分かる事、
キリスト教は、すべてが駄目なのだ。
 キリスト教の歴史だけを見ても、人を殺してばかりいる。
 それも、半端(はんぱ)ではない大勢の人を・・、世界
中のあちこちで・・、長い歴史中・・ずーっと・・、
 大罪人を、とうに通り越している、キリスト教の罪状は、
大きく大きく存在している。それも、本当に、長い期間、
殺しまくっている。
 この様な状況からでも、キリスト教のこの悪の行いが、
 これだけとっても・・絶対に駄目・・と、言える。
 そして、聖書が基本と言うが・・この基本だが、「めち
ゃ、くちゃ」で、間違いだらけ、矛盾だらけで、オーバー
に美化しているだけ。
 大げさに、過剰に「キリスト教だけ」が、美化されてい
るだけ。
 だから、教義も最悪になっている。矛盾も多いが・・、
質(たち)も悪い・・殺人指令は、あちこちにあるし・・、
 善良な人でも、これでは『殺人鬼』になってしまう。
 そして、怖(こわ)いところは、その事を悪い事だと思
わなくなる様に仕掛けてあるということ、
 神の義(正義)だから良いのだ・・とかと、
 だから必然、キリスト教に殺人行為が多くなる訳なのだ。
 「異教徒は殺せ」「魔女は生かしておいてはならない」
など、記述内容も、具体的詳細に、悪行為のやり方などを
神が勧(すす)めているなど一杯ある。悪のマニュアル本。
 キリスト教に熱心なキリスト教徒の作家が言う・・、
 (ユダヤ教の)ファリサイ派の人が、イエスに言う、
 「あなたが預言者なら、自分に触れている女が誰である
か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言う。
 するとイエスは、罪深い人であるからこそ、多くの罪を
許されるのだと反論し、マクダラのマリアに、「あなたの
信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言った。
 しかし、ここのところを良く考えてみると、このイエス
ユダヤ教徒だ。マクダラのマリアもユダヤ教徒だ。
 これは、ユダヤ教の話なのだ。
 イエスは、「宗教を立てる」「宗教を立宗する」という
意思は、まったく無いので・・、
 ユダヤ教徒のイエスが、そのまま、ユダヤ教徒のイエス
として、この事を言っているという、ユダヤ教のことなの
だ。
 このイエスの頭の中には、「ユダヤ教の事しか」ないし、
 イエスユダヤ教を信じていたし・・、そして、イエス
の立ち位置は、「ユダヤ教を捨てなくてもよい」、だが、
ユダヤ教は、直さなければならない」という、立ち位置
だし・・、
 そして、イエスは言う、「わたしは、そのために来た」
・・と。ユダヤ教改革者、その意義を感じていたイエス
 故に、ここでイエスが、マクダラのマリアに言った事は、
ユダヤ教を信仰しているあなたは救われる」なのだ・・、
 そしてだから、イエスは言った・・、
 「ユダヤ教を信仰するあなたは、安心して行きなさい」
・・と。キリスト教ではないのだ、イエスが言っているこ
とは・・。
 キリスト教徒の作家は、ここに信仰の核心があるという。
 確かに、このキリスト教徒の作家が言う様に、これは、
すべての宗教に通じる、困っている人にこそ、宗教が必要
なのだ・・という所。
 当り前なのだ。深い話などでも何でもない。
 宗教の目的が、すべて救いなのだから。多く困っている
人はさらに必要なのだ。
 当り前なのだ。
 キリスト教だけの事を言っているのではない。少なくと
ユダヤ教だ。イエスが言っていることは・・。
 困っている人、助けを求めている人、罪深い人などの方
へ、どの宗教も手を差し伸べるのが目的で、立宗されてい
るのだ。
 因みに、先にも書いた様に、イエスには立宗しようとの
意識は完全に無かった。
 ユダヤ教の改革主義者だった。
 キリスト教の作家はここに神の愛を感じるというが・・。
 イエスが生存していたころは「ヤハウェ神」である。
 三位一体神のキリスト教の神ではない。これは誰も口を
はさめないこと。
 今・現代、キリスト教は三位一体神を信仰しているが・
・、その神ではない。
 今・現代にキリスト教徒が信じている神と、イエスの神
は、別なものなのだ。宗教も別なのだ。
 そして、イエスには、「娼婦」は、「娼婦という行為を
している女」は、「罪深い女だ」という意識があった。
 その様なレベルにあるイエスの意識が分かる。差別の意
識があったと言える。
 今・現代、姦淫罪が無くなって・・、
 姦淫罪というと、遠い昔の『封建的な罪だ』という感覚
があるが・・、
 その封建的感覚と同じレベルの感覚・意識が、古い意識
が、イエスにはあったと言える。
 女を見たら、それだけで姦淫だと言ったイエスの感覚だ。
女を見ると色眼で見ているというイエス。『品(ひん)の
いい女性だな』などと・・見てはいけないという話。『知
性の満ち溢れた女性だな』などと見てはいけないという話。
教養がありそうだな・・とか、清楚な方の様だな・・など
など・・など・・など・・。
 女性を見ればすぐ、そちらの方を、すぐ、頭に浮かべる
という話。女性イコール姦淫・・という。イエスの頭の中
はこれだったのだろうが・・現代感覚とは違う、そして色
々な面で、『ずれ』が生じているキリスト教とイエスだが、
『ずれの1つ』がこれ。
 『ずれのある宗教』=キリスト教という一つの例だ。
 キリスト教には、『時代を超越する示唆はない』。その
様な宗教。
 だから、経時劣化をしている。
 『今の時代の中の存在』に『耐えることができない』宗
教。人類は救済できない。皆様も幸せにできない。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /