破壊さるべきものであるのに、それが破壊しないようにという事が、どうしてあり得ようか 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 12」

 題 : 破壊さるべきものであるのに、
         それが破壊しないようにという事が、
             どうしてありえようか 
                  五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 12」

映 像:  涅槃堂への道を歩く五木さんに涅槃堂の鐘の音が響く。
ナレーション: 敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃
     堂を見守り続けております。
     (涅槃堂に入っていく、五木さん、そして、涅槃像の前で座り、
     祈る、五木さん)
ナレーション: 仏陀が入滅したときの姿を顕す大涅槃像。
      死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が集まっ
     たと言います。 
      大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩んできた
     弟子・アーナンダの像が刻まれています。
      今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・アーナ
     ンダ。
      仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。

        止めよう、アーナンダよ。
        悲しむな
        嘆くな
        私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
        すべての愛する者
        好む者からも
        別れ
        離れ
        異なるに至るという事。
        およそ、
        生じ
        存在し
        つくられ
        破壊さるべきものであるのに
        それが破壊しないようにという事が
        どうしてありえようか 」。

ナレーション: 仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
      励まし続けました。
映 像:  涅槃堂から出て行く五木さん。出口のところで手を合わせ、
      静かにあたまをさげる。
ナレーション: 五木さんの仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
      (大きく鐘の音が響く)
五木さん:(五木さんにとって、理想的な死と言うものがあるのでしょ
     うか・・の、問いに、五木さんは) 
      それは、僕・個人の事は、旅の途上で消える様に、死んで
     行ければ幸せだと思いますね。
      あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校し、中
     学校は3回変わり、ほとんど自分の家というものを持たずに、
     転々と過ごして来ましたから、ずーっと自分の人生は旅だと
     考えて来ましたのでね。
      生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、世を
     去るというのは本当に理想な終わり方ではないかと思います。
      その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80を重ね
     て、大変な旅だったでしょうけども、旅の途中で、しかも豪華な
     都や宮殿の中でなく、美人の中でもなく、そういう寂しい寒村の
     林の中で亡くなった、
      そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れと、尊敬
     というか、そういうものを感じます。
      人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じます。
ナレーション: 仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
     修行僧たちに説きました。
      そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、訊ねます。
      修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙っていました。
      そこでアーナンダは、この様言いました。

        尊い方よ。
        不思議であります。
        珍しい事であります。
        私は、この修行僧の集いを
        このように喜んで信じています。
        仏陀に関し
        あるいは、法に関し
        あるいは、集いに関し
        あるいは、道に関し
        あるいは、実践に関し
        一人の修行僧にも
        疑う疑惑が起こっていません。

ナレーション: 満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。

五木さん:  さー、修行僧たちよ。
        お前たちに告げよう
        もろもろの事象は
        過ぎ去るものである
        怠ることなく修行を完成なさい 」

      ・・・と。
      こう、言った訳ですね。
      仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言いますか、
     宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後に一言で、
     もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、変化しないもの
     はない。
      こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、怠る
     ことなく、その真理というものを学びなさいと、こういう風に、
     あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る様に、語りつつ、
     仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
      仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人と同時に、
     そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝道の人であ
     った。
      死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理というもの
     を語り続けようとした。
      ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間としての
     魂のやわらかさ、そういうものを感じないではいられません。
      体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界や商人
     たちとも語り合う、それでいて、差別された人々とか偏見を持
     たれた人々に対して、まったく率直に、そういう人々の立場に
     立って、ものを考え、法を説くという、こういう事を考えますと、
     仏陀の持っている現代性といいますか、こういうものの大きさを
     改めて感じたことでした。仏陀のイメージが随分変わりました。
                            (つづく)