どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き放たれた理想の境地にいたるか 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 4」

 題 : どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き放たれた
        理想の境地にいたるか 
               五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 4」
 
映 像: ガンジスの河の上を舟に揺られる、五木さん。
五木さん: あのー、私自身も、河というものについて、非常な思い
     入れがありました。
      ちょうど子供時代。小学校の頃は、今のソウルで過ごし
     たんですね。
      京城(ケイジョウ)といいます。
      京城には、ハンガン(=漢江・かんこう)という、当時は
     漢江と言いましたけれども、ハンガンという、実に大きな
     流れがありました。
      そして、中学時代を過ごした、ピョンヤン(=平壌)という
     町には、ケドンガンというのですが、大同江(ダイドウコウ)
     という名前で私達は呼んでいたんですが、
     ここにも楽浪郡時代からの大きな流れがありまして、
     その河の流れを往復しながら、学校に通っていました。
      いつも、その大同江の岸辺に立って、数千年の歴史、
     あるいは人生、自分の将来、いろんな事を空想したもんで
     す。
      ・・で、敗戦になって、
      私達、外国からやってきて、その国を支配していた人間
     は、その国を去らなければならないわけです。
      引揚者と言いますか、難民となって、
      私達は、ピョンヤンから去る訳ですけれども、その引き
     上げが始まるまでの1〜2年の間に、本当にたくさんの
     人々がそこで亡くなりました。
      夏ですと、どこか目立たないところに穴を掘って、火葬が
     できるんですが、冬は零下20度、30度という寒さに
     なります。
      もう地面もツンドラの様に凍ってですね、ツルハシも
     立たないほどなのですね。
      そこで仕方なく、火葬にすることも出来ず、土葬にする
     ことも出来ず、テンドンガンという凍りついた厚さ1メートル
     以上も氷が張っている河の、魚を釣るために、あちこちに、
     ぽこっ、ぽこっと穴が開いているんですが、
     毛布に包んで、その穴から流して弔うということが、
      しばしばありました。
      母も昭和20年の敗戦から1ヶ月後に亡くなったんで
     すけれども、遺骨を持ってくることが出来ませんで、ほん
     の一束だけ、髪の毛を切って、遺髪を持って来て、ずーっと
     戦後50年くらい、持ち歩いていたんですが、
     ある時、奈良の小さなお寺に、父の遺骨と一緒にお預け
     しました。
      ただ、気持ちとしてはですね、そういう河に流したかった
     という気持ちの方が、本当は自分の心の中に自然に
     感じられていたんですね。
      ですから、今度、御縁があって、ま、突然インドに来る、
     そして、ガンジスの河も渡る、こういう機会を得た時に、
     何か、ちゃんとした弔いも出来なかった、その母の思い
     入れを、この川岸に残して行きたいという風に思って、
     遺髪の中から、1本か2本、持って来たんですが、もう、
     細く、枯れてしまってね。
      髪の毛と言えるようなものでは無かったですね。
     (そして、お母さんの髪の毛を焼き、インドのガンジスの
     河の流れに流す、五木さん。
      五木さんの顔が可哀想で見ていられない感じ)
映 像: 五木さんがお母さんと撮った幼少の写真。
      ・・・お父さん・お母さん・兄弟と幸せそうな写真。
      ・・・幼少の五木さんが、お母さんと手をつないでいる
       写真・・・)
ナレーション: 五木さんは、昭和7年、九州の山村で教師をして
     いた両親の元に生まれました。
      生後まもなく、一家は新天地を求め、当時、日本の支配
     下にあった朝鮮半島に移住。
      12歳の時、ピョンヤン終戦を迎えました。
      その時から、一家の運命は暗転します。
      愛する母親の非業の死。
      絶望する父。
      2年後、日本へ引き上げて来ますが、父親は立ち直る
     ことなく、この世を去りました。
      何故、自分は生き残ったのか。
      その思いは、五木さんを仏教の世界へと強くひきつけて
     行きました。
      49歳の時、作家活動を中断、大学で仏教を学び始め
     ます。(龍谷大学時代の勉強する五木さんの写真)
      4年後、再びペンを手にしてからは、「人々の苦悩に
     仏教は答え得るのか」という視点で、作品に取組んで来
     ました。

        その時、
        ガンジス河は水が満ちていて、
        水が渡し場の所までおよんでいて、
        平らかであるから、
        カラスでさえも水が飲めるほどであった。
        ある人々は船を求めている。
        ある人々は大きないかだを求めている。
        また、ある人々は小さないかだを結んでいる。
        いずれも
        彼方の岸辺に行こうと欲しているのである。
        そこで、
        あたかも力士が屈した腕を伸ばし、
        また伸ばした腕を屈するように、
        まさにそのように僅かの時間の内に、
        こちらの岸において没して、
        修行僧の群れと共に向こう岸に立った。
        ついで尊師は、
        ある人々が船を求め、
        ある人々はいかだを求め、
        ある人々はいかだを結んで、
        あちらとこちらへ
        行き来しようとしているのを見た。
        そこで尊師は、
        この事を知って、
        その時、
        この環境の言葉を一人つぶやいた。
        『沼地に触れないで橋を架けて、
        広く深い海や湖を渡る人々もある。
        木切れや、つた草を結びつけて、
        いかだを作って渡る人々もある。
        聡明な人々は、
        既に渡り終わっている』

ナレーション: ガンジス河を如何にして渡るか。
      それは、どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き
     放たれた理想の境地に至るかという事の例えだとされて
     います。
      仏陀は、いともたやすくガンジス河を越えました。
                          (つづく)
(訂 正): 「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナ
     ンガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」と三
     度唱え、仏教の三宝に帰依する。