キリスト教の、福音書について・・・。

 題:キリスト教の、福音書について・・・。
.....(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教の聖書は、何ら深い示唆を与える本ではない。
 まず、非科学的記述に満ちている書物だ。非科学的害毒を流
していると言える。また、非道徳的な記載が驚くほど多い。
 例えば、兄弟で殺し合ったり、息子が父親を裏切ったり、親
切な牧場主をだまして、女房・子供を置き去りにして、逃げ回
ったり、非道徳的な本の極みにある。
 故に、かばった言い方をしても、せいぜい「道徳本」程度の
ものとしか言えない。
 また、聖書記述者のレベルも低かったし、程度も悪かったの
だろう、また、日本語への翻訳も程度が低い状態。
 元々、宗教的意味の無いものだったからだろうが、翻訳者も
苦労したのだと思えるが、記述内容で頭をひねるところが多す
ぎる。聖書と呼ぶが(民族が厳しい砂漠の地で生き抜く『マニ
ュアル』と言うべきもの)。
 キリスト教系の学校へ行っている子供が「辛(つら)い」と
言う。週に、2時間も学習時間があると「嘆(なげ)く」。
 キリスト教の聖書は、福音書を比較したりすると、その悪さ
かげんが分かる。
 前に書かれた福音書を参考にして、後の福音書は、書かれた
というが、前に書かれた福音書の「批判書だ」ということが分
かる。
 「共観福音書」とキリスト教が言うが、プロパガンダ(嘘宣
伝)だ。
 ドロドロしたキリスト教内の『路線争い』を隠している言い
方だ。路線とは「考え方が違う」という意味だ。
 キリスト教の原初の時代、発足時にも、この宗教に、長い歴
史に渡って存在する、今・現代もあり過ぎるほどある路線争い
が、「原初の時代」からあった。「共観」などしていない。
 書く必要性は「前の福音書が駄目だから書いたのだ」と主張
している。
 百歩譲って、書くのは良いとしてあげても、自分の考えと違
って居ると、理由を問わずに、前の書いてある部分を簡単に削
除したり、違う考えを書き込んだり、好き勝手をやっている。
 『改悪』もいっぱいある。「共観福音書」などとんでもない
言い方だ。共観などしていない。
 「マルコ」・「マタイ」・「ルカ」・「ヨハネ」の4つの福
音書があるが、前の3つを「共観」と称しているが、
 「共著」ではない。
 共著と錯覚した感じを持ってはならない。
 これ等の記述者は、各自勝手に書いている。だから、矛盾点
も多い。
 まとまらない性格のキリスト教が形成された原因の1つだ。
 キリスト教プロパガンダ(嘘宣伝)が得意だが、聖書の呼
び方まで、この様に嘘宣伝している。
 ある教会は、聖書は一人で読むと危険だから『一人では読ま
ないこと』と指導している。聖書とはこの様な書物。聖でも
何でもない。じっくり読んで「味わい」「養われる」というも
のでは無い。
 聖職者が勝手に美しく解釈し、聖職者の独自の宗教観が、自
分の宗教が教会で話されるが、こうしないと、こう話さないと、
成立しない聖書の記述であり、宗教なのである。
 聖書の中に立派な宗教観などない。短い道徳的記述はあって
も、宗教観はない。そのほとんどが、害あって益なしという書
物。
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(追伸)
 キリスト教聖職者やキリスト教徒が、イエス・キリストの言
葉に「汝の敵を愛せよ」という言葉がありますという。必ず、
この言葉を言う。そう、その通りと思います。良い言葉です。
 しかし、その次の言葉が出て来ないのが現状。
 聖書は全く悲惨な事ばかり書いてある。本当にここまで書く
のですか?と聞きたくなる感じです。
 誰だって、すこしくらい、汝の敵を愛してやってくれ、
 『汝の敵を愛せよ』と言いたくなります。
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 (参考)共感福音書Wikipediaには以下の様に書いてある)
 :共観福音書(きょうかんふくいんしょ)は、キリスト教の新
約聖書の四つの福音書のうち、ヨハネ伝を除くマタイ伝、マル
コ伝、ルカ伝のことを指す。この3つには共通する記述が多く、
同じような表現もみられる。聖書学の研究の結果、本文を相互
に比較し、一覧にした共観表(シノプシス synopsis)が作られ
たことから共観福音書と呼ぶようになった。